第四章
結局、その晩良輔は終電間際まで青年と過ごした。青年の名は橘英治と言った。英治は驚いた事に良輔と出身大学が同じで、好きな小説や音楽も似通っていた。更に驚くべき事は、英治は現在父親の経営する会社の専務であり、会社のオフィスは良輔の勤務する市役所と目と鼻の先にあるとの事だった。彼らは学生時代の思い出話や職場近くの隠れた名店の噂などに花を咲かせた。結局の終電の時刻が来てしまい、良輔が先に席を立った。英治は自分が付き合わせたのだから勘定は自分が払うと言ったが、年上の良輔は二人分の金額を英治に半ば押し付ける様にして店を出た。
しかしそれからというもの良輔には英治の優しい幻影が付きまとっていた。それは新婚時代の妻の様に、良輔の心の支えとなり、日々の葛藤の為の糧になった。良輔は決して同性愛者ではなかった。ではこの始終付きまとう情の正体とは何であろう?英治に惹かれる良輔の感情は否定しようも無く日に日にその存在感を増していった。その感情というのは、まるで姉の沙知に感じた肉欲を持ち得ない近親者に対する感情であり、また弟の哲平に感じる様ないじらしさに対する慈愛の感情でもあった。その上英治は精神の美しさをも持ち合わせていた。それは良輔がかつて体験した事の無い性別を超越した美しさであり、狂おしい倦怠を忘れさせる様な歓喜を呼び寄せる美しさであった。そんな美しさの権化たる英治は、日常のふとした弾みから白昼夢となって度々良輔の脳裡に現れるのであった。
人間の生への懐疑とは、むしろこんな風に自らの外部に一縷の希望を見出した時に訪れるものではなかろうか?それはそれまでの人生をその為の周到な準備に費やし、また弛まぬ訓練を積んだ者にのみやってくる懐疑である。すなわち暗黒のねぐらで一人ひたすら日の光を拒み続け、光そのものの存在を知らずにいた獣が、満月の夜にそこから這い出し、豊潤な月光を全身に浴びた時の様な希望とも絶望ともつかぬ感情である。ここに至って初めて獣はねぐらを捨てるであろう。自らの生とは異質なものを追い求めて駆け出すのである。
良輔は帰宅すると度々真弓を殴打する様になった。真弓は美しい女であった。こんな美しい女を妻にした良輔は周囲から羨望の眼差しを浴びていたが、当の良輔にしてみればその美しさは着古した洋服の様に脂汗にまみれ、身に不快に貼り付き、良輔を苛立たせるのであった。ところがである。殴り倒された真弓は、頬を紅潮させて涙を流し、哀願の上目遣いで赦しを乞う。すると真弓の喘ぎと震えの混淆した表情は思ってもみなかった官能美を帯びるのである。なぜならそこには嘘が無かった。人間がカメラを向けられた時に反射的に作る卑屈な笑顔の様な媚びた嘘が一片としてなかったのである。服従の中に微かな反抗の企てを隠し持った鋭い光をたたえた眼差しは、良輔の劣情をかき立てる程に官能的であった。良輔はその唇に接吻し、荒々しく真弓を抱いた。そこから良輔はまどろむような交接へと導かれる…。
ある日も例の如く事が終わると、良輔はコーヒーを飲みながら煙草を吸った。煙草に火をつける瞬間の勇ましさに比べて、吸い殻をねじ伏せる時の心情は心許ない。良輔はふと灰皿に横たわる灰とすぐそこで震えている真弓を見比べた。真弓の美しさも幸福も、既に灰になっていた。ここに至って良輔には初めて妻に帯する罪悪感が生まれていた。この憩いの一時は美を満喫した者のふくよかな疲労感で満たし、他人を思いやる余裕をさえ生むのであった。真弓はただ俯いて放心した様に黙っている。この夫婦の孤独な時間は先刻の美獣乱舞の余韻をしめやかに彩り、従って言葉を必要としなかった。吸い殻から立ち上る煙は二人の間を緩やかに流れ、沈黙の犇めく空間を幾分か和ませるのであった。
良輔は部屋に戻ると、例の日記を書き始めた。良輔の無言の叫びはただ文字と言う媒体を通して物質世界に理解された。
「私は大層醜い人間であった。そして今もって醜い。醜い人間には醜いものしか寄ってこない。醜いものにまみれて暮らしている事に気付かぬくらい私自身が醜かった!それが今までの私の人生であった。ところが、私は邂逅を得た。それは美の味を知ってしまった私にとっては一つの可能性である。端倪すべからざる可能性を目の前にして、人間はそれでも惰眠を貪っていられようものか?私はそこまで強い人間ではない。例え索漠たるこの生活の全部が吹き飛んだとして何であろう?私には元々何も無かったのだ。私は盲目だったのだ!私は聾唖だったのだ!そこへやっと眩い光が差し込んだ。優しい音楽が流れてきた。この燦然と煌めく海原は両腕を広げて私を待っている。今こそ全てを捧げる時だ。いや、捧げる物とて何も無い。私はただそこに飛び込めば良いのだ。例えそこで溺れ死んだとしても、私は後悔などしない。私は私であるべきだ。それこそが真に美しい生き方なのだ!」
書き終えると、良輔はパソコンの電源を切った。暗闇が部屋を占めた。微かに光の漏れるドアの向こうから、啜り泣きの声が聞こえる。秋風の如く人恋しい、淫靡な啜り泣き…。良輔はベッドに仰向けになり、ぼんやりと浮かび上がる天井の白さに見入っていた。ふと恍惚の溜め息が漏れる。舌の奥には粘ついたコーヒーの苦みがまだ残っていた。