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第二章

 良輔が結婚したのは、父の死から四年後の事である。同じ市役所の同僚であった真弓という同い年の女性と結婚した。この職場では職場結婚が珍しい事ではなかったが、上司や同僚は惜しみない祝福を良輔夫婦に与えてくれたし、言わずもがな各々の親族も大変喜んだ。

 この結婚は良輔にとって紛れもなく幸福への手段であった。しかしその幸福とは周囲の人間が考えるものとは意味合いが違っていた。市役所で働く事は彼にとって退屈そのものであった。かつては何より尊いと考えていた安定した生活というものが、その頃に至っては彼に倦怠をしか与えなくなっていた。来る日も来る日も凡庸な人間の相手をし、彼らの生活の世話をする。周囲の同僚はと言えばこれまた凡庸そのもので、彼らと行う仕事はつまらない雑務ばかりなのであった。くたびれた古い役所の内装は色褪せて、蛍光灯の陰気な明かりが内壁のひび割れに染み入る様は何となく監獄の様相を帯びていた。こんな環境で働く同僚達は既に感情を失った様に無表情で、男女の身なりには一片の洒落っ気も見当たらない。連綿と続くこの倦怠の中に、良輔は地獄を感じた。天国でも地獄でもないそこは、実際の地獄を想像するよりも遥かに地獄的であった。

 しかしそのような理由で退職してしまう程、良輔は社会性のない放埒な人物ではなかった。仕事とはこのようなものだ。と、世間一般の常識に沿う様に考えて日常という生き地獄に耐え抜いた。良輔の結婚はつまり、こういう日常の倦怠を破る突破口の意味を持っていたのである。実際、はじめのうちは夫婦の結婚生活は華やかに感じられた。良輔も真弓もお互いの良き伴侶であろうと努め、運命を共有する事に言いようの無い喜びを感じていた。良輔は朝家を出る前に真弓を抱きしめて接吻し、それから出勤する。するとその熱を一日の糧にして、良輔は灰色に淀んだ日常を何とか凌いで生きる事ができた。このようにして誰もが愛を食いつなぎ、夜の儚い夢を信じて太陽の照りつける日中を耐え忍んでいるのであれば、自分もその正常な人間の生活を送る権利を得た様に良輔には思われた。

 ところがその生活が半年も過ぎると、あれほど良輔の生きるよすがとなっていた夫婦の愛ですら、倦怠の波に飲み込まれる様になった。良輔には職場を与えられた事も、真弓と結婚した事も、何者かに仕掛けられた絶望への罠の様に思えるのだった。時間の流れは残酷で、いつの間にか彼らの愛は日常の一部となり果て、良輔は妻の顔を見るのも嫌になっていた。家に帰るのは職場に向かうのと同様に義務であり、単にねぐらに移動する為の物理的な処置であった。

 こんな事があった。ある日良輔が帰宅すると、真弓が居間の方から飼い主を見つけた犬の様に走りよってきた。

「お帰りなさい。夕飯できてるわよ」

「ああ、そうか」

良輔は既に生気を奪われ、表情は病んでいた。砂漠を歩くほどに足取りが重い。家の奥から漂ってくる夕食の匂いにさえ、良輔は吐き気を催した。真弓はそんな良輔の疲労をすぐに察した。

「疲れてるのね。先にお風呂に入る?」

「ああ、今日は何だか調子が悪くてね。悪いけどすぐに寝るよ」

実際、職場と変わらぬ程に色を失ったこの家で、良輔が逃避できる場所はもはや睡眠しかなかった。寝ている間だけは地獄じみた倦怠を感じなくて済むのであった。この意味で、良輔は永久の眠りについた死人を羨ましく思った程である。真弓は良輔の上着を脱がせるとそれをハンガーにかけた。かと思うと、真弓は真っ白なワイシャツに包まれた良輔の広い背中に飛び込んだ。そして後ろから良輔を抱く様にして、

「あんまり無理しないでね」

と甘く囁いた。ところが良輔はこれを素っ気なく振り払って、無言で寝室に向かった。その背に片思いの少女の様な切ない恋慕の視線を感じながら、良輔には振り返る気力も残っていなかった。

 寝室に一人籠ると、良輔は部屋の明かりも付けず一直線に机に向かってパソコンを立ち上げた。机に立てられた橙色のスポットライトとパソコンの画面の明かりだけを頼りに、良輔は日記を書き始めた。暗闇の片隅にぼんやりと明かりの灯るこの部屋は、まるで良輔の精神そのものの具象であるかに思われた。静まり返った部屋に、ひたすらタイピングの無機質な音が響く。まるで彼の人生をぎこちなく紡ぎ出す様に。

「父の死は私に何を与えたのか?私にはただ死の感覚が残されたのみである。だがそこにいながらにして既にそこにいないという静物を思わせる強さは私に感性を忘れさせた。感性は世を生きる人間の障害となる。感性程人間を憂鬱に陥れるものは無い。なぜならこの感性こそ美醜の判断の拠り所となるからだ。人間は美に耐えられない。にも拘らずその毒牙にかかればそこから抜け出せない。美は感性を持つ動物の特権であるが、同時に麻薬である。私はどうやらその味を知ってしまったようだ。感性を取り除くには死しかあり得ない。だが死は感性と共に存在そのものを奪ってしまう。それは恐ろしい事だ。そんな事を自ら望む事があってはならない!従って私は美を愛さなければならない。しかしどうやって?美は腐敗の早い生ものだ。しかもそれはまたしても感性の浸潤によって腐敗させられるのだ。美を渡り歩く放浪の旅はこの太平の世にあってどのようなものだろう?それが私には到底想像がつかない。とても恐ろしい!」

心の叫喚をあらかた書きなぐってしまうと、良輔はパソコンを閉じ、明かりを消してベッドに横たわった。眠りにつく努力。それは良輔にとって感性という追っ手から逃れる為の自殺の代替行為であった。それはこの日成功しつつあった。現実から意識が遠のき、無為という幸福の境地に良輔が片足を踏み入れた瞬間であった。良輔の腰にのしかかった重みが良輔を一気に現実に引き戻した。見ると真弓が良輔にまたがって腰を揉んでいた。良輔はたまらず身を翻し、真弓を振り落とした。振り落とされた真弓は短い叫び声をあげ、ベッドの下の床に尻餅をついた。良輔は訴える様に目を潤ませた真弓を瞥見したきり、再び枕に頭を沈めて眠りについた。真弓は鼻を啜りながら寂しげに部屋を出て行った。植物が枝葉から朽ちていく様に、こんな些細な出来事の連続がやがては生活の根幹を揺るがすのであった。

 ともかくこんな調子で毎日を送っていると、夫婦の仲も潮が引く様に冷めていった。良輔の足は次第に家から遠のいた。職場から帰宅する道すがら、良輔は街に出て酒を飲み歩く様になった。飲酒によって、良輔は幾分か感性を我が物にできた。つまり美を愛する事ができたのである。しかしながらその反動で、良輔の日常は増々暗い海の底に沈む様に色褪せていった。それをかき消す様にして更に飲酒を繰り返す様になり、良輔はいつしか酒に溺れていった。のみならず良輔には放浪癖が身に付き、休日も殆ど妻を置き去りにして家を空ける様になった。


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