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第十五章

 朝目覚めると、窓の外には燃える様な海と空が広がっていた。まるで緑玉の爆発の様なそれは、瘋癲の二人を寛闊の情を以て許している様に見えた。惨劇と叫喚を免れた、平和なこの青い光…。

「今日はどこへ行く?」

英治が白いベッドの縁で、縞模様のソファーに腰掛け、外を見つめる良輔に問いかけた。

「そうだなあ、もう金もなくなってきたし…」

良輔は少し考える様な素振りで一瞬間を置き、

「行けるところまで行こうか」

と言った。英治はふっと微笑んだ。英治はこういう堕落をもはや愛しく思っていた。誰も止める事無く無為に堕ちてゆく緩慢な破滅。それを見守る酩酊と自己の欠落。二人の頭上には誰とも知れぬ第三者が傀儡師の如く君臨し、彼らの意思を司っているのであった。

 二人は部屋のテラスに出ると、ゆったりとした風に身を任せた。良輔が濃緑の柵にもたれかかると、シャツの中を風が泳いだ。鬱屈した良輔の精神は身体と共に洗われた。眼下にはひょうたん型のプールの青い水底が見える。人気の無い水面は張りつめて、鏡の様に浮雲を明瞭に映していた。

「自然主義の小説が時に醜悪になってしまうのは」

不意に良輔が口を開いた。

「恐らくこんな美しさがあるからじゃないか。人間本来の醜さは真理という秩序を持ったある種の美しさにまで昇華する。まあ僕らは醜さに置いても中途半端な存在だが、今そんな真理が垣間見えた気がする」

英治は頬杖をつき、プールサイドの真っ白なパラソルを見下ろして言った。

「なら、もう少し醜くなってみるべきかな」

そう言うと、英治は伸びた爪を気にした。

 二人はホテルをチェックアウトし、車に乗り込んだ。今度は英治が運転席に座る。車内は息苦しい程の蒸し暑さであった。真っ赤な車内は閻魔の口の中の様で、あぶり出された様な汗が噴き出す。しかしエンジンをかけて走り出すと、それが俄に涼しくなった。冷房が効いている。汗は心地よく冷えて、熱を奪う蒸気は二人を爽快な旅へと誘った。

 二人を乗せた車は、更に北へと向かった。外の景観は昨日のものと殆ど同じで、道路を隔てて東西にそれぞれなだらかな山の稜線と限りない水平線が臨まれた。途中から中央分離帯にヤシの木が植えられていた。等間隔に立ち並ぶ木々は左右に葉を広げ、両腕を広げた歓待者の様に見えた。通り過ぎる岬、その向こうに真横に浮かべられたブイ、ビーチには色とりどりの水着を着た人々が散見された。

「僕らはこんな日常を忌み嫌っていた。何故だろうね。こんなにも心が穏やかだ」

英治がハンドルを握り、正面を向いたまま呟いた。

「僕らは日常を眼前にしながら日常にいないから、というのが正直なところだね。つまり見る角度を少し変えたに過ぎない。だって僕ら自身は何も変わっちゃいないんだから」

良輔が素っ気ない返答をすると、良輔は無邪気に笑い出した。

「はは、確かに人間なんてそんなものだ。自分が変われないから環境を変えた。それだけの事だったかも知れない」

「そうだ。単純な事さ」

「結局僕は我が身可愛く、人並みの欲望を捨てられず、それでいて自由も欲しい。何も変わっちゃいない」

「変わる必要なんて無いさ。人間そうそう変われるものじゃない。変わるのは外部環境だけだ。でもそれで良いのさ。だからこそ行動に意味があるんだ」

「あ、良さん、あそこで休憩しようか」

英治が指差したそこは、景勝地で名高い万座毛であった。車を降りて細い散歩道を行くと、象の鼻の様に先端が垂れ下がった岸壁の上に緑の芝が一面に広がる断崖が見えた。鼻の先は透明な海水に浸され、さざ波が涼やかに囁いている。英治は伸びをしながら深呼吸した。全身に澄んだ空気が遍満する。

「ここは良い眺めだね」

「ああ、それに静かだ」

海の向こうに描かれた水平線は地球の球面そのままの弧を成していた。足元には珊瑚が透明な緑の水底に沈んでいる。

「何も無いという事、何も聞こえないという事。こんなにも贅沢な事だったんだね」

「無というのはそう簡単に実現できるものではないんだろうな」

そこは決して何も無い訳でも、何も聞こえない訳でもなかった。しかし静寂という無とはまた異質なものが漂うているかのようだった。つまりこの景色は無の世界を模倣している様に思えたのである。海の向こうに白く霞む、離島が見える。

「無の境地に生きる事は不可能か?」

「どうだろう。分からないね」

 その後二人は車に乗り込むと、更に北上した。今度は良輔の運転である。何の知識も目的もなく、ただ北へ北へ…。左方に広がる名護湾を抜けて更に北へ行くと、正面に羽地内海が見え、その向こうには青々とした離島が見える。車は迷う事無く離島へと向かった。橋を渡ると奥武島が見え、そこを経由して屋我地大橋を渡ると屋我地島に辿り着いた。そこでは石垣の塀、漆喰の家屋、屋根上のシーサー、潮風に錆びた郵便ポスト。それらが紙芝居の様に目まぐるしく通り過ぎた。

「行けるとこまでいってみるか」

この言葉は二人の間では合い言葉になっていた。相手と、それから自分の気持ちを確かめる為の。

「ああ」

二人は新緑の屋我地島を突き抜けて、反対側の海に出た。そこは古宇利大橋であった。視界を占める海の中央に一本の橋が真っすぐに伸びている。二人はそこを真紅の車で、動脈を流れる血液の様に悠然と走る。広大な海は三途の川と呼ぶには余りに美しすぎ、橋の長さは彼岸に続く橋としては余りに短すぎ、また二人を乗せた車はノアの方舟と呼ぶには余りにちっぽけすぎた。それでも二人は悟りの境地に足を踏み入れようとしていた。長い橋を小さな車が音も無く滑っていく。それは四方を虹色の海で囲まれた、後戻りのできない細い一本道であった。二人はどこへ向かっていたか?それは俗世の煩悩を逃れた涅槃の様であり、しかし全ての欲望への解決を凝縮させた楽園の様でもあった。つまりその場所ではあらゆる苦悩は浄化され、あらゆる悟りの羈絆たる自己を免れていたのである。二人の心は彼らが望んだ無の境地に近かった。彼らのただ一つの欲求は死であった。そこには現世への未練がなく、従って死への恐怖は取り払われていた。良輔はアクセルを踏んだままハンドルから手を離し、手で枕をして呆然と正面を向いていた。車は古宇利島に直進する。脇目も振らずにただひたすら真っすぐに。

 二人は島に上陸した。気が付くと二人は人気の無い白い砂浜を歩いていた。


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