第十六章
二人は砂浜に仰向けになり、太陽の傾いた空を見上げていた。
「どうやらこの先は無いみたいだな」
「もう後戻りするしか無い訳だ」
「戻る気になるか?」
「全然」
島の入り江の砂浜は乾いていて、人肌の様な熱を帯びている。
「英治、ごめんな…」
「何だよ。やめてくれよ」
「僕は自分の望むものと君の望むものが同じだと考えてきた。でもそれは違ったかも知れない。君の大事なものを、僕は奪ってしまったかも知れないんだ。君と出会えた事が余りにも嬉しくて、僕は君に自己投影して、自分の我が儘を平然と押し通してきた」
「そりゃあ良さん、僕だって同じ思いだよ。第一最初に良さんを連れ出したのは僕なんだから。僕は望み通り抑圧やら苦悩やら無力感から抜け出せた。でもその代わりに何もかも捨てなきゃならなかった。しかもそうした先に見つけたものは何の事は無い、ちっぽけな一人の人間に過ぎない自分の姿だったのさ。だが良さんのお陰でもう一つ重要なものを手に入れる事ができた。それは友情だよ。僕は生まれてこのかた一度も友情などというものを信用できた試しが無かった。人が人を好きになるのは自分にとって都合が良いからだと考えてきた。あるいはそれも間違いではないのかも知れない。だが、思いを一つにした時、殊にそれが社会から理解されにくいものであるとき、個人の世界は初めて友情によって繋がれ、友情によって守られる。その時自分の為だけではなく、その思いの為に生きられる。それは素晴らしい事だ。僕は幸せだ。間違いない」
夕凪の海は静かで、巨大な夕日が水面に揺れていた。良輔は浜辺に落ちている貝殻を二つ拾って、片一方を英治に手渡した。
「僕らがそれぞれ違う世界に溶け入ってしまっても、僕らは繋がっているよ。それだけを信じよう。空虚なこの世界に、これ以上素晴らしいものがある筈が無い」
二人は身を起こすと、静寂の奥に聞こえる波音に耳を澄ました。潮騒は近くも遠くもなく、丁度空から鳴っている様に感ぜられた。悲しみはなかった。行き場の無い憤怒や嘔吐が洗い流されて、最後の最後に大切なものをつかみ取った挙げ句の、絶景の中の夭折。この一生は一点の曇りも無く美しい。二人は何度でも同じ思いを噛み締めた。そして結局最後まで履き続けた革靴を、波打ち際に脱いだ。
波が徐々に二人の足元をさらう様になった。二人は太陽に向かって静かに歩き出した。生暖かい海水は母胎の羊水を思わせた。二人は還るのだ。生命の泉に。清浄無垢の魂は、黄金の源に身を浸した。二人の周りには透明な光の輪が広がる。一抹の物憂さを感じて、二人は手を繋いだ。二人が前進する度、徐々に水深は増し、海底の冷たさをつま先に感じるようになった。甘い旋律が音階を下りる様に、ゆっくりと歩を進めて行くと、さざ波が二人の身体を慰むように撫でた。この愛撫は絹の様に柔らかく、慰藉の念を以て優しく二人を誘うのだった。やがて水位が肩の辺りまで来ると、良輔はふと英治の表情を確かめた。英治は微笑して、その表情を嫣然と水面に浮かべている。そこに一片の迷いも見られず、それを見た良輔もそれに親炙して、穏やかに、しかし力強く微笑み返すのであった。
(ありがとう、英治)
良輔はその最後の言葉を言い兼ねて、この世で最も愛しい手を強く握った。
*
二人が追うもの。
二人が逃げるもの。
その両極に引き裂かれ、
二人は掌の結び目を緩やかに解かれた…。