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第三章

 こんな放蕩の生活を、良輔を含め周囲の誰が予想しただろう?以前の良輔であれば、このような不真面目な人種をひたすら軽蔑したに違いなかった。

 良輔は元々品行方正で、真面目と言われる事を恥じた事も無いくらい真面目な性格であった。少年時代を通じて殆ど問題を起こした事も無かったし、反抗期と言われる時期ですら親や教師の言う事に背いた事は無かった。現役で大学に合格し、遊びほうける同輩が多い中一人真面目に講義に出席し、その傍らで地方公務員試験の勉強に勤しみ、それに合格した。そして大学卒業後は迷う事無く市役所に勤めることに決めたのである。何の無駄も無い、見方によっては何の面白みも無い半生であった。良輔自身はこれを目的に向かって一直線に歩んだ、均整の取れた人生と自負していた。周囲から面白みが無い、遊びが足りないなどと揶揄されたことも無くはなかったが、良輔はそんな雑音に同意する気にはなれなかった。なぜならそんな事は良輔自身とうに自覚している事だったからである。しかし自覚したところで、それに対してなす術も無かった。自分の人生の余暇とはどのような対象物を指向して望むべきなのか分からなかったのである。友好であったり、恋愛であったり、運動して汗をかく事であったり、あるいは放恣な時間の浪費であったりする余暇の意義を良輔は理解できなかった。それは自己の核心を満足させるには至らなかったのである。つまり良輔は自分の人生の退屈さを知悉しながら、それを解消するだけの手段を持ち得ず、仕方なくそれを無視しながら生きてきたと言える。自分ですら予想していなかった良輔の人生への反発は、こうしたこれまでの生き方の反動が何かのきっかけにより堰を切った熱い瀑布の如く発露したものかも知れなかった。そして良輔自身はそのきっかけを父の死であると考えていた訳である。

 ある夜、仕事帰りの良輔はいつもの様に街のバーに立ち寄って酒を飲んでいた。カウンターでウイスキーを飲む良輔は、仄暗い店の内装の木目を見つめて、夕焼けの色に濡れそぼった哀愁に酔いしれていた。良輔はこういうところであまりおしゃべりをする方ではない。マスターと二三言の社交辞令を交わした後は、寡黙にただ酒を飲んでは自己の内面に深く潜って陶酔していた。自己の内面は良輔を現実離れした美の世界へと招き入れた。物質世界においては倦怠をしか生まない良輔の感性はそのとき自らの活路を見出し、七色の海を奔放に泳ぐのであった。こんなとき、良輔は聖者であった。現実世界において異端である自分はこういう方法でのみ聖者になれる事を、良輔は複雑な心境で見守っていた。

 時間が経つに連れ、店内が次第に混雑してきた。人々の歓声や食器の擦れる鋭い音や、それらの混淆した雑音が辺りに淀んでくると、良輔もさすがに我に返って時計を気にせざるを得なくなった。

(そろそろ帰るか…)

マスターに最後の一杯を注文し、煙草に火をつけてそれが出てくるのを待っていた時である。

「すみません、隣、よろしいですか?」

見ると良輔の隣の椅子を指差し、申し訳なさそうに身をかがめる一人の青年がいた。グレーのスーツに身を包み、髪は黒く真っすぐに耳を覆っていた。青年は二十八歳の良輔よりも若く見え、穏やかな中にも切れ長の目の奥から冷たい光を発しているような雰囲気があった。

「ああ、どうぞどうぞ」

良輔は慇懃に席を勧めた。現実世界の住人である良輔は至って常識人であった。しかしこんな一事を取り上げても、良輔には落胆の材料にしかならないのであった。

 青年はワインとマッシュルームのフライを注文し、カウンターの上に手を組んでじっとしていた。良輔は差し出されたウイスキーをなめながら、横目で見るとも無く青年の挙措を観察していた。その虚ろな目の動きは周りから見れば酩酊としか映らなかったであろうが、彼の視線はもっと深い闇を泳いでいたのである。その闇の先には甘く良輔を誘う何者かが手招きをしていた。店内に流れるジャズギターは温かく中音域を響かせ、滑らかな木材の質感で辺りに漂っていた。グラスを傾けると琥珀色の液体が光にたゆたう。ふと、良輔は青年の方から草原のそよぎの様に爽やかな、透き通った匂いを感じた。何かの香水の匂いであろうか?しかしそれにしてはあまりにも自然な、都会の雑踏にあっては感じられない様な匂いなのである。それではこの青年の体臭だろうか…。そのとき思いがけず良輔は青年から声をかけられた。

「あの、お一人ですか?」

不意打ちを食らって、良輔は組んでいた脚を正し背筋を伸ばして慌てて答えた。

「あ、ええ、まあそうですね」

「この店にはよく来られるんですか?」

「そうですね、まあ週二三度くらいは」

「へえ、常連さんですね。僕はこの店に来たのは初めてなんですが、あ、良かったら召し上がってください」

青年は良輔にマッシュルームのフライを勧めた。

「ああ、どうも」

良輔には余り食欲が無かったが、礼儀として一つつまんで口に入れた。

「あの、大分お若そうに見えますけど、おいくつですか?失礼ですが」

良輔は恐る恐る青年に尋ねた。

「僕ですか?僕は二十四です」

「ははあ、すると僕より四つも下な訳だ。二十四と言ったら僕なんかまともに酒も飲めませんでしたよ。その若さでバーに来られるというのは驚きだなあ」

「はは、何となく一人で飲みたくなる時があるものですから」

そう言って青年は屈託のない笑顔を良輔に振り向けた。その笑顔は一言で言って非の打ち所の無い程美しかった。それは単に造作としての美しさというよりも、もっと形而上学的な、精神的な、心を微かに傷つけられる様な美しさであった。その時、良輔は闇の中に一つの解答を探り当てた。

「ああ、僕もそうですよ。分かります」

この凡庸な解答を良輔は恥じた。その恥じらいには微かな、しかし隠しきれぬ高揚があった。

「すみません、同じのをもう一杯」

良輔は帰るのをやめて、もう暫くそこに居続ける事にした。


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