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第六章

 良輔は再び英治と出会ったバーに赴いた。期待と興奮の入り交じったその足取りは、自分でも軽率と感じられる程に弾んでいた。良輔はふと少年時代を思い出した。夏休みの直前、思えばこんな気持ちであった。自分は少年時代に回帰するのだ。そして人生の休暇を手に入れる。永い永い、終わりの無い真の休暇を。生まれてこのかたこんな高揚を感じた事が無い。街の雑踏も、喧しい雑音も、毒々しい色のネオンも、この時に至っては良輔の背中を押すのに一役買っていた程である。感性は感情の浮き沈みに絶えず浸食され、全てを美しく見せる事もあるらしい。つまり感性は感情とそれを支配する環境に束縛され、そこから逃れる事は赦されないのである。美に惹かれる人間の行動が御し難いのは自然の理である。

 良輔がバーに入ると、まだ時間も早いので店内は閑散としていた。が、カウンターの隅に一人座る英治の姿をいち早く認めた。

「やあ、また会えたね」

良輔が声をかける。英治はこちらを振り向いて美しく微笑した。立ち上がって

「どうも。ご無沙汰してます」

と言った英治はまるで場末の店で客を待ちこがれていた女給の様であった。良輔はウイスキーを注文して英治の隣に腰掛けた。

「あれから随分経つね」

「そうですね。二ヶ月くらいですか」

「君の方は変わらずにやってる?」

「ええ、まあ仕事の方は相変わらずですが…」

「何か疲れている感じだね」

「ええ、まあ、何と言うか…」

英治は何かを言い倦ねている様子である。

「まあいいさ。とりあえず飲もう」

良輔は出てきたウイスキーのグラスを掲げて、英治のグラスとかち合わせた。

「しかしまあ大分外も温かくなったね」

「ええ、もう暑いくらいです。夜はまだ涼しいですが」

「日に日に酒が美味くなるね」

「ええ、日に日に…」

「私はね、大して酒なんて飲んだ事が無いんだよ。年がら年中飲んだ事なんか無い。だが最近は酒が美味くてしょうがない。何故だろうね?」

「やはり季節柄の問題でしょうかね」

「そうかもな。そういう季節だ」

「地獄の季節?」

「ランボーの?はは、まあそんなところかな。人の一生にも季節があるようだ」

この一連の良輔の余裕げな対応はどうした事だろう?まるで子供を去なす様な力の抜け具合は。良輔はこの時から既に、英治の懊悩に気付いていたのかも知れない。それも手に取る様に、確信を持って。しかしそれはともすると錯覚であったかも知れなかった。恋をした人間が相手に自己を投影させ、自分の恋慕を相手の心情と同一視してしまう様に、良輔は英治に自己を投影し、英治の心情を読み取った気になっていたのではなかろうか?こんな錯覚が錯覚であると知れた時、人間は底知れぬ絶望に見舞われる事になるが、錯覚ではなく真実であった場合には果たしてどうであろう?

「僕の季節は何でしょうか?僕にこれから訪れる季節は何でしょうか?」

英治は酔っていた訳ではなかった。自然な、澄明な目をしていた。しかしそれは訴える様な、何ものかに取り憑かれた目だった。

「君は幸福だ。これからも君は幸福だよ。君には立派なお父さんもいるし、社会的な立場だってあるじゃないか」

この言葉は英治というよりは良輔自身を落胆させた。こんな理解のある、騙り者の言葉は明らかに良輔の失言だった。こんな心にも無い慰めは他ならぬ自分を犠牲にしていたのである。相思相愛の中では、人間は常に利己的であるべきだった。良輔は正面を向いたまま、英治と目を合わせられなくなった。そんな良輔に英治はなおも尋ねた。

「どうすれば人間は幸福から脱却できるのでしょうか?幸福は真理の敵です。こんな幸福から人間は逃げ切れるものでしょうか?」

そう言った英治には、世俗を逃れた美しさがあった。この美しさは妻には勿論、肉親にも見出した事の無い生の輝きを良輔に感じさせた。それは間違いなく良輔の求めていたものであった。

(やはり私の直感は間違っていなかった!)

しかし不器用な良輔はそれをどう表現して良いのか分からなかった。良輔は黙って立ち上がると、

「英治君、飲み直そう。場所を変えよう」

と言って財布を出した。が、英治はそれを遮った。

「今日は僕が払います。ですから僕にこれから行く先を決めさせてください」

結局良輔が英治に気圧される形で、その通りになった。

 すぐそこまで来ている季節は女神の如く徐々にベールを脱ぎ始め、白皙の素肌を透かしていた。女神の微笑みの先にあるものが幸福でないとしたら、それは何だったであろう?


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