第十二章
そうして一週間が経った。二人はさすがにくたびれていた。ある夕方、二人は視界を覆う程の激しい驟雨に襲われ、近くの軒下で雨宿りをした。気が付くと二人のスーツはヨレヨレで、生気の欠片も残していない。そればかりか股の辺りから饐えた臭気が放たれ、それが時折鼻を突く始末だった。英治は困った様な顔つきであった。
「もうそろそろ新しい服を買った方が良いんじゃないか?今着てるのはもうぼろぼろだし、さすがに一日中スーツはくたびれるよ」
「しかし限られた資金だ。有効に使わないとな」
決死の覚悟で臨んだ放浪であった筈が、良輔はあろう事か金の心配などしていた。所持金が日に日に減っていくと、どんな覚悟を持った人間でも弱気になるらしい。
「なに、その辺で安いのが売ってるさ。この季節だ。上下一枚ずつでいいじゃないか」
英治の無邪気さが、良輔には救いだった。英治には何の心配事も無い様に見える。それが何となく良輔には心強く感じられた。
「大型のスーパーに行けばいくらでも売ってるだろう。どうせだから涼しい恰好をしようじゃないか」
「スーツはどうする?」
「持って歩けば良い」
「捨てないのか?こんなぼろぼろだぞ」
「捨てるなんて勿体ない。また寒くなったら着られるだろ」
(寒くなったらね…)
良輔はそんな時期まで果たしてこの生活が持続できるのか疑問であった。そんな良輔の不安をよそに、雨はあっという間に上がり、どす黒い積乱雲の間から日の光が差し込んでいた。大通りには水たまりを踏んづけて飛沫をあげる車が次々に通り過ぎる。路面は先ほどの驟雨に濡れそぼって日を照り返し、光の大河を迸らせていた。
「さあ、行こう」
駆け出した英治の向こうに、七色の円弧を連ねた鮮やかな虹が架かっていた。良輔は掌で影を作った瞳の奥に、その全貌を宿した。それは良輔の中で再び頭をもたげつつあった暗黒の不安と倦怠の裂け目から鮮明にその存在を主張する一点の光輝であった。
(ああ、こんな時だ。こんな時にこそ生命の輝きを覚えるのだ。こんな一点の渇望が、喪失が、背徳が、羈絆が、蠱惑が、業病が、私の理想なのだ。一体幸福が何だというのだ?甘ったるい安酒は人の感性を鈍らせる。悪酔いした酔漢の群れを見るが良い。彼らの下卑た笑いにはただ空虚の蠅が集るばかりだ。私達は不幸の渦の中心で吠え立てる白虎だ。不幸の流水の奥に籠る青龍だ。私達は不幸と正面から衝突すべきだ。そしてその中にある真の美しさに浴するべきだ。それだけの膂力を私達は得たのだ。何を恐れるものがあろうか!)
夏風の膨らみは緩急して、二人の背中を押した。
街中の大型スーパーに行き、二人は身動きのしやすいTシャツとハーフパンツを一着ずつ買った。途中通りがかった食料品売り場、惣菜売り場の脂っこい光、日用品売り場の無機質さ、整然とレジに並ぶ主婦たち…。そういったものに良輔は改めて吐き気を催した。日常の堆積、その氾濫。それらが良輔の前頭部に気怠くのしかかっていた。ふと良輔は買い物かごを持った主婦の一人に、母親に似た後ろ姿を認めた。結わえた髪の白髪の混じり具合がそっくりであった。良輔は一瞬物陰に隠れた。が、考えてみればこんなところで母親が悠長に買い物などしている筈も無い。人違いであった。しかしこんな人違いが良輔の焦燥を煽った。とうに逃避を了した筈のこの日常の沙漠は、そこにいる主婦達を悉く母親の幻影と映した。
「そろそろ他の場所に行こうか。京都も飽きたろ」
良輔は唐突に英治に向かって言った。英治は良輔の焦燥に気付いたか気付かぬか、それに同意した。
「そうだね。僕も丁度そう思っていたところさ。実はね、僕は海が好きなんだ。今度は海が綺麗なところに行きたいな」
「ほう、じゃあ沖縄にでも行くかい?」
「いいね。でも理想を言えばね、メキシコの海が見たいんだ」
「メキシコ?」
良輔は耳を疑った。だが全てを捨て去った自分達にもはや国境など無く、行けない場所など無いのだという考えが良輔をやや冷静な表情に押し戻した。
「そうだ。『ショーシャンクの空に』という映画を見た事があるかい?そのラストシーンで、主人公とその友人がメキシコのシワタネホの海岸で再開を果たすんだ。あの美しさは忘れられない」
「ああ、それなら昔見た気がするぞ。スティーブン・キング原作のやつだろう?しかしあの海は多分シワタネホではないな。実際のシワタネホは閑静な漁村だよ。写真で見た海ももう少し黒かったと思う」
「えっ、そうなのかい?ではどこなんだろう?」
「はっきりした事は分からんが、あそこまで澄んだ海となると、カリブ海の何処かじゃないか?ヴァージン諸島とか」
「カリブ海っていうと、キューバとかそっちの方?」
「まあ地理的にはね。領土としてはアメリカかイギリスのどっちかだったと思うよ」
「じゃあそこだ。そこに行きたい」
「まあ待て。そんなに焦る事はないさ。もっと身近な場所にも良いところはある筈だ。じっくり考えよう」
焦っていたのはむしろ良輔の方であった。彼は逃げるべき対象から絶対に逃げられないというジレンマを抱えていた。それは空の青さの様にその支配から逃れられぬ対象であった。彼は結局何から逃れようとしていたのか?それは自らの感性に他ならないだろう。場所や環境を変えたところで、感性は肉体とともに付いて回る。時に感性は肉体の先回りをして、行く手を阻む事すらあるのである。そんな訳で良輔は行く先を決め倦ねた。感性を滅却させられる場所などあろうものか?俗世を逃れて寺で座禅でも組めば良いのか?しかしそうした宗教的解決はどうも本物とは思われなかった。父親の死相に見た無の境地。そこに辿り着くには死しかあり得ないのだろうか?
(死は幸福ではない。なぜならそこは無であるから。無に幸福も不幸も無い。生命を維持したまま感性を死に至らしめるには…脳死?いや、あれこそ最も恐ろしい姿かも知れない。肉体の死にも関わらず感性が死滅していないとすれば?世の中にこんなに恐ろしい事はない。静物はこの世で最も強い。生物は最も弱い。中でも高等な感情と感性を持った人間の弱さときたら!しかしこの脆弱さはもはや一種の美では無いか?脆弱を美に至らしめる方法とは?やはり死か?馬鹿な!)
良輔は暫く一人考えた。しかしメビウスの輪の如く思考は堂々巡りした。
二人はともかく新しい服に着替えた。疲れきったサラリーマン二人は一転して少年の様な姿になった。ところが靴だけが革靴で、それがまた二人を大いに笑わせた。