第十八章
そのおよそ五ヶ月後の事である。真弓が小さな叫び声をあげた。
「あ、動いた」
良輔はその場にいて、就職情報誌を眺めていた。市役所を正式に退職して後、良輔は未だ再就職先を見つけられていなかった。
「いよいよ始まったね」
良輔は真弓の大きくなった腹にそっと手を乗せて言った。この胎動を誰より喜んだのは、他ならぬ良輔であった。新たな命の始動は良輔にとっては天変地異とも言うべき価値観の修正をもたらした。彼は幸福を願った。彼が何よりも忌み嫌った幸福を、誰よりも願ったのである。しかしこの願望の裏には一抹の罪悪感があった。本当のところ、良輔は自分の中に湧き上がる幸福感を手放しで喜ぶ気にはなれなかったのである。この自己を見つめる第三者は何者だろう?不幸か?しかし良輔は勿論不幸など望んでいた訳ではなかった。しかし確実に幸福に近づく自分を、かの第三者は諌めている様に思える。それは英治の存在であったであろうか?それはあり得る話である。彼は他人の幸福を妬むような人物ではない。それは良輔自身が知悉していることである。だがそれが自分と同じ思いを抱き、心中を図り、変わらぬ友情を誓い合った者であったらどうだろう?英治は自分を赦してくれるだろうか?一人寂しい思いをしていないだろうか?そんな事を思い巡らしていると、この解決できぬ疑問を延々と自問する自分こそが第三者の正体であると気付くのである。
「お夕飯ができましたよ」
沙知がお盆に乗せた味噌汁を運んでくる。
「さあさあ、妊婦さんは沢山食べて体力を付けないとね」
「姉さん、妊婦さんは逆に食べ過ぎちゃ駄目なんだってよ。難産になる可能性が高まるらしい」
良輔は最近になってマタニティ雑誌にも目を通すようになっていた。妊娠の経験どころか未だに結婚すらしていない姉に、良輔は衒学をひけらかす。横から母が口を挟む。
「何言ってんの。真弓ちゃんは普段から小食なんだから、食べ過ぎるくらいでちょうどいいのよ」
母に言われては良輔も返す言葉が無く、良輔は苦笑した。そして味噌汁の椀から朦々と立ち上る湯気の中に紛れも無い幸福の形を見た。
夕食を終えると、良輔は二階にある哲平の部屋に籠った。この部屋は元来良輔と哲平が共有の部屋として使っていた部屋であるが、良輔が東京で一人暮らしを始めてからは哲平がそこを独占していた。良輔は鞄からノートを取り出して静かにしたためた。
*
「英治、ごめんよ。僕はどうやらまた元の生活に戻りつつある。僕は君と旅立つ事ができず、この世に取り残されてしまった。そして僕はかつて僕らが何よりも軽蔑していた愛や幸福に取り囲まれているんだ。でも不思議と倦怠や嘔吐を感じる事は無い。どうしてだろう。もしかしたら君という犠牲を生んでしまって、すっかり怖じ気づいてしまったのかも知れない。何にしても、どうやらこの愛と幸福に、僕は骨を埋める事になりそうだ。皮肉だね。こういうものを懇望しても手に入れられない人が沢山いるのに、それを捨て去った筈の僕はまたそれにありつこうとしているんだ。でも僕はこれで良かったのかどうか、未だに分からない。君と一緒に天に召されてしまっていた方が本当の意味で幸福だったのかも知れない、なんて思うときもある。君も知っての通り、この世に美しいものはごく僅かで、それに比べて醜いものはそこら中に転がっているからね。でもどちらが良かったかなんて、きっと死ぬまで分からないままだと思う。もし僕が死んだ後にまた君と会えたら、それについてじっくり議論しよう。
しかし一番確実なのは、君と出会っていなければ僕に幸福はあり得なかったという事だ。僕が君に出会えなかったら、僕は友人と呼べる人間を一人も知らずに自ら命を絶っていただろう。今思えばそれは最悪の選択だ。僕がそれを免れたのは、偏に君のお陰だ。心から礼を言うよ。ありがとう。
君は言っていたね。友情を手に入れられた自分は幸せだと。僕もそう思う。だから結果はどうあれ、自分は幸せなんだと思いたい。だけど正直なところ僕は悔しい。君の様な若者が女も知らずに(知る必要がないなんて僕は言ったが)旅立ってしまったこと。君という唯一の理解者を失ってしまったこと。もし君がいたら何と言うだろう?なんて考える度に寂しいんだ。ああ、君は僕の最大の幸福にして最大の不幸なんだ!この気持ちでさえ僕は誰とも分かち合えないんだ。でも僕は幸せに違いないんだ。一体どうしたら良いのだろう?
尤も君にとってみれば都合のいい戯れ言かも知れない。何の整理もされていない支離滅裂な文章かも知れない。でもこれが僕の精一杯だ。この気持ちが少しでも君に伝わってくれれば、僕は嬉しい」