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第4話:アイコンタクト

 朝もやの立ち込める運河にはいつも通りの水量といつもの匂いが戻ってきていた。いつものようにぐっすり眠った沢村みさは、久しぶりに青空が望めそうな空を見上げて、一日の予定を思案した。結城が言った約束の時間までは、まだだいぶある。一旦、家に帰って、着替えるのも悪くないし、職場である大学に寄って、昨晩、指示した改造に助教が着手したかどうか確かめるのも悪くない。どうせ、家に帰るなら、わざわざ結城の家に泊まる必要はなかったのだが、過去のことは考えない、自分に都合の悪いことはすぐに忘れるというありがたい性格を彼女は付与されている。

 コンピューターの前でうとうとしている結城に、朝ごはんを買ってくるといって、倉庫の家を出た。そのまま、家に帰ることも考えたが、弟と父親以外の男のために、朝ごはんを作る初めてのチャンスだと気づき、家に帰るのは後回しにすることにした。

 卵とベーコン、牛乳とロールパン、キュウリという朝食の素材をいれたレジ袋をやや振り回し気味に、彼女は倉庫近くまで戻ってきた。そんな彼女の視界に黒衣の怪しげな人々が写った。一人は、黒光りする革靴、黒のスーツ、グレーのネクタイ、色の濃いサングラス。他の二人は、黒い運動靴、黒ジーンズ、黒ポロシャツにやはり色の濃いサングラスである。倉庫の方を見ながら何やらひそひそ話している。

 みさは、耳がいい。黒スーツの男が結城の名を言ったように、彼女には聞こえた。彼女はレジ袋を振り回すのをやめて、冷静に考えた。そして、角の手前まで数歩下がって、結城に電話をした。結城はすぐに事態を理解し、沢村に、コンビニから戻ってくる途中の橋のところで、待つよう指示した。

 結城が狙われるとしたら、二つの可能性がある。第三オアシスと呼ばれる素数をねらっているか、裏稼業の暗号破りがばれたかだ。どちらも、厄介な事態を招きそうである。急いで、クリスタルキューブを取り外し、パンダ型怪獣とともにデイパックに入れた。そして、倉庫の扉を激しく叩く音を聞きながら、みさの芳香の残るシーツをベランダから垂らして、それを伝って、運河沿いの痩せた堤防に降り立った。

 みさに指示した橋のそばに来たときには、全身から汗が噴き出ていた。荒れた息を整えながら、彼女に近づこうとして、橋の丁度、真ん中あたりで、結城は歩みをとめた。青ざめた彼女の後ろに黒いスーツを着た男が立っていたのだ。引きしまった体躯、彫の深い顔にサングラス。見るからに怪しげな男である。しかも、黒光りする拳銃らしきものを持っている。

「……」

結城は、驚きで言葉が出なかった。うまく逃げられたと思ったが、彼女の方が捕まったのだ。

「女の命が惜しいでしょう。数字を渡しなさい」

という丁寧な日本語には、外国語の訛りがある。結城は、男の狙いが、数字であることにややほっとした。犯罪である暗号破りの方に用があれば、今、逃げるだけでは済まないからだ。と同時に、黒服の脅し文句があまりに陳腐で、思わず、笑いそうになった。どこかのB級ハードボイルド映画を見ているような気分だった。橋の下を屋形船がゆっくりと下流へと動いていく。まるで、映画撮影など、どこ吹く風といった風情だ。結城は黒服を鼻で笑った。

「拳銃は、どうせ、おもちゃなんだろう?」

「おもちゃかもしれない。試してみましょうか?」

男はニヤリと笑った。長い筒をスーツの内ポケットから取り出し、拳銃の先にねじ込んだ。結城のB級映画の知識によれば拳銃の消音装置である。もしかしたら本物の拳銃かもしれないと彼は思ったが、確かめるすべはない。

「女の命はくれてやる。どうせ行きずりの女だ。好きにしろ。僕は、交番に行くよ」

そう言って、結城はくるりと背を向けた。変にかばうよりも、みさを知らないふりをした方が、彼女は安全であると読んだのだ。みさが信号のように顔色を青から赤に変えたことは見なくてもわかった。

「交番には行けません」

黒服は、そう牽制して、拳銃の遊底を引いた。走りだそうとしていた結城が立ち止まると、黒服は続けた。

「オラクルの手下ですね。警察に行っても逮捕されるだけです」

結城は振り返り、一瞬、呆けた顔を見せた。それから、状況を理解しようとした。

「何のことだ?」

彼は、顔をこわばらせて答えた。解を、打開策を必死で考えた。

 基礎から一つ一つ論理を組み立てていくのが彼の流儀であり、彼の仕事そのものであるが、今は、そんなことは言っていられない。沢村は顔を真っ赤にして、右眉をピクピクさせている。

 女を捨てるか? 黒服までの距離は5メートルほど、自分だけなら弾に当たらずに逃げ切れる…… 彼はため息をついた。そして、合図を送った。彼女もアイコンタクターなら、チュートリアルでやった英数字入力はできるはずだ。両目を用いたまばたきで信号をやりとりする。

『issyoni nigeruka?』

『un』

『sukiwo tsukure』

『?』

『kidoushiro. hikariwo otokoni atero』

『ok』

およそ、10秒ほど。ヘビーなアイコンタクターなら何てことはない。

 黒服の男は、唇の右端を釣り上げてニヤリとした。

「顔が引きつています。ふふふっ、おとなしく数字を渡しなさい。そうすれば、警察には黙っていましょう」

ブラフだ。この黒服も警察には関わりたくないに違いない。黒服は、銃口をみさの脇腹に突き付けている。みさが時計型端末を上にして左手をゆっくり持ち上げる。男は、何事かと視線をおろした。結城が、

「どちらにしろ、逃げるしかないな」

と言うと、男は視線を戻し、今度は銃口を結城に向けた。狙いをやや下に落とし、何の前触れもなく引き金を引いた。『ギューン』という音が足元から響き、砂塵が舞った。おもちゃの拳銃ではないこと、射撃の精度が10センチ以下であることが分かった。結城はごくりと唾を飲み込んだ。

 みさが、アイコンタクトで

『start-p-h』

とまばたきをした。startは起動コマンド。pはプロジェクターモード、hはおそらく、光の強度をhighにするオプションだ。年々、コンピューターの処理能力が上がっていくが、不思議なことに、起動は速くならない。処理能力に合わせてOSが重たくなっているのだ。結城は、起動するまでの時間を数えた。あまりにも遅い。冷や汗が額に浮かぶ。

 その時、黒服の男がイヤホンに手をやった。仲間からの通信なのだろう。右手の銃口は結城に向けたままだ。男は時々頷いている。そして、唇の右端を釣り上げてニヤリとした。

「どうやら、数字が見つかったようです」

結城の手書きのメモを見つけたのか、あるいは、コンピューターを立ち上げてログを調べたのかもしれない。男は、銃口の狙いをやや上、結城の胸に向けた。男が

「もう、お前に用はありません」

と言った。引き金を引くのと、PCが立ち上がり、プロジェクターの光が彼のサングラスに当たるのとが同時であった。『シュ!』と音を立てて弾丸が結城の耳の横を通過していく。

「くそ!」

 男が悪態をつく。時計型端末は、立ち上がり時には比較的細いビーム光を出して、その光が当たったところをスクリーンと認識する。光の広がりを徐々に広げて、自動でスクリーンの境界を探し調整する。スクリーンの動きにも自動的に追随する優れものだ。その結果、5000ルクスの白色光が彼のサングラスを1秒ほど、彼が左手でサングラスを覆うまで、照らし続けた。

結城は

『jyuuwo keriotose!』

と信号を送るが、彼女は、すでに、とがった靴先で男の脇に蹴りを入れていた。肋骨にひびが入ったかもしれない。男はうずくまるが、銃は手放していない。沢村は、こちらに向かって必死に駆けだした。

 彼女が来るのを確認して、結城は運河沿いに走りだした。後ろで、沢村が「結城のバカ!」と叫んでいる。もう一弾が『ギュン!』と音を立てた。今度は、そばの柔らかい建物の壁に弾丸がのめりこんだ。今は、ほんの一秒でも男の銃口を避けたいのに、沢村が叫んでいては、どっちに向かったか男に分かってしまう。バカはどっちだと思いながら、結城は、地面をけって運河に向かって跳躍した。屋形船の屋根の上にタンと降り立った。膝を沈みこませたので、音はしない。船長も気づかなかっただろう。

 結城が振り返ると、沢村が鬼のような形相で走ってくる。レジ袋を振り回しながら、跳躍し、ドンと屋形船の屋根に着地した。結城は操舵室から船長の怒号が聞こえないか耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。代りに『シュ!』と音を立ててもう一弾が耳の横を飛んで行った。振り返ると霧の中で黒服が拳銃を構えていたが、直ぐに霧で見えなくなった。船は何事もなかったように進んでいる。もう、運河の両岸の歩ける堤防は途切れたから、たとえ黒服が追ってきても船に飛び移ることはできないだろう。

 今にも怒鳴り散らしそうな沢村を制止して、結城は静かに息を吐いた。そして、乾いた唇をほんの少しなめてからこう言った。

「いい演技だったよ」

「へ?」

沢村は何がなんだかわからないようだった。

「多分、僕のバカな親友が映画撮影の練習でもしたんだと思う」

とでたらめを言った。

「そ、そうなの。カメラなんか見えなかったけれど…… とにかくひどいじゃない。撮影なら撮影と言ってくれればいいのに」

沢村は、ありもしない寝ぐせを抑えつけた。

「あいにく、僕の親友は人を驚かすのが趣味だから」

 対岸に歩道が見えてきた。

「次のシーンは、もう一度ジャンプだ」

そう言って、結城は助走をつけて対岸にジャンプした。沢村は、レジ袋を振り回しながら、彼の後に続いた。

 結城は、早足で、二番目に近い駅に向かった。一番近い駅だと黒服が追ってくると考えたのだ。歩きながら、黒服の言葉を思い起こしていた。

 わからないことだらけだった。黒服はオラクルを知っていた。ということはオラクルが捕まったということであろうか。しかし、昨晩の通信は正常だった。黒服の目的は、オラクルを捕まえることではなく、数字、結城が昨晩から計算していた第三オアシスが目的であった。しかも、数字を手に入れたとわかった途端、結城の命を狙った。

 結城は数学界からは無視されていたが、素数共鳴の関係者は、彼を忘れてはいなかった。だから、彼の動きをずっと監視していたのかもしれない。それにしてもタイミングが良すぎる。昨晩、第三オアシスと思われる数を見つけた。それを知っているのは自分とみさだけである。ということは、彼女が手引き、密告したのだろうか? もし自分がその立場であったら、黒服を発見した時に携帯電話で知らせるようなことはしない。それとも演技だったのだろうか? 黒服に拳銃で脅されるのも含めて演技だったのだろうか? 結城は、頬を膨らませて機嫌を直そうとしない彼女を横目で観察した。言われた通り演技ができるほど素直な女には見えない。

 結城は別の観点から振り返った。彼自身は素数共鳴の関係者とは距離を置いていた。素数共鳴に半信半疑だったこともあるが、応用には興味がまったく湧かなかったのが理由である。彼の興味は人間も神も超えたところにある。数学、中でも整数こそ彼の興味であり、今の彼のすべてであった。暗号解読は、研究費を稼ぐ手段にすぎない。犯罪であろうと、誰かが迷惑しようが、どうでもよかった。だから、第三オアシスを発見したのであれば、当然、それを公表するつもりだった。具体的な数字が何であろうと、彼の定理がその存在を証明していることの方が重要だった。

 第三オアシスがほしければ待てばいい。結城が計算しなくとも、いずれは、誰かが計算するであろう。でも、彼の定理がなければ、あるいは万が一にも間違っていれば、第三オアシスは存在も存在領域も不明である。だから、定理の方が重要であった。

 そこまで考えて、結城は重要なことに気がついた。定理が知られなければ、誰も探さないかもしれない。あるいは見当違いの領域を探すかもしれない。もし、誰かが、第三オアシスの存在を封印したいと思えば、定理ごと結城を抹殺すればいい。だから、黒服は数字だけでなく、結城を狙ったのだ。結城が下手に警察につかまっては、彼らが困るのだ。

 結城は、命の危険なんて考えたことがなかった。12年前、片思いの女性が死にかけた時、マスコミはラブホテルのあった町の名前から曽根崎心中とはやし立てて報道した。結城も殺されれば、同じようにマスコミ取り上げられるのだろうか? それとも、今時、大学の教員の殺人なんて珍しくないから取り上げられないのだろうか? そもそも死体が残らないように処分されれば事件にもならない。彼の妄想は悪い方へ悪い方へと広がっていく。

 警察に自主して保護してもらうことも考えたが、その前にやらなければならないことがあった。第三オアシスを確認すること。昨晩、見つけた数字は99.7%正しいが、100%ではない。確認にはリュックに入れたクリスタルキューブをもう半日ほど稼働させる必要がある。それに、定理と数字を論文に仕上げて投稿しなければならないし、その論文をチェックする査読者と神聖なバトルをしなければならない。査読者は定理が間違っていないか、あらゆる方面から叩くのだ。そうやって、叩かれ、それに対応して、埃も出なくなって初めて論文の価値がでる。だから、この査読者とのバトルは絶対に外せない。だが、そのためには、数か月の時間が必要である。それまでは、警察にも黒服にも捕まるわけにはいかない。

 結城は、世の草食系男子の例にもれず、自分は早死にすると思っていた。しかし、それは、漠然と死を意識していた時の話である。今の彼のように具体的な死が意識できるとなると、草食系だからなどと、言ってはいられない。

「どうしたの、オジサン? 青ざめているわよ」

鈍感なみさが心配するほど、彼の顔色は明らかだった。

「撮影は終わったの? 家に戻らないの?」

「家には戻らない。撮影ではないから」

「……」

沢村を大きく目を見開いた。

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