第3話:オラクル
上流のバイオ型下水処理施設は、環境基準ぎりぎりの匂いと熱を帯びた水を排出し、それが細い水路に流れ込んでいる。運河と呼ばれているが、かろうじて小型船が通れる程度の幅しかないし、また、その上を渡る橋の高さも低く、よほど背の低い船でなければ容易につかえてしまうだろう。つまるところ、運河としてはほとんど機能していない。それなら、いっそ蓋をして暗渠としてしまった方が、住民はありがたいのだが、行政にはそんなお金は無いらしい。運河が運河なら、周りの建物もそれにふさわしい。間口の狭い古びた建物がびっしり並んでいる。コンクリートで3階建て以上ならならまだ新しい方で、背の低い木造や錆びたトタンの建物も多い。
そんな並びの中にあっては、これといって特徴のない倉庫が結城稔の借家である。道路側の一階には窓がなく、二階に、はめころしの窓がある。運河側にはベランダがあり、錆びて崩れそうな洗濯物干しがある。そのベランダから運河を覗き込んだ沢村みさは
「なんだか匂いそうね」
と言った。実際、雨が降っていなければ匂っていただろう。だが、結城は彼女の感想に相槌も打てないほど手元に集中していた。
慣れた手つきで、クリスタルキューブを箱の中に固定し、電源コード、制御ライン、水冷パイプをつなぎこんで、ぶつぶつ呟いている。
「よし、今回はうまくいってくれよ」
没頭し始める結城に、みさは不安を覚え、約束をもう一度繰り返した。
「ぴったり、24時間よ」
結城の予想によれば、運が悪くても20時間あれば、第三の素数砂漠とオアシスを発見し、さらに、十進数で20桁の領域まで、他の素数砂漠とオアシスがないことを確認できるはずであった。
「ああ、わかっている。たぶん、もっと早くに終わるよ。そのへんでくつろいでいてよ。本でも、データキューブでも何でも触っていいから。ああ、それから無指向赤外線ステーションもあるから、この部屋ならどこでもつながるはずだ」
そう言って、結城は、本棚の最上段に鎮座した黒い小箱を指差した。そして、コンピューターの電源スイッチを押して、液晶スクリーンを見つめながらOSが立ち上がるのを待った。
「ログイン…… デバイス検索、三番ボード、チェックメニュー、オプションフルチェック…… 実行!」
OSは音声操作式らしく、結城は先ほどから指一本も動かしていない。すべて、音声で済ますのか思っていると、今度は、計算機の上に置いてあった透明なゴーグルをかけた。アイコンタクト付き3Dゴーグルである。先ほどと同じように呟きながら、外からは見えない、3Dオブジェクトを操作し、新たな作業を開始した。まるで、エア楽器を演奏しているようである。鍵盤を叩き、指揮棒を振り、音量つまみをいじっている。そしてゴーグルの中では、結城は、眼球を小刻みに動かせながら、しきりに瞬きをしているだろうと沢村みさは予想した。彼女もまたアイコンタクトをセカンドマウス、セカンドキーボードとして愛用しているので、その快適さと副作用は十分理解できる。彼女の場合は、右眉が時々痙攣するのが副作用だ。
筺体に設けられた窓からクリスタルキューブが見える。時折、キラっとオレンジ色や、青色の光の欠片が瞬く。緑色の層状の発光もみられる。わずかに光が漏れるのだ。まるで、銀河の中の千億の恒星の盛衰を速回し動画で見ているようである。やがて、キューブ全体が鈍い白色を呈しはじめ、温度が上昇しているのがわかる。結城は時折、キューブを覗き込みながら、動作確認を行った。
そんな結城の作業をみさは半ば感心しつつ眺めていたが、彼女は生来の女性である。しかも、美人である。だから、そばにいる人間が、自分のことを無視し、かまってくれないのは、許せなかった。
「ねぇ、私の名前は知りたくないの?」
結城は、うるさそうに答えた。
「名前? 別に」
「それじゃ、オジサンの名前は?」
彼女は、本棚の数学書のタイトルを見ながら尋ねた。
「別に」
もはや、結城がまともに応答していないのは明らかだった。彼女は、手荒に一冊のノートを本棚から取り出し、パラパラめくりだした。何が書かれてあるかなどまったく見ていなかったが、精一杯の音をたてた。それでも、結城が振り返らないので、ソファーにだらしなく寝転がった。そして、ノートを放り投げようとして、手を止めた。所有者の名前を見つけたのだ。
「結城稔って……、 あの結城? Yuki予想の結城?」
結城の眉がピクリと動いた。彼の名誉と不名誉の源であるYuki予想という言葉に思わず反応したのだ。彼は、振り返って、ゴーグルを額まで上げて、みさを正面から見つめた。
「どこで、それを、Yuki予想のことを聞いた?」
みさは、あわてて起き上がり、ありもしない寝ぐせを撫でつけながら、こう言った。
「どこでって言われても…… Yuki予想が発表されなかったら、ママも私も仕事をしていないわ」
結城は考え込んでしまった。一体、自分の仕事と、目の前の女の仕事と、彼女の母がどう関係しているのだろうか? 皆目、不明だった。
「名前、君の名前は?」
「あら、さっきは興味ないって言っていたじゃない」
「そんなこと言いました?」
「言ったわよ」
「ならば、謝る。君は一体何者だ?」
彼女は咳払いをして、バックから名刺を取り出した。
「国立湘南国際大学、応用物理学専攻、准教授、沢村みさと申します」
「で、いったい君は誰だ?」
「だから……」
どうも二つの歯車はかみ合わないようである。
計算機からポーンという電子音が発せられる。
「ちょっと待って」
と結城は言って、再びゴーグルをかけた。
「ちぃっ、やっぱり、損傷を受けた層があったか…… でも、下から2キロあたりだから…… 切り捨てるか、それとも、制御層を使って迂回するか……」
沢村みさは、またもや無視された。彼女は立ちあがって、家の中を徘徊し始めた。そして、結城が一人で暮らしているらしいこと、女性の痕跡は無造作にピン止めされた写真のみであることを確認した。若い時の結城の半身と、髪の長い少女の半身が写っていた。再生紙に安物のインクで印刷されたものらしく、紙も画像もすっかり変色していたが、少女の優しそうな笑顔は印象的である。
結城が一区切りをつけて、立ち上がった時、みさは、本棚に飾ってあったトーキョー土産を触っていた。手のひらほどの板に、トーキョーツリーとスカイタワーの模型が並んでおり、スカイタワーには、パンダ型怪獣がとりついている。一時期、はやったトーキョー土産である。いまでも、空港の子供コーナーに行けば、同じものが売っているだろう。そんなおもちゃのはずだった。
「何をしている!」
結城の鋭い声に、みさはビクリとして、振り返った。
「触るな!」
目を怒らせている結城に、彼女は驚いた。たかが、子供のおもちゃがそんなに大事なのだろうか、と不思議に思いつつも、手にしていたパンダ型怪獣を、そっと元の位置に戻した。
「それでいい」
結城が神経質になったのには理由がある。単なるトーキョー土産に見せかけてはいるが、実は、彼の裏稼業の大事な連絡手段なのだ。2-アンテナ分散型ノイズ通信。2つのアンテナで、2つの基地局からの電波を拾い、その中に含まれているノイズの相関をとることによって秘匿通信を復元するのだ。基地局の送信制御システムに割り込むのだから大がかりなハッキングであるが、一度仕掛けてしまえば、その通信が傍受される可能性はほとんどない。その送受信を行うのが、東京土産に見せかけた2つの電波塔で、投影プロジェクター、カメラ等を内蔵しているのがパンダ型怪獣だ。通信要求があった時は、パンダの目が緑色に点滅する。
この時、もし誰かが、パンダを凝視していたなら、目の奥が光ったのがわかっただろう。埋め込まれたCCD素子が焦点位置を調整したのだ。実は、結城も知らない間に、このパンダ型怪獣は秘匿通信を行っている。主人に伝えるべきイベントが起きたときに、秘匿通信路立ち上げて、収集した情報を送る。要するに高性能な秘匿通信機であるとともに、結城を見張る盗聴器でもあるのだ。そして、この時の重要イベントは沢村みさの出現であった。
結城は目元を緩めた。
「驚かせて、悪かった…… 今、クリスタルキューブをテストしている。少し損傷はあるが問題はないだろう…… ところで、君は誰だったっけ?」
「沢村みさよ」
彼女はそっけなく答えた。今度は、結城が彼女の機嫌を取る番だ。
「それで…… 沢村さん、Yuki予想がなんとかと言っていなかったけ?」
「言ったわよ」
「で、えーと、君は物理屋だったっけ。Yuki予想に関係しているのか?」
「そうよ」
「だとすると…… もしかして、素数共鳴?」
「当たり」
「ダークエネルギーを素数共鳴によって取り出そうというヤツ? エセ科学のあれか?」
「前半は当たり、後半は間違いよ」
結城は頭を抱えた。
素数共鳴のうわさ聞いている。最新の素粒子論であるスーパーストリング理論によれば、この世は10次元時空間で表される。一方、我々の認識できる実空間は、空間3次元、時間1次元の4次元時空間である。残りの6次元は隠ぺいされ、通常は認識できない。ところが、6次元空間のエネルギーが量子揺らぎによって実空間に拡散しているらしい。それが、宇宙論で指摘されているダークエネルギーとして見えているというのだ。
この隠ぺいされた6次元のエネルギーを特殊な共鳴器で実空間へ効率よく取り出すことができるという理論が10年近く前に提唱された。隠ぺいされた6次元のエネルギーと共鳴する器を実空間に設置し、共鳴によって流れ込むエネルギーを取り出そうというのだ。いわば、レーザー媒体もない、それを励起するためのエネルギーも必要ない、空っぽのレーザーだ。もし、実現すれば、永久機関のように見えるだろう。調子のいい話であるが、それに飛びつく山師、疲弊した国、名声を欲する学者も多かった。
そして、この共鳴器の要が素数であった。隠ぺいされた6次元空間のエネルギーは微小な基本波長をもつ波であらわされるが、この波は高次非線形性をもち、もとの波長の整数倍の波と非線形相互結合をもつ。さらに、大きな整数であるほど、共鳴器に許される共鳴波の数が少ないほど、大きな非線形結合を引き起こす。
たとえば、基本波長が1センチだとする。長さ10センチの共鳴器を作ると、波長1センチの6次元のエネルギーは、共鳴器内に定在波として存在できる波長2センチ、波長5センチ、波長10センチの3つの波と非線形相互作用を起こす。ところが、波長11センチの共鳴器では、基本波長の整数倍の定在波は波長11センチの波のみである。したがって、非線形相互作用はこの波としか起きない。つまり、共鳴器の長さを基本波長の素数倍にすることで、相互作用する波を一つに限定できる。相互作用する波の数が小さいほど、その波長の比が大きいほど大きな相互作用が起きるというのが、隠ぺいされた6次元の不思議な性質である。
実のところ、この理論と手法については、半信半疑というのが、学界の大多数の態度であり、何らかの実験、実証が必要とされていた。
Yuki予想は半分間違っていたが、指摘した素数砂漠とオアシスは、この共鳴器のサイズとして理想的であった。ある素数のそばに他の素数がない、つまり素数の砂漠があることが非線形相互作用を限定し、その結果、高い効率でダークエネルギーを取り出すことができると考えられていた。だが、実際の実験では、何も起きなかった。高精度測定器を用いても、兆候すら皆無であった。
共鳴器は3次元の直方体である。したがって、三つの辺の長さを指定する必要がある。当初は、三つの辺とも同じ素数オアシスとなる立方体が試されたが、最近になって、三つとも異なる素数オアシスでなければならないという説が現れた。つまり、三組の素数砂漠、素数オアシスが必要である。ところが、これまで二組は見つかったが、三組目は見つかっていないし、そもそも三組目があるかさえも分からなかった。だが、ある者は、それ、第三オアシスを血眼になって捜していた。
新しい結城の理論、定理が正しければ、三組目の素数砂漠とオアシスが確かに存在し、その桁数も分かる。つまり、宝が埋まっていることが確実で、どこを掘ればよいかが分かっているということになる。もし、関係者がこれを知れば、雲霞のごとく結城のところへ押し寄せてくるだろう。だが、結城は、そんなことには興味がなかった。ただ、ひたすら彼の定理を信じていた。
結城が計算を始めて4時間ほど経って、一つの候補が見つかった。候補と呼ばれるのは、素数である確率が限りなく1に近いからである。本当に素数であるかどうかを調べるにはさらに時間がかかるだが、結城の今までの経験は、当たりとささやいている。結城は、その18桁の数字を、手元にあった付箋に書き写した。実体のある付箋を使うところは、彼が旧人類と揶揄されるゆえんである。
すっかりくつろいだみさは、ソファーに寝そべって、端末をいじっている。寝そべっているのには理由がある。天井が白くて、画面を投影するのにちょうどよいのだ。本当ならオフホワイトのスクリーンが最適なのだが、結城が持っていないということで、いろいろ試した。A4再生紙は小さすぎるし、カレンダーの裏は光沢があるし、本棚のない壁面はない。その結果が、天井をスクリーンとして使うことだった。ブラインドタッチのできるみさにとって、キーボードやマウスを投影する必要はなく、持ってきたアタッシュケースを指で叩いたり、なぞったりする。そういう指の動きを認識する光学カメラ、画面を投影するプロジェクター、リモートホストとの通信機能、それらがすべて、時計型端末に収められている。現在、もっとも先端の携帯端末のスタイルである。それを所有できることは、研究資金が潤沢であることを示すステータスシンボルとなっている。
みさはブラウスのボタンを二つほど外し、リラックスしている。そこには、深い谷間と二つの山の頂を覆う深緑色の布があった。だが、結城にとっては、それは、小学生のパンチラと同等であった。結城にとって女性とは、ある特定の人物を指す言葉である。色あせた写真で笑顔を見せているあの人物である。それ以外の女性は雌である。いつも長袖を着ている口うるさい母親であろうと、へそを出している能天気な女学生であろうと、太ももを見せつけて階段を上っていくOLであろうと、結城にとっては同値である。ただの雌であり、痴漢に間違われないよう気をつけるのみである。したがって、みさが無意識に振りまく色香も、彼には見えないし、匂わない。
「僕の方は順調です。沢村さんは、おなかはすきませんか? 何か食べにいきませんか?」
みさは、寝転がったまま、しばし考え込んでから頷いた。
雨上がりの国道を、タクシーとトラックが郊外を目指して疾走している。もう夜も遅いから、普通の飲食店はやっていないが、ラーメン屋とタコス屋は別である。前者は、そこそこの伝統を持ち、この国古来のそば屋と同じ分類に入れられている。後者はこの国の住人の構成が変わりつつあることを物語っている。
二人は伝統のラーメン屋に入った。健康は気になるが、匂いは気にならないという結城はニンニクラーメンと餃子のセットを注文し、正反対のみさは、チャーシューメンとチャーハンのセットを頼んだ。ついでに彼女は生ビールを頼んだ。学会と買い物で疲れたというのだ。一方の結城は、大事な計算をしている最中だからとビールでの乾杯を断ったが、本当のことを言うと主食と同程度の金を嗜好品に費やせるほど余裕がなかったのである。実際、餃子をつけるかどうかも悩んだぐらいである。
みさは一口ごとに饒舌になっていった。いつの間にか二杯目の中ジョッキに口をつけて、結城に問いただしていた。
「ところで、写真の女性は誰? にっこりほほ笑んでいるきれいな女性は誰?」
「女性だ」
「姉? 妹? 恋人? アイドル?」
「客観的にはどれも当てはまらない」
「それじゃ、主観的には?」
「主観的? 主観的には…… もう、過去の話だ。どうでもいい」
「それじゃ、聞いていてつまらないわ。今、彼女はどうしているの?」
「死んだ」
「死んだの? 悪いことを聞いたわね。ごめん…… で、どうして亡くなったの? 病死?」
「悪いと言いつつ、よく聞くなあ」
「ごめん。だって、オジサンのことも知るぐらいしか、やることがないもの」
そう言って彼女は舌を出した。まったく悪いと思っていないようである。
「オジサンか…… そういう歳だよな」
そう言って彼は、38歳という自分の歳が19という素数の2倍であることに気がつき、小さく舌打ちをした。
「オジサンの片思いだった女性は、12年前、ある男、僕の親友と心中した……」
それ以来、彼の心の半分は凍りついている。残りの半分は整数論、素数だけを考えている。彼自身、それを正常とは思っていなかったが、人間なんて、少しぐらいの異常を持っているものだと思っていた。だから、悲しくもなかったし、痛みもなかった。
「そうだったの」
今度は、彼女も少しばかり反省したようだった。
店を出ると、うす雲の向こうに星が青白い星が輝いていた。結城は先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「ところで、今晩はどうします? ここから歩いて10分ほどのところにビジネスホテルがありますが」
「ビジネスホテル?」
「だめですか? もっとちゃんとしたホテルじゃないとだめですか?」
「ホテル?」
ようやく、結城は、意思疎通がおかしいことに気がついた。
「ホテルに泊まるんじゃないんですか?」
「まさか!」
「ということは、僕の家で一晩過ごすということ?」
「当然よ」
結城は大きなため息をついて、彼女の寝床の算段をした。
お泊りセットをコンビニで買ってくるという彼女と別れて、結城は一足先に帰った。部屋に戻ると、パンダの目が緑色に規則的に点滅していた。時計をちらりと見て、パンダの腹のスイッチを押して、口をあけた。中のプロジェクターが点灯し、そばの壁に身長20センチほどの二次元アイドルが映し出された。前髪をきれいに切りそろえ、後ろは腰まで届くストレートの銀色の髪をふんわりゆらしている。きゃぴきゃぴとした声が響く
「久しぶり、元気だった稔?」
「ああ。元気だよ」
「うーん」
両手の人差し指をこめかみに当てて考え込むその姿は、典型的な二次元アイドルである。虚像だと分かっていても、結城はその仕草に思わず身を乗り出していた。
「どうした?」
「やっぱり、怪しい。いつもなら、『別に』とかそっけない返事しかしないのに、『元気だよ』なんて、何か隠し事をしているんじゃない?」
彼はぎくりとした。やましいというわけではないが、沢村を見られては、あらぬ誤解を招くのは確実である。早く用件を切り上げ、通話を終わらせたいと思っていたのは確かであるし、部外者に見られて困るのは、そっちの方だろうと彼は思った。
「そ、そんなことはないさ。で、用件は?」
「特にないわ」
そうオラクルは言った。古代ギリシャにおいて、オラクルは神の言葉を伝える預言者であった。現代の暗号業界では神のようなものとして定義されている。この2次元アイドルはその名を使っている。だが、確かなのはその名前だけである。実在のオラクルの顔はもちろんのこと、年齢も性別も知らない。声はもちろん変えてあるだろう。言葉の口調は、彼の嫌いな女学生のそれであり、意外に若いのではないかと思っている。ちょっとした仕草、考え込んだり、長い髪をかき上げるその仕草に彼はどきりとさせられることがある。彼の知っている唯一の女性に似ているのだ。
用件はないというオラクルの言葉に、結城はほっとした。用件があれば、2、3分では済まない。ハッキングのターゲット。予想される暗号形式、そして、暗号化されたデータ、ターゲットコンピュータの消費電力の記録、周辺でピックアップした電磁波のデータといったもろもろの物理データ。これら膨大なデータのアドレス、仕事の期日と報酬。依頼時にはそういった内容の濃いやり取りが行われるはずだった。そう、結城の裏稼業は暗号解読で、彼は、データ担当である。他に物理担当、生身担当がいる。物理担当は、実際に現場近くのネットワークケーブルに低干渉型ネットワーク盗聴器を仕掛けたり、UPS電源に細工したりと危険な作業を行う。生身担当はパスワード推定を行う。ターゲット人物の生活習慣から趣味、家族とあらゆる個人データも調べる。ターゲット人物に緑の羽根(を偽装した盗撮機)を渡すのも生身担当だ。
結城がこの稼業に身を染めて10年近く、このあがりがなければ、彼はとっくに干上がっていただろう。だから、本当なら、オラクルと名乗るこの2次元少女を無碍にはできない。だが、目的もない単なる定期連絡に少々辟易していたのも事実である。そして、オラクルの態度が、彼にだけ違うのを彼は知らない。
「それじゃ、仕事があれば連絡をくれ」
通話を早く終えようとする彼をオラクルは恨めしそうに見つめていたが、彼は構わずにパンダの口を閉じた。