第十三章
その夜、二人はいつものホテルに泊まった。夕食を終えて、部屋で煙草を吸いながら次の行き先に付いて話し合っているところであった。二人は部屋の微弱な揺れに気が付いた。地震らしい。二人はすぐに治まるだろうと踏んで気にも止めなかった。が、微弱な揺れは暫く続き、それが胸ぐらを掴まれて体全体を揺さぶられる様な激しさを帯びたのは二人が煙草の火を消し終えたすぐ後の事であった。余震はその後も続いたが、大きな揺れはひとまず止んだ。
「大分大きかったね。テレビを付けてみよう」
英治がテレビを付けると、地震の速報が流れていた。震源は太平洋沖だそうで、京都は震度四程度だそうなので大した被害もなさそうであったが、関東から東北にかけての被害は甚大だそうであり、大規模な津波も併発したとの事であった。
「大丈夫かなあ…」
ふと英治はそんな言葉を漏らした。家族の安否を案じているのであろう。
「どうせ今電話したところで繋がらんだろう。心配してもしょうがない」
それ以前に、二人の携帯電話の電池はとうに切れていた。充電器も持って来ていなかったのである。
「不思議だね。心配される側の僕らが一瞬にして心配する側に回った。今は誰も僕らの事など心配していないだろう。こんな緊急事態にあって初めて精神の呪縛から解かれた様な気がするね」
良輔は安穏に言った。英治はそれに反発した。
「良さんは心配じゃないのか?東京には奥さんとか、職場の人たちだっているんだろう?」
「心配したところで何にもなりはしないと言っているじゃないか。連絡もできないし、交通もストップしている。僕らにできる事は祈る事くらいだ」
「しかし電話をかけ続けていれば、いつか繋がるかも知れないじゃないか。コンビニで充電器を買ってきて電話した方がいい」
「もしそれが繋がったとして、家族の安否が確認されたとする。しかしそれだけでは済まないだろう。彼らは君に戻ってこいと懇願するだろう。そうしたら君は帰るのかい?」
「帰らないよ。しかし安否を確認するだけなら良いじゃないか」
「英治、君はもう帰らないと決めている家の安否を確認して一体どうする気だ?そんな行為に何の意味がある?君は無意識裡にいつか家に帰る事を予期しているに違いない。でなければ家の安否など気になる筈が無い。僕は何も気にならないよ。僕の妻なんか身重かも知れないんだ。実に案じられて然るべき状況だ。だが僕は気にならない。というより気にしない事にする」
良輔はこれを不注意で口にしてしまった訳ではなかった。自分の覚悟を証明するのに甚だ有利な証言として、むしろ意図的に口にした。だが言った直後に後悔した。英治の覚悟がこれによって揺らいでしまう事を懸念したのである。
「ちょっと待って。奥さんが妊娠してるって?それは初めてきいたぞ」
英治は疑う様な表情で良輔を睨んだ。良輔も観念した。
「ああ、今までは君の負担になると思って言わなかったが、この期に及んで何も隠す事はあるまい。旅の途中で妻からそういう内容のメールが届いたんだ。尤も僕の気を引く為の狂言かも知れないがね」
「しかし本当かも知れないじゃないか。もし本当だったら今頃大変な状況じゃないか」
語気を強める英治とは対照的に、良輔は訥々と語る。
「その通りだ。だが本当かどうかは僕には全く関係がない。なぜなら僕はもう家に帰らないのだから。自分が知らない事は何も起きていない事と同義なのだ。一生知らないであろう事とはもう何の聯関もない。つまり妊娠していようがいまいが、生きていようがいまいが関係ない。僕の中では、妻はもうこの世に存在しないんだよ」
「そんな…」
「これが僕の覚悟だ。君も同じ覚悟を持っているのでないなら、交通が復旧し次第帰ると良い」
英治は放心した様な、泣き出しそうな表情を浮かべて俯いた。
「幸いまだ時間はありそうだ。よく考えると良い」
良輔はそう言ってベッドに横になり、英治に背を向けて寝てしまった。良輔は背後に啜り泣きを感じた。それはいつか聞いた真弓の啜り泣きと似ていた。幸福との離別を惜しむ者の、孤独な、人恋しい啜り泣き。
(やはり誰一人私には付いて来られないのだ)
良輔は改めて思った。
ところが良輔が眠れずにいると、背後から英治の細く白い腕が伸びてきて、良輔の背を抱き寄せた。英治の柔らかな頬の感触が良輔の背に感じられた。肩に添えられた手は震えている。良輔の鼓動が英治の濡れた目尻に伝わる。英治はこの背徳に耐え、葛藤の末に良輔を選んだに違いない。すると今度は良輔の目から抑えていたものが溢れ出した。涙の理由は英治とそう変わらない。良輔自身、自由と道徳の狭間で苦しんでいたのである。
二人は無言で泣きながら、優しい痙攣の中、抱き合って眠った。