第五章
英治について何か説明を要するとすれば、それは前述の通り父の経営する会社の専務の肩書きを持っているという事である。もう一つ加えるならその容貌が色白く華奢で、まるで女のようであると言う事くらいで、その他については何もかもが凡庸な人間であった。そしてこの凡庸さを誰よりも知悉し、嫌悪しているのは他ならぬ英治自身であった。しかし英治の最も嫌悪する物は自らの凡庸さではなく、父親の存在であった。英治の父は淳造と言って、もう六十近くなった今でも自らの興した会社の経営者として辣腕を振るっている。吹けば飛ぶ様な中小企業ではあるが、このところ黒字経営を続け、およそ二十人の従業員達を立派に養っている。ただ英治にとって父親は優秀な経営者ではあっても、教育者としては甚だ失格であった。と言っても我が子を顧みず仕事一筋で生きているといった類の父親では無かった。むしろ淳造は教育熱心だったのである。英治が将来の会社の担い手として相応しい人格を備えるべく、幼少の頃から徹底した教育を施してきた。英治は元々素直で大人しい性格であったので、父親の期待に応えようという一心でそれに従った。英治の行動の奥には常に父親に認められる為、という裏付けがあった。父親に対する反抗心が全く無かった訳ではないが、英治はそんな感情を自分の内部で悪徳とし、罪悪感すら感じた挙げ句、表には出さずに自己完結させてしまう性格だったのである。故に英治は少年期を通して勤勉で、学業において優秀であった。だが英治は大学生の時、深い懊悩に冒された。父親の言いつけ通り経済学部に入学した英治は、実際の経済学に触れてみて初めて自分が経済学、ひいては父親の夢に何らの興味も持たない事を知った。そればかりか経済学の教科書に並ぶ専門用語や数式を見る度に吐き気を催す様になり、暫く大学に通わず家に引きこもった時期もある。英治はそこで明確に気付いた。自分が父親の傀儡でしかなかった事に。父親は自分に幸福になってほしかったのではなく、息子を優秀な経営者に育て上げた親の称号が欲しかったのだという事も。それに気付いたとき、初めて英治は自分の人生に望まぬレールを敷いた父親を恨んだ。しかし気付くのが遅すぎた。もはや英治には自分が父親に従う事以外何の取り柄も無い人間に思えたし、第一卒業すら危ぶまれる程の英治の成績では就職活動をする事など考えられなかった。故に結局は父親の期待通りに父親の会社に就職し、不本意ながらも現在までそこに勤め続けているのである。
こんな訳で英治の心中には常に理想と現実の葛藤があった。ただその理想とする自分の姿がどんなものであるか、英治には想像すらできないのであった。理想が見つからぬ時程苦しいものは無い。なおかつ実際の自分がそこから日に日に遠ざかっている様に思える時は尚更の事である。立ちふさがる現実から逃げようとも、逃げ場すらない。空気圧を極限まで高めた密室に閉じ込められた様な閉塞感は、今日も英治のなだらかな肩に重くのしかかっているのであった。
英治は一人で酒を嗜む様になった。それまで英治はろくに酒など飲んだ事も無かった。日頃の会社の付き合いや得意先の接待で飲む事は間々あったにしても、好き好んで飲みにいく様な事は全くなかったのである。だがふとした弾みでそうした酒の味を覚えた。それは卑屈な先輩社員や脂ぎった中年男と飲むただ苦いだけの酒とは違い、心の空洞にひっそりと息づく夢の味であった。ある時は自分の空虚な来し方を回想し、またある時はそれと違わぬ行く末を案じながら飲む美酒は、何故かしらそれらを彩った。そして雲が裂け日の光が差し込む様に、陰鬱な帳を切り開き別世界に住まう自分を朧げに予感させたのである。
しかしながら未婚の英治は絶えず孤独を彷徨い続けた。孤独とは心の孤独であり、それを他人と分かち合う事ができない事であった。従って物理的な人との接触で英治の孤独が癒される事は無かった。人知れず風俗に行った事もあったが、全く癒える事の無い孤独が却って浮き彫りになり、逆効果であった。一人精神の孤島にいた英治にとって、波音や潮風はむしろ孤独をかき立てる要因にしかならなかったのは当然の事である。
そんなある夜の事である。街の外れにあるバーに、英治は初めて訪れた。あても無く放浪しているうちに、まるで運命の如くそこに漂着したのである。そこは薄暗い間接照明の中に青白い水槽がぼんやりと浮かんでおり、中には一匹のアロワナが身を翻している妖艶な空間であった。淫靡な香水の香りが辺りに漂う。店はそれなりに繁盛しているようである。英治はカウンターに空いている席を見つけ、隣の男に断って腰をかけた。ワインと軽い食事を注文して、英治はカウンターに肘をつき、手を組んでじっとしていた。店内は他の客の話し声で乱雑にかき乱されていた。この混濁の中にあって、英治はなお孤独であった。英治の孤独はこの状況においてはむしろ美点であった。物憂わしげな表情は英治の白い肌と相俟ってこの場の雰囲気を上質なものに成らしめていた。哀愁とは美しさに最も近い感情であったかも知れない。
英治はふと隣の男を見やった。するとその男は自分の投影の様な、孤独な表情をしていた。それは匂いで察せられた。孤独の匂いはお互い口をきく事無く、匂いで分かるものである。人見知りの英治ではあったが、迷わず声をかけた。その男とは通り一遍の社交辞令を交わし、無口な英治にしては珍しく饒舌になって話し込んだ。その男は良輔と言い、英治と変わらず凡庸な男であったが、まるで心を通わせた同志の様な話しやすさがあった。自分の心情を伝える事に無理が無かったし、良輔の話も水の様に自然に飲み込めるのである。英治は飲んだ事も無いウイスキーを注文し、良輔の勧める煙草をむせながら吸った。この一時だけ英治は心の孤独を払拭された気がした。自分が一人ではない事に感銘すら覚えた。英治はすっかり良輔に親炙して、気の遠くなる様な親愛の情を抱いたのである。
さすがに初対面の良輔に自分の懊悩を打ち明けるまでには至らなかったが、軽躁な心の踊りを英治は感じていた。
「今日は僕に付き合って頂いてありがとうございます。お代は僕が支払いますから」
英治は深謝の念を込めてそう言った。ところが良輔は、
「いや、僕の方こそ楽しかった。ここは私に払わせてくれ」
と言って二人分の料金を英治に渡し、その場を去っていった。英治はこんな邂逅に運命を感じていた。ふと英治は良輔を父親と比べた。金銭に関しては吝嗇で、慳貪で、強欲な父親と何とはなしに比較せざるを得なかったのである。
英治は良輔がいなくなってから、心に隙間が空いた様な気がした。そしてその隙間は明くる日から日に日に英治の中で広がっていき、隙間風が絶えず吹き荒ぶ様になった。心の何処かで良輔を求める自分に気が付きながら、相変わらず空虚な毎日を送っていた。もはや英治の全身は灰色がかって、生きている者の生命力を感じさせなかった。相も変わらず英治は地獄の縁に向かって一歩また一歩と歩み続けているのであった。
(このままでは、僕は僕の生を生きられない!こんな破滅を前にして、僕に何か惜しむべきものがあろうか?僕はもはや背水の陣で自分の生と向かい合うべきだ!人の生とは死ぬ覚悟で臨まなければ生きられないのだ!)
こうして英治は茫漠とした理想の自分の姿が垣間見えた様な、希望を見出していたのであった。希望とは何と憂鬱を生む事か!希望は日常生活の中で絶えず現実の裏切りにあい、肩身を狭くしていた。この眷恋にも似た情は絶えず英治を絆した。然るべき時に然るべき人物に出会った。そんな気が、英治にはしていた。