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第10話:もう一つのオアシス

 あの日、結城稔がどうやって逃げたのか、はっきり思い出せない。洞窟を抜け、樹海をさまよったらしいことは覚えているが、すべての記憶が霧に包まれたようにぼんやりとしている。サインインという名の副作用かもしれない。

 結城が借家の倉庫で目を覚ますと、沢村みさが心配そうな顔で覗き込んでいた。ここ数日のことは、すべて、夢だったのだろうか。クリスタルキューブを使って計算を始めて、第三オアシスの候補を見つけた。その後、黒服が現れ、逃げて……

 どこからが夢なのかは判然としない。だが、夢ではなかった。背中の傷はひりひりするし、右の拳は腫れあがっているし、知らない内に目の下にもう一つ新しい青あざができていた。百瀬は、そのあざを副作用だと言い、みさは申し訳ないと言った。


 あれから、二年がたち。結城は不惑となった。彼の第三オアシスの定理に対し、数学界は温かい拍手を送り、その結果、大学での彼の任期は更新された。物理学界は、みさ達の仕事に対し賞賛を送り、そして、産業界は彼らを熱狂的に取り囲んだ。

 みさと百瀬は、素数共鳴器のデモに成功した後で、大学をやめ、会社を設立した。その会社とライセンス契約を結びたいと言う国やメーカーが会社に押し寄せた。みさの方針で、ライセンス料を相手の財力に比例させようとしていたから、交渉は難航し、渉外担当のハイダルが苦労することになった。そんな彼らを取り巻く喧騒も一段落し、雨の国に、また雨の季節がやってきた。

 激しい雨が、倉庫の屋根を叩いている。その雨音は減衰し、心地よい潮騒ノイズとなって彼らの耳に届く。

 結城は週明けの講義の準備をしていて、本棚から、古い文献を探し出した。彼が学生の頃に辞書のように使っていた文献である。目当てのページを見つけ、重要な定理を講義ノートに転記し、今度は、そのノートを見ながら、定理の証明を頭に叩き込んでいく。一息ついた結城は、文献から黄ばんだ付箋が頭を出しているのに気がついた。彼自身は付箋など使わない。不審に思って開いたページは313ページ。313は素数である。結城は小さく、あっと叫んだ。『313』は、夢子の遺言であったのだ。


 あの日、結城は、夢子の脳と話をしたかった。心中事件以来の疑問を問いただしたかったのだ。その疑問、夢子は結城に好意をいだいていたのかという疑問に、夢子が答えることはなかった。多くの者とともに夢子の脳は隠ぺい次元に吸い込まれたのだ。だが、一人難を逃れた者がいた。AIトレーナーのオラクルである。最後の10秒を使って、最低限の論理アルゴリズムと評価関数を、かねてから侵入路を作っておいた個人コード管理センターのサーバーに移設したのである。もちろん、大部分の記憶と、多くの学習済み応答関数がオラクルから失われた。

 失われずに済んだデータの中に、夢子から結城への遺言があった。『313』と言うのは、その内容である。夢子の脳から遺言があったという事実は、多くのことを物語ったが、『313』は謎であった。


 文献の313ページには、なんの変哲もない命題が記述されていたが、下部の余白にこんな書き込みがあった。

「稔が好きです。だから、稔には、夢子のことだけを見ていてほしい。でも、夢子にはもう一人好きな人がいます。こんな私には天罰がふさわしいかしら」

心中事件の前々日の日付が入っている。まさに遺言である。夢子には、結城の親友と心中するのがわかっていたのかもしれない。これで、長年の疑問が解けたし、夢子が意外に嫉妬深かったこともわかった。

 新たな疑問も生まれた。結局のところ、三番倉庫の夢子の脳は、この書き込みの内容を記憶し、理解していたのだろうか、それとも313という数字だけを記憶していたのだろうか。オラクルに尋ねれば、何かわかるかもしれないが、結城にはためらわれた。最近、オラクルの嫉妬が激しいのだ。みさのいる所で、通信を始めたら、一悶着起きるのは確実である。

 結城は文献をもとに戻した。ついでに、本棚に置いてあるパンダ型怪獣に黒い布がかぶさっているのを確かめた。こうしておけば、オラクルが勝手に盗撮を始めても何も写らないはずである。結城は、不惑にしてようやく女性を理解し始めた。すべての女性は嫉妬深いのだ。

 ソファーでは、みさがいつものように寝転がって、天井をスクリーンにして仕事をしている。ブラウスのボタンを二つほど外していた。そこには、深い谷間と二つの山の頂を覆う緑色の布があり、まるでオアシスのようである。

これで、完結です。読んでいただきありがとうございました。

この作品は空想科学祭FINAL参加作品です。

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