第5話:素数共鳴器
深夜のキャンパスは人通りがなく、おい茂る木々は不気味である。白い花が甘い芳香を放っているが、暗闇の中で浮かび上がるそれは、結城稔の心をざわつかせる。
ひと昔前であれば、防犯という名目で街灯がキャンパスを煌々と照らしていたはずである。だが、電気料金の負担という現実の前では、防犯という観点は往々にして無視される。そういう世の中であった。
不運だったと政治家は言い訳をし、必然だったと歴史家は評する。そして、マスコミは当然のごとく、どのように世論をあおったかを忘れている。
およそ、二十年前、日本は脱原発社会を実現した。放射能汚染はなくなった。また、徹底した検査により、農薬・化学物質汚染が排除されていた。厳罰化による犯罪の激減、多種類の法による建築物、産業機械の安全規制・環境規制と併せて、世界一安全でクリーンな国を実現していた。CO2規制も国に余裕がある時は問題なかった。当時、マスコミも、政治家も、学界も、自画自賛した。だが、代替エネルギーは十分ではなかった。
きっかけは、中東のある王国の後継者問題。それが、石油公社の贈収賄、メジャーへの反発に波及し、同種の問題を抱える産油国の大衆が同調した。あっという間に原油価格が三倍に跳ね上がった。そして、体力のない国から没落していった。日本は、エネルギーを含めた資源問題、公的な借金、遺伝子等の新技術産業への参入の遅れといった要因で、身動きが取れなった。薄皮一枚で成立していた国家経済は、一つの風船が割れると、次々にそれが連鎖し、衰退した。最初に燃料費の割合が高かった漁業、次に機械に依存していた農業、ロボット化された製造業といった順で産業が崩壊し、日本人の流出、移民の増加を引き起こした。その結果、残った産業は、観光、情報セキュリティ、健康食を含む美食と教育であった。もちろん、美食、教育は、貧しい日本人が対象ではなく、お金持ちの外国人、外国人子弟が対象であった。沢村みさの勤める湘南国際大学は、学生の約半数が中近東出身者であり、その割合は、偶然にも彼女の血の割合と一致していた。
打ち放しコンクリートの建物の地下には研究室が並んでいた。廊下の突き当たりの小ぶりの教室ほどのスペースが、みさの実験室であった。扉をあけると冷却水が循環する騒音に交じって、スコン、スコン、スコンという規則的な音が聞こえる。部屋の中央部には直径50センチ、長さ2メートルほどのステンレス製円筒が横たわっている。電解研磨されたその表面は鏡のようであり、一目で、この部屋の最重要装置だと分かる。円筒からたくさんの短いパイプが左右突き出ており、その先にはむき出しのガラスファイバーの束がつながれ、それが四方の直方体状のラックへと接続されている。背の高さほどもあるラックの下から上まで平たい黒い箱が収納されておりパネルの緑色のランプが明滅している。おそらく、これら一つ一つがレーザーユニットなのだろう。部屋の主であるステンレス円筒の片側の端には、磁場を発生させるためのコイルが並んでおり、その中央には、直径20センチほどのガラス円筒が配置され、その中でプラズマが赤い光を放っている。プラズマを生成するのは、壁際に配置された高周波源であり、冷却水が循環して大型真空管を冷やしている。この装置の場合、プラズマは素数共鳴器の基本波である物質波を構成している。反対側の壁には、大きな液晶モニターが並び、そこに髪のながい女が座っていた。
沢村みさと結城稔が入ってきたのに直ぐ気がついた彼女は、くるりと椅子を回転させた。
「おかえりなさい、みさ先生。あら、その方が結城先生?」
彼女はハスキーな声と、明るい笑顔で二人を迎えた。サンダルからのびるすらりとしたオーバーニーソックスと丈のやや短い白衣は、艶めかしい太ももでつながっており、結城はいつになくドキリとした。真ん中から左右に分けた茶色の髪の下には、いかなるものも見通しそうな切れ長の目、濃い化粧で白さを際立たせた肌、くっきり紅を引いたかわいらしい唇があった。沢村が幼さの残る美女だとすると、彼女、百瀬明美は、毒のありそうな大人の美人とでも形容したくなるが、百瀬の方が沢村よりも若いはずである。この時、太ももに気を取られた結城は、百瀬の胸が薄いことを見逃していた。
みさは、百瀬を優秀な助教といって、結城に紹介した。そして、のぞき窓から、金色の平たい箱、おそらく素数共鳴器と思われるものをしげしげと吟味した。四方から照射された緑色のレーザー光の中に浮かび上がる金色の箱は幻想的である。
「なかなかきれいに仕上がっているじゃない。それにしても早いわね」
「張先生に無理を聞いてもらったの」
「で、何か要求された?」
「あたしとデートしたいって」
そう言って、ニヤリと唇を歪ませた。沢村は大きな目をさらに大きくして、
「冗談でしょ!」
と唸った。
「残念ながら、冗談よ」
と、至極残念そうに百瀬は答えた。
「そう、よかったわ。で、伝票はまわしてくれるって言っていた?」
「実費に色をつけて伝票を作るって言っていたわ」
「昨日頼んで、もう出来上がっているのだから、多少のことは仕方がないわね」
「改造したのですか?」
と結城は口を出した。自分の存在を忘れてもらっては困るとでも言いたげである。沢村は彼の方を振り返って。
「あら、昨日、第三オアシスを教えてくれたじゃない。それに合わせて共鳴器のサイズを変更したのよ」
「えっ! 昨日見つけたあの数を使っているのですか?」
「そうよ。何か不服でもあるの?」
「大いにあります。まだ、あの数は、素数だと証明できていません。素数である確率は99.7%ですが、100%ではありません」
「……まったく、数学者は頭が固いわね。物理屋にとっては、99.7%は100%と同じよ」
「ですが……」
「いいから、黙って、見ていて。世紀の大発見、大発明をこれから見せてあげるから」
今度は、百瀬の方を振りかって、尋ねた。
「で、どう? すぐできそう。位相プレートの配置は問題ない?」
「そうですね。共鳴器のサイズが変わったので、位相プレートの配置は最適ではないのですが、これでも、まあまあいけそうです。表面粗さは、レーザー波長の百分の一ぐらいまでは調整できそうです」
「百分の一波長だとすると……」
腕組みをして考え込む沢村に、百瀬が反応する。
「基本波となる物質波の10倍程度です。でも、粗さがランダムだと、実効的な共振器長は平滑化されて、かなりいいところまで行くと思います」
「本当にランダムならね」
「どちらにしろ、位相プレートを使って、共振器長をスキャンしますから、本当に素数モードが立てば、すぐ反応があるはずですし、一つとなりの約数モードなら、今までどおりに、うんともすんとも言わないはずですから」
結城は、おとなしく黙っているつもりだったのだが、二人の会話に素数、約数という言葉が出てきて、興味を抱いた。
「約数モードって重要なんですか?」
みさは、何かを言おうとして開いた口を閉じて、結城の方へ振り向いた。そして、しばし黙考した。結城の存在を忘れていたようである。
「えーと、どこから説明したらいいかしら…… 隠ぺい次元と実次元の非線形相互作用の話は聞いたことがある?」
「あります」
「共鳴器の長さが素数であると、基本波と相互作用できるのは素数モード、つまり、共鳴器の長さを一波長とするモードだけなの。だけど、もし長さが素数でないと、約数があり、相互作用するモードの数は複数になるの。そうすると相互作用自体が弱くなるから、隠ぺい次元から取り出せるエネルギーも小さいと予想されているわ」
「そこまでは、なんとなく、わかるのですが…… 僕が疑問なのは、エネルギー小さいとだめなのでしょうか、ということです」
「う~ん。だめではないけれど…… クリアな実験ができない点が一番問題かしら。2つほど問題があるわ。約数が多いと取り出せるエネルギーが激減して、観測がむずかしくなるの。もうひとつは、約数モード間の相互作用が複雑になるの。ただでさえ、非線形でややこしいのに、それがさらに複数あると、どんな振る舞いをするかほとんど予想できないのよ……」
「でもそれだと、普通の数、約数がいっぱいある数だと、どうなるんですか。適当に共鳴長さを決めて実験すると、たいてい約数がいっぱいあるので、いつもおかしなことが起きることになりますよ」
「そこが隠ぺい次元との非線形相互作用の面白いところ、厄介なところなの。約数がたくさんあると、それだけエネルギーが分散して、非線形性が弱くなって、何も起こらないのよ」
「つまり、素数だと一つの相互作用しか起こらないので、作用も強く、現象も単純。約数がごく少数あると、相互作用は強いが、複雑で振る舞いが予想できない。そういうことでしょうか?」
「そう。数学屋にしては案外わかっているじゃない」
「数学屋にしては、というのは余分です」
「それに、制御も難しいわ。外部から与える基本波の位相を調整してエネルギーを取り出すのだけれど、位相が90度ずれると、エネルギーの向きが変わるわ。つまり、下手をすると実次元のエネルギーが隠ぺい次元に吸い取られてしまう」
「だとすると、ブラックホールみたいですね」
「そう、それが、ブラックホールそのものという理論もあるわ」
「なんだか、危険ですね」
「あはは。危険ならそれはそれでいいわ。だって、今まで、世界中のグループが実験して、塵ひとつ動かないぐらいだから…… とにかく、約数は避けたい。だから共鳴器のサイズをナノメートルサイズで調整したいのよ」
「それで、別の研究室に頼んでこの金色の箱を再加工してもらった、寸法直しをしたというわけですか?」
「そう。でも加工だけじゃダメ。微妙な温度変化、あるいは、重力の変動、結晶内の欠陥の移動、ほんのちょっとした作用が共鳴器を膨張させたり、収縮させたりする」
「それじゃ、どうするのですか?」
それまで、黙っていた百瀬が口を開いた。
「そこで、あたしの作った、自動光圧調整機構が威力を発揮するのよ。共鳴器表面にレーザー光をあてて、光の圧力で表面を押すのよ。そうやって、表面が平らになるように調整する。レーザー光の強度と照射位置を制御するのが位相プレート、表面の滑らかさを測定するのが、干渉計。さらに、測定値をフィードバックさせてやれば、およそ、一ギガ個の表面ポイントを一マイクロ秒ごとにナノメートル単位で調整できるわ」
「一ギガ個ですか、すごい数ですね」
「でしょう。そのコードを作ったのがあたし、コードを実行するのはクリスタルキューブよ」
「えっ! クリスタルキューブ?」
「そう。1ギガのデータをパラレルに処理できるのは、これだけよ」
結城はするどい目つきでみさを見つめた。
「持っているじゃないですか」
みさは目をそらした。
「ひょ、表面制御に使っていたのは、忘れていたのよ。それに…… このクリスタルキューブは明君が使っているから、私が素数計算のために自由に使えるわけじゃないのよ」
怒っていた結城は、みさの言い訳に違和感を覚えた。何が違和感を生んだのだろうか?
「あれ? 沢村さん、今、百瀬さんのことを明君と言いました? 明美さんじゃなかったでしたっけ?」
みさは、あつと小さく叫んで、百瀬と結城の顔を交互に見た。百瀬は不機嫌な顔をしてこう言った。
「みさ先生! ばらしちゃだめですよ。せっかく、結城先生が鼻の下をのばしていたのに」
「ご、ごめん。ついこの間まで、明君だったから……」
結城はまだわからない。
「えっ? ついこの間まで?」
百瀬は、あきらめたようである。
「そう、ついこの間まで男だったのよ。でも、余計なものは切り落としたわ」
「切り落とした?」
「あっ! 結城先生は切り落としちゃだめよ。後で、あたしが面倒を見られなくと困るから」
そう言って、百瀬は妖艶な笑みを浮かべた。結城は体を凍りつかせた。
みさが咳払いをした。
「準備ができたのなら、始めましょうよ」
「あたしの方はOKよ」
「それじゃ、私は、プラズマの方をモニターするから、明君は自動光圧調整機構を見ててくれる? もし、エネルギーが出始めたら、温度上昇で調整が追い付かないかもしれないから、徐々に高周波出力を上げていくわよ」
「了解」
みさは、高周波発振器のメーターをざっと確認すると、百瀬の隣に座った。百瀬は、何やらぶつぶつ呟いて、ログノートに実験メモを記録している。
結城は何も付いていないガラス窓から金色の箱を覗き込んだ。本当の所、結城は信じていなかった。これでエネルギーが取り出せるとは思えなかった。希薄なプラズマで満たされるとしても単なる平べったい箱である。実空間とほとんど相互作用しない隠ぺい次元と、夢想にすぎない並行宇宙は、結城には同じことだった。両方ともその存在はいかなる方法でも証明できないのではないか。だとすれば、それを研究することは無意味である。並行宇宙の物理法則、隠ぺい次元の物理法則が同じだという保証はない。だけど、数学は違う。並行宇宙でも隠ぺい次元でも数は存在する。もしかしたら次元ごと量子化されていて、実数や虚数は存在しないかもしれない。だけど、整数は存在する。そして、整数があれば、素数がある。だから、素数の研究は意味がある。たとえ、人類が存在しなくても、この宇宙が消滅しても、素数は存在する…… 結城は数学を志した頃に思いを馳せた。そして、素数との戦いの戦友となるはずだった女性に思いを馳せた。
谷川夢子はしとやかな女性であった。少なくとも結城はそう思っている。教室の最前列左端に座って、時折、腰まで届く髪をかき上げる他は、決して目立とうとしなかった。押しに弱く、同じ数学科の学友に囲まれて、目を伏せて困った顔をしていることもよくあった。結城とは波長があったのだと思う。いつの間にか、並んで講義を受けるようになった。いつの間にか、図書室で同じ本を手に取るようになり、気がついたら、食堂で向かい合って食事していた。別につき合っていたわけではない。だが、二人とも整数論にひかれた。大学院では同じ研究室に所属し、キャンパスにいる間は、同じ部屋の空気を吸った。そのころには、結城は明確な好意を抱いていたし、彼女もまたそうであることを疑いもしなかった。だが、彼は見落としていた。キャンパスだけが活動の場であるとは限らないことを。
博士論文を意識し始めるころになると、二人の違いが徐々にあらわになった。結城は、学会でちょっと注目されるような成果を上げていた。一方、谷川夢子は、ある問題、ある証明ができなくてつまずいていた。数学ではよくあることである。たまたま、簡単に証明できる問題だったり、どうやっても証明できない問題であったり、それこそ、三百年以上かけて解けた問題だってある。
そんなある朝だった。結城はいつものように、3Dテレビをつけて、音だけ聞きながらパスタを茹でていた。知った名前、谷川夢子の名前が耳に入った時、結城は、丁度、パスタの茹で具合を確かめていたところだった。結城はテレビにかじりついた。彼のいる大学の男女が大阪のラブホテルで心中を図った。発見時、二人は全裸で、男は死亡し、女は意識不明の重体。そばに薬品が入っていたと思われるビンが残されていたことから、服毒自殺と推定されることを女性アナウンサーが淡々と述べた。だが、結城には、そのアナウンサーの目が気に入らなかった。結城を嘲笑っているように見えたのだ。そして、その日、結城は茹でたパスタがどうなったのか記憶がなかった。
大学の研究室にはスポーツ誌、女性週刊誌の記者がカメラマンを伴って押し寄せていた。頭でっかちでひ弱なエリート大学生、将来を嘱望されていた学生の挫折、心中の古典と同じ場所をわざと選んだ、化学の知識を用いて自ら毒薬を合成した、そう言った見出しを正当化するための取材をしていた。中には、結城を含めた三角関係を疑う記者もいた。そして、結城は夢子との関係を強く否定した。こうして、彼は自身の感情を凍結させた。
結城の親友だった男は死亡し、夢子は一命を取り留めたものの、植物状態になった。そして、二年後に病院で死んだ。結城が素数にのめりこむようになったのは、このころからである。それは、ちょっとした幸福と大いきな災いを招いた。素数オアシスの発見と、准教授への就任が前者である。そして、一つしか存在しないと予想した素数オアシスがもう一つ見つかり、彼の評価は半分以下に落ちた。だが、その災いは、大いなる成果に転ずるはずである。第三オアシスの存在を証明できたと結城は思っている。だが、気がつかない間違いがあるかもしれない。だから、それを見つけようとここ半年ほどコンピューターと格闘した。それが、もうすぐ明らかになる。それは、彼だけのイベントであった。いや、正確には、純粋数学に彼が貢献するという数学界のイベントとなるはずだった。
ところが、それを利用しようする人々がいて、今、目の前で、それを実証しようとしている。結城は数に興味があっただけで、それに利用価値があるなんて露ほども考えていなかった。今この瞬間も、彼は利用価値があるとは信じていない。だが、目の前にはそれを信じ、研究している人がいるのだ。彼には、それが不思議であった。
日本の命運、人類の未来はおろか、自分の運命にさえ興味がなかった。ただ、夢子が心中、無理心中と結城は思っているのだが、それに巻き込まれなければ、今、この実験に結城が立ち会うという状況は起きなかったはずである。あるいは、夢子に出会わなければ、もっと違う人生を結城はたどったはずである。彼は、何年も封印していた感情がうごめくのを感じた。永遠に答えのでない疑問、夢子は結城に好意をいただいていたのかという疑問が、厳重な封印をかいくぐって浮かび上がってくるのを感じた。
もちろん、当時、結城は彼なりに疑問を解こうとした。親族が固く面会を禁じていた植物状態の夢子に会いに行ったのだ。病院のセキュリティコードを解析し、不正カードを作って侵入した。
常夜灯がほんのり照らし出す病室に夢子は仰向けに寝ていた。肌には生気が無かったが、長い髪には艶があり、呼吸に合わせて胸が上下していた。結城は耳元で名前を呼んだ。肩をゆすり、手を握り、恐る恐る人差し指で唇に触れた。そして、ずいぶん長い時間、髪をつまんでいた。こすり合わせるように、撚るようにつまんで、夢子が起きるのを待った。だが、何も起きなかった。白み始めた空に気づいた結城は、ため息をついて立ち上がった。漆黒の髪を一本持ちかえるかどうか思案してやめた。夢子のいない宇宙では、感傷は無用であったから。
結城が我に返ると沢村みさがカウントダウンをしていた。
「3,2,1、スタート。加速電圧1kV。プラズマ密度変化なし。引き出し電流は、1ミリアンペア。そっちはどう?」
「何も変化はないわ。温度センサーがふらついているけれど、多分、プラズマの流入によるノイズだと思うわ」
「まあ、この加速電圧では何も起きるはずないわ。それじゃ、次のステップ。加速電圧を100キロボルトまでリニアに上げていくわよ。オートモードで約10分」
「こっちはOK」
「よし。スタート」
二人ともモニターのグラフを一心に見つめている。
「みさ先生、物質波が観測領域に入りました…… えーと読み値で3.0です」
「えーと、昨日はどのくらいまで行ったの?」
「9.0ぐらいまでです」
「そう、共振長はあまり変わっていないから、今日も同じぐらいまでは行くわね。素数波の方も見ておいてね。何か出るかもしれないから」
「わかっています。X線から、マイクロ波まで、5種類の超高感度検出器を用意しているから、ばっちりよ。なんせ、熱雑音も見えるぐらいにチューニングしているから」
みさの見ているモニターでは、加速電圧が順調に増加していた。百瀬のモニターの方では、物質波の信号が階段状に増加しており、その他の超高感度検出器群は、一定値を中心に上下に細かく揺らいでいた。
「地震?」
結城は、建物が揺れたように感じ、天井を見上げた。つり下がったLED灯はまったく揺れていなかった。結城の声につられて天井を見上げた二人は、直ぐに視線をモニターに戻した。
「あれ?」
百瀬が小声で呟いた。すかさずみさが問うた。
「何?」
「えーと、赤外モニターが下がっている」
「下がっている? 熱雑音を見ているはずじゃなかったの? だったら下がるはずがないわ」
「でも、下がっている。変だなあ~」
沢村の顔色が変わっていく。
「物質波は?」
百瀬の顔色は濃い化粧のため白いままである。
「読み値は…… あれ下がっている。さっきは5.0だったのに3.5まで下がっている。徐々に下がっている」
沢村が叫んだ。
「逆流よ! 止めて! 自動光圧調整を解除するのよ!」
結城はずっと装置を見ていた。地震ではなかったし、めまいでもなかった。空間が揺れている、空間が歪んでいるのだ。その源はステンレス容器内の金色の共鳴器であった。みるみる金色の共鳴器が縮んでいく。まるで目に見えない恐竜が金色のガムを噛んでいるように縮んで丸まっていった。こうなっては、光圧による共鳴器の調整など意味をなさない。球状に丸まった金色の物体はさらに収縮を続けとうとう見えなくなった。続いて、ステンレス容器、ガラス窓に真っ白な霜が降り始めた。そして、一番近くのガラス窓がピシリと音を立てた。さすがに、事態が尋常でないことに結城は気づいた。
結城が装置に背を向け、床を蹴って前方へ飛ぶのと、みさが結城に向かって『逃げて!』と叫ぶのが同時であった。
結城の背後で、パンと乾いた音を立てて一枚のガラス窓が割れ、続けざまにガシャガシャとすべての窓が割れた。結城の飛んだ先では、みさがひきつった顔を見せていたが、飛んだのは、結城だけでなかった。無数のガラス破片が四方へ飛び散り、そのうちのうちのいくつかは結城の背に深々と刺さった。