第十七章
気が付くと、良輔はベッドの上にいた。天井もこの部屋も、まるで見覚えが無い。良輔のベッドは白く、脇に点滴やら消毒液やらが置いてある。どうやらどこかの病室らしい。窓からの風がピンク色のカーテンを膨らませている。
(助かったのか)
病室には良輔一人しかいない。一体どれくらい眠っていたのだろう?ここはどこだろう?英治は?そんな疑問を抱きつつ、良輔は立ち上がる気力も無くただベッドの上に座っていた。寝過ぎたからだろうか?頭痛がする。頭の中が朦朧として、記憶が曖昧である。しかし枕元の背の低い棚の上には、あの時の貝殻が置いてある。夢を見ていた訳ではないらしい。
(煙草が吸いたいなあ)
そう思って喫煙所を探しに出ようとして、持っていた煙草や財布がどこにあるのか分からない事に気付いた時である。
「良輔!」
見ると母親が入口付近に立っていた。悲しみとも怒りともつかぬ表情である。
「気が付いたのね?何ともないの?」
何が何だか分からず、良輔は瞬きを繰り返していた。何故母親が?いよいよここがどこだか分からない。
「何か言ってちょうだい。大丈夫なのね?」
「英治はどこだ?」
「何だって?」
「英治はどこだと聞いているんだ」
「ああ、一緒にいた子?残念だけど、死んだよ」
「死んだよって…」
良輔はベッドから立ち上がって窓の外の景色を見た。空と海の見分けのつかぬ青さ。どう見ても沖縄である。どうやら海に沈んでいるのを見つけられてここまで運ばれて来たらしい。あの澄んだ海では、沈んだところで陸から容易に見つけられてしまうのは、考えてみれば当然であった。
(一人死に損なったか…)
良輔はこの事に気付いても表情一つ変えなかった。旅は終わったのだ。この一点をもって自分の中では全てが終わった様な気がしていた。
「良輔、すぐに長野に帰るよ。皆心配してるんだから」
良輔は黙っていた。母親は自分達の逃亡劇について一言として触れてこない。それが不審に思われたのである。
「真弓ちゃんもうちに来ているよ。東京よりも長野の方が安全だからって言って呼んだんだよ。そうでもしなきゃ向こうのご家族に申し訳が立たないからね」
「真弓は妊娠しているのか?」
「知ってたのかい?そうだよ、ただでさえ不安な時期なのに、夫に失踪されるわ震災に見舞われるわで、可哀想だったよ。けど安心しな。今のところ母子ともに健康だし、あんたの事を健気に心配してたくらいだよ」
真弓の妊娠は嘘ではなかった。尤もそんな事はある程度感づいてはいた。それを否定しようとしていたのは良輔の自己欺瞞に過ぎない。だがそれは他人の口を介して確認されると殊更真実味を帯び、良輔を安堵させた。それは真弓の身の安全を確認できたからというよりも、真弓が狂言を弄して自分を引き戻そうとする様な女では無かったから、というのが実情に近い。真弓や家族の存在は良輔が実家に帰る為の誘因にはならなかったが、口実にはなった。母親の言葉に特に反発はせず、良輔は帰省した。交通網は概ね復興しているようであった。
東京経由で帰省したので、途中良輔は見慣れた東京の街並を目にした。良輔が英治とこの街を出たときと、何も変わっていない様に見える。暗鬱な午後の人いきれ。黄色く濁った昼食後の吐息に混じって、ギラギラと黒ずんだ目が行き交う。
(相変わらず汚いところだな…)
良輔は新宿駅の構内で、そんな独り言を心で呟いていた。震災の爪痕は未だ至る所に残っているとは言え、周囲を歩く人々は以前よりも活気に満ちているように見えた。不謹慎との誹りを覚悟で言えば、人々はあの震災と、被災地の惨状と、逃げ出したくなる様な恐怖や不安に、ある種の活力を貰ったのかも知れない。それは良輔や英治がそうであった様に。それは決して相対的な自身の身の安全を認識したなどというけちくさい理由からではない。むしろ生死が分ち難い表裏一体のものである事を再認識し、世界中がその境界を見つめる中で、自分がそのこちら側にいる事の承認とその実感を享受した事にある。そこでは全世界の人々が生と死の審判を下し、紛れもなく自分には生を与えているのである。当然と思われていた生が、何らかの資格を有する者にのみ許される行為であると実証された時、人は暫し生への懐疑を忘れる事ができる。それはいずれ頭をもたげる運命にあろうとも…。
長野へ向かう特急列車の中、良輔は母親に問うた。
「なあ、怒ってないのか?」
良輔は事実、警察に連行されている様なやましさを感じていた。
「怒る気にもなれないよ。それに良輔が生きて帰って来たんだから、それでよしとしないと」
一見理解のあるこの言葉は、しかし良輔を凍らせた。母親にとって過程は不要であり、結果のみが重要だったのである。こんな親の目的合理性を良輔は今までどれだけ恐れたか知れない。この思考法こそが良輔の灰色の半生を育み、虚構の幸福を築き上げた張本人なのである。だが今となってはそれが虚構であるか本物であるかの弁別も難しくなっていた。良輔はそれ以上言葉を継げなかった。
長野に着くと、弟の哲平が駅の改札の外に仁王立ちして待っていた。
「おう」
とだけ哲平は言った。その視線は侮蔑の色を含んでいたが、それは良輔の存在を認めている優しい侮蔑であった。この優しさから逃げた人間の心理は、ともすると良輔に忘れられかけていた。自由の対極にある優しさ。それは自由から生還したばかりの良輔にとっては却ってありがたく感じられた。
哲平の運転する車で十五分程揺られると、実家に着いた。白の外壁が少し土埃で汚れた、何の変哲も無い庭付き一戸建て、母の家庭菜園、数年前に死んだコロの犬小屋。何一つ変わってはいない。良輔が車から降りると、姉の沙知が玄関から飛び出して来て、いきなり良輔の頬げたを引っぱたいた。後は何も言わず、良輔を睨みつけたまま息を切らしていた。そんな姉はやはり美しかった。何も理解していない、無垢な、幼稚な美しさ。しかしそれはやはり美しいのだった。
それからすぐ、良輔は真弓と対面した。真弓は玄関で待ち倦ねており、良輔を認めるなり飛びついた。
「おい、身体に障るぞ」
良輔は窘めた。真弓は良輔の胸に顔を埋めたまま泣きじゃくり、
「もう…」
と、嘆息とも嗚咽ともつかぬ声をあげた。家族はそんな二人を無言で見守った。良輔は真弓の後ろ頭を撫でた。しかしその愛撫は受け入れていいものかどうか悩んだ末の、迷いと恐れの混淆した愛撫であった。指先は戦慄き、流麗な髪を躊躇いがちに掬い上げる。