第九章
行くあても無いので、二人はとりあえず金閣寺に向かった。市営のバスに乗って、目的地まで揺られた。バスは多くの年寄りで混雑していたので、二人はずっと立っていなければならなかった。通り過ぎる街並は雑然として、とりわけ良輔の思い描いていたものとは違っていた。
「雑居ビル、レンタルビデオ屋、ガソリンスタンド。古都の街並もこんなものか。何だかうんざりするよ。日本というのはどこへ行っても大した違いは無いものだなあ」
良輔は手すりに持たれて腕組みをしながら弱音を吐いた。
「マックに吉野家、ケンタッキーもあるよ。そりゃあそうさ。ここに住んでいる人たちにだって生活があるんだ。美しさだけでは食っていけないよ」
「そりゃあそうだ」
良輔は相槌を打ちながらも、殆ど初めて金の心配をした。それは金がなければ生活できないなどといった事ではない。そんな事は最初から分かっているのである。良輔は自分の所持金が尽きたとき、それでもなお今と同じく美しい精神を保てるかどうか心配したのである。「貧すれば鈍する」という言葉がこれほどリフレインされた事は無かった。しかしいくら心配したところで良輔には
(何とかなるさ)
と、自分を励ますより他に手立てが無いのであった。
(確かにそれで何とかなるのであれば誰も働かない。しかし働く事に希望は無い。飽食の最中の美など何の感動も無いからだ。失ったものの大きい程、美は感動的になるに違いない)
そのうちに良輔はこんな思考自体が既に美しさを失っている事に気付き、身震いした。良輔は考えるのをやめた。
金閣寺道のバス停に着くと、二人は頭を下げつつ老人達を押しのけてバスを降りた。そこから少し歩くともう金閣寺の門構えが見えたので、二人はここで一息つこうと、近くの東屋の前のベンチに腰を下ろし、煙草を一服した。英治は大分煙草の味を覚えたようである。こんな一事を以てしても如何に英治が良輔の薫陶を受けているかが伺い知れる。
「しかし平日だというのに観光客で賑わっているね。外国人も珍しくない。僕らも彼らから見れば二人組みの観光客でしかないんだろうな」
英治はひっきりなしに観光客を飲み込む門を見つめ、寂しげに言った。
「僕らの事は僕らだけが分かっていれば良いんだよ。僕らは観光客ではない。墓場を求めて歩く屍さ。それに僕らはもう一人じゃないんだ。他の人間に理解されていれば、それが一人であろうとも構わないじゃないか」
良輔はこんな言葉を先ほどの自分の考えを戒める様にして口にした。墓場を求めて歩くなら、金の心配など要らない。所持金が尽きたところが墓場である。等という都合のいい帳尻合わせをしたのである。事実そんな言葉を口に出してみると、良輔自身が安らかな気持ちになった。良輔は言霊というものの存在を知った。ところが英治はこれに反駁する。
「しかしやっている事は他の観光客と何も変わりはしない。僕は観光がしたいのではない。そんなものは休暇を取って行けば良いだけの話だ。僕はむしろ観光などという小市民的な行楽を思い切り否定したいんだ」
「まあそう焦るな。折角来たんだし行ってみよう。それからまた考えよう」
良輔は灰皿に吸い殻を落とすと、英治を促して門を超え、境内に入っていった。楓、山茶花の萌える参道を行き、総門を潜る。二人はその間無言だった。
女子大生の卒業旅行と思しき集団の後に続いて、二人は入口の受付に並んだ。拝観料として四百円取られるらしい。ここに来て良輔には逆説的な微笑みがこみ上げてきた。
(美はビジネスになっている。それは芸術という名前を付けられて。それはある意味理にかなった事だ。なぜなら美にはそれに殉ずる犠牲が必要だからだ。犠牲は大きければ大きい程良い。なのに何事だ。世界文化遺産の金閣寺をして四百円では安すぎる!ここにいる観光客は四百円のものしか見る事ができないであろう。しかしながら私と英治は一生を、命を捧げた。その美しさはどれほどだろう?これは何も金閣寺に限らない。これからは五感で感じる全てのものが美しくなるのだ!)
良輔はこのとき英治と逃避行を決めた時に感じた直感をようやく理解するに至った。彼らは言わば積極的犠牲を求めたのである。
二人は拝観料を払うと、入場券代わりのお札を手渡された。家内安全のお札は二人にもはや必要ない様に思われたが、二人はそれを各々の鞄に丁重に滑り込ませた。
砂利道の角を曲がると、もうそこに金閣が現れた。二人はそこで息をのんだ。それは絶妙の均衡と調和を保った景観であった。雲一つない青空と衣笠山に萌え広がる緑を背景に、金襴を纏った舎利殿は燦然と高貴な光を放ち、鏡湖池の湖面に映る木々と空の境界に仄かな輝きを溶かしていた。鯉の周りに起こる僅かな波紋が仄かな揺らめきとなって風景を滲ませ、汀に打ち寄せる…。良輔は目を閉じた。暗闇の中には自分の歩んできた灰色の坂道が生温い熱を帯びて瓦解している。ぬかるむ坂道を上ってきた疲労感は、その足跡は今崩れゆく過去とともに消えつつある。良輔はようやく「現在」に辿り着いたのだ。美という時間も空間も超えた妄執をのみ愛してきた良輔は、ここに辿り着くと同時に現在を生きる事ができたのである。良輔はその目をそっと見開いた。金閣はやはりそこにあった。こうして現在を承認する事は自分の存在をもまた承認する事であった。自分は生きているのだと、単純に良輔は思うのであった。
英治はと言えばやはりその美しさに圧倒されていたのではあったが、自由人の感じる如くその思いは奔放であった。
(金閣という存在を認める事は僕にはできない。僕はこの美しさをのみ認める。故にこれがたとえ金閣でなくても、僕はここに惹き付けられたに違いない。すなわち金閣の歴史的権威や教訓的観念は観光客を惹き付けるが、美しさという事実はそれに身を捧げたものをのみ惹き付けるのだ。つまり金閣を取り巻く数多の観光客と僕らは同じものに惹き付けられながら別々の方向を向いた異質の存在である!僕らは真実に選ばれた人間だ!)
様々な思考の入り乱れた中に、二人は一点の美を見つめて暫くその場に佇んだ。いつの間にか二人の頭上には夕日に焦がされたねじれ雲が鷹揚に漂っていた。