第十四章
京都駅から新幹線、特急を乗り継ぎ、二人は関西国際空港に降り立った。ここから那覇空港行きの便が出ている。結局沖縄に行く事になったのは、海が見たいと言った英治の意見を尊重しての事であった。尤も東日本の交通網が地震の影響により壊滅状態で、西か南へ移動するしか選択肢が無かったというのもある。そこでとりあえず国内におけるその極地に考えが及んだのである。
街で拾った情報によれば、今回の地震は日本観測史上最大規模のもので、東北や関東は壊滅的な被害を受けており、安否不明者は一万人を超え、それも日に日に増えているという。街中がその話題で溢れかえっており、何も情報収集らしき事をしなくても二人の元に自ずと情報は集まった。しかしながら二人にはなす術も無い。家族の安否確認は勿論の事、心配する、無事を祈るといった心理的援助さえ自らに禁じているのであった。しかし見ず知らずの人間が皆一様にこの一事件を懸念し、あらゆる種類の人間が団結して助け合っている様相に、良輔は一種の精神的美しさを認めた。そしてこんな美しさはやはり、平和という安寧秩序の中では顕現し得ないことに改めて気付かされた。
(平和が一体何を生み出しただろう?幸福と言う名の偶像、人間の尺度としての金銭、成功者と呼ばれる卑怯者、愛という生殖機能の曲解。こんなものの権化たる神とは、あるいは自然とは偶像ではなくむしろ人類共通の敵としての意味を持っているのではあるまいか?)
良輔はそんな考えに至った。神、あるいは自然を崇めているうちは、人類はその一つの意思を普く信仰し、それを指向する。ありとあらゆる生き物は挙って神へ、自然へ近づこうと無我夢中で走り続ける。その様は他人を押しのけ、何らの犠牲を顧みず、時にはそれ自体が目的化してしまう程に視野狭窄の状態である。ところがその神や自然が敵になった時、彼らは生の目的を共有し、互いに融和する。そこでは生存のメカニズムにおける残酷性は極限にまで押し縮められ、人間本来の理性が先立つ事となる。つまり神、自然といった共通意思の存在を否定した状態でこそ本来的な精神の美が実現し得るということである。
(背徳は精神の美という観点からすれば誠に正しい方法であった。それは私が感覚的に理解していたことであり、今こうして実証されたのだ!)
良輔には自矜が生まれていた。だが同時にこういった大惨事の最中でのみ燦然とけざやかな輪郭を表す美という化け物をひたすら嫌悪し、ろくでもないものと思い成しもした。
二人が那覇空港に付いたのは、午後二時頃であった。二人は空港の飲食店で沖縄そばを食した。店の隅にあるテレビでは被災地の状況が絶え間無く報じられていた。画質の悪い虚ろな画面には瞬きをする様に各地の惨状が次々に放映される。知らない土地の知らない人々が途方に暮れる映像は、二人の遠ざかる家族の記憶と微妙に重なり合った。しかし二人はただ怠惰に黙っていた。
予約してあったレンタカーを借りて、ホテルを探した。こうした手配や段取りは事務職に就いていた良輔にはお手の物であった。良輔と英治が交代で運転し、那覇空港から海岸線に沿って北を目指した。良輔も英治も車を持たぬ身であったから、学生の時分に免許を取得して以来の運転である。二人はこんな時になって初めて学生時代の思い出が報われる気がしていた。
真っ赤な乗用車で海岸線の道路を走っている間、右手には緑豊かな山々、左手にはエメラルドグリーンの東シナ海が限りなく続いていた。良輔が運転している間、英治は助手席で絶えず左方の海を眺めていた。忘却の果ての様な広大な海は水平線で空と番い、その青さをより澄明に映し出していた。水辺に止まる蝶の様に、小さなヨットが輝きの中まばらに揺れる。白砂のビーチは、日光を反射させた砂の一粒一粒が砂金の如く煌めいていた。
「こんなところに来てみたかったんだ」
流れる海岸の風景を放恣に見つめながら、英治は悲しくなる程の美しさに心の痛みを感じていた。
「こんな時に美を貪る僕は、最悪だ。死んだって構わない」
英治は目を細め、うっすらと涙を溜めて言った。
「せめてこんなところで死にたいな」
「ああ」
良輔は相槌だけ打って、運転に集中していた。言葉が全てかき消される真空の中に、二人は身を置いていた。周囲の世界はこの二人を隔絶して既に完成されており、異物たる二人は言葉すら発する事を禁じられた。従って発する言葉は悉く独り言になった。交わりを許されぬ世界。それは楽園と言って差し支えなかった。
二人が薄暮の中、ホテルと思しき明かりを認めた頃、既に水平線には茜色の夕日が溶け、夕焼けと空白に隔てられた紫色が空の大部分を領していた。車を停めて、二人は車を降りた。そこは読谷村という地域で、見晴らしの良い風光明媚な場所であった。二人は真っ白な外壁のホテルに入った。夕焼けの海にスパニッシュコロニアル様式の建物が映える。まるでそれは西洋風の墓場の様に不吉な白さだった。
部屋を取って荷物を下ろすと、二人は散歩に出かけた。目と鼻の先にある残波岬まで、海辺を歩いた。この紫の闇に包まれた道のりは、何となく死へ向かう人間の、穏やかな人生の終末を思わせた。この島では行く先々が墓場になるようであった。この状況にあっては砂を踏みしめる一歩一歩が重みを持った、永い一日一日の様に感ぜられる。遠くから囁く潮騒だけが二人の耳介を占めていた。
「寂しいね」
英治は呟いた。岬の突端にある灯台が遠くに見える。それが逆光を浴びて巨大な黒い影になっている。灯はまだ灯っていない。岬の根元からは断崖絶壁の続く岩肌の上を歩かねばならない。遥か下方で巌に打ち付ける荒波の飛沫が咆哮する。その波音は荘厳で、灯台に向かって歩く二人の楽園追放の舞台を演出していた。剣呑な道のりを歩き続けて、二人が灯台の麓に辿り着くと、良輔が呟いた。
「こんなに美しい道程にも、夜は平等に訪れる。どんな夜も暗くて静かで恐ろしい。僕らがどんなものを求めようと、やがては夜闇に閉ざされる」
「悲しいね」
英治は遠い外洋を見つめて言った。暗闇の海の向こうは地獄そのものだった。それは地獄の業火よりも終わりの無い、底知れぬ恐ろしさがあった。
「でも、だからこそ美しい」
良輔はそう言うとゆっくりと瞬きをした。一瞬風が凪いだ。その瞬間灯台の明かりが灯った。孤高の灯は遠洋に投じられて、漆黒に泡立つ波を照らし出した。一条の光は二人には救いに思えた。この救いが為に、二人は万斛の涙を流した。二人の影が燭影の様に岩陰に揺れる。
「僕らにも光があるのかな?」
「あるさ、もっと向こうに。そこは地獄かも知れないが」
その時、海の向こうに小さな雷光が閃いた。