第十一章
翌朝、良輔は早く目覚めた。というよりは余り深く眠る事ができなかったのである。遮光カーテンを開けると、金色の朝日が一瞬にしてベッドを濡らした。良輔は寝ぼけ眼の英治に快活に言った。
「さあ、今日はどこへ行こうか?」
心中にやましい事のある人間というのはやけに陽気なものである。良輔は昨夜の出来事について、英治に話す気にはなれなかった。話せば必ず英治の心の重荷になる筈であり、また英治の動揺によって自分の心も揺らぐ事を恐れたのである。
「何だ、まだ寝ていれば良いじゃないか」
英治はまだ昨日の疲れが抜けていない様子であった。そんな怠そうな英治に、良輔は言った。
「駄目だ。朝飯を食いそびれるぞ。寝る事なんていつだってできる」
二人はスーツに着替え、ホテルの階下に下りていき、レストランの粗末なバイキングで朝食を済ませた。お互い無言の朝食であった。英治はその間ぼんやりと昔家出をした事を思い出していた。それはまだ英治が十六の頃である。父親の淳造にこっぴどく叱られて家を出た。叱られた理由はよく覚えていないが、それ自体はごく些細な事であったと思われる。当時から反抗心が強く、それでいてその心情を全く表に出せなかった英治は、家出という形で淳造に復讐を試みたのである。結果はあっけないもので、何日か後に所持金が尽きて、公園のベンチで寝ていたところを警官に補導され、家に連れ戻されたのである。だがその事を思うと、まだたったの二日目で家の心配をする自分があの頃に比べてひどく保守的になった様な気がする。英治は社会に順応し、飼いならされた自分を嫌悪した。それと同時に、家に連れ戻されたあの頃の少年の無念を晴らそうという気持ちが沸々と湧いてきた。
(あの時とは違う。やれるところまでやってやるさ)
英治には不意に勇気が漲った。一方良輔はというと、昨夜の真弓からのメールについて考えているのであった。
(真弓はああは言っているが、あれは俺の気を引く為の出任せに違いない。こんなタイミングで子供を身籠るなんて、話ができ過ぎている。やれやれ、危うく引っかかるところだった)
部屋に戻ると、二人は嬉々としてその日の予定を話し合った。
「もう少し京都を見て回ろうか?」
「うむ、次の行き先が決まるまでそうする事にしよう」
二人は東山、祇園界隈を散策した。まず清水寺に向かった。初夏の緑と風の調和が心地よい。賑わう清水の舞台に登り、良輔は眩しそうに目を細めて言った。
「知ってるかい?清水の舞台から実際に飛び降りた人は殆ど命を取り留めているんだそうだ。しかもそれを知りながら飛ぶんだそうだよ」
高台の涼やかな風に黒い髪を靡かせて、英治は遠い目をした。
「へえ、清水の舞台から飛び降りるってのはつまり思い切った決断の事を言うんだが、それは死を前提にしているんじゃなく、死を覚悟するという意味なんだね」
「まあ、そうだろうな。死んだら決断にも意味がなくなるんだから」
「しかし死を覚悟しながら、生き延びた者が手に入れたものとは何だろう?」
「…大怪我だろうな」
「すると、僕らも大怪我を負うだろうか?」
「多分な。しかしその代わり一歩も二歩も素晴らしい景色が見られる。それに僕らは今生きている。それで充分だよ」
恐らく江戸時代から、ある種の人間には手の届かない、それも茫漠とした虚空への崇拝があったのではなかろうか?自分の立つ舞台には右を見ても左を見ても同じ顔をした庶民の幸福そうな面構えがある。しかしそれはその種の人間にとっては能面の様に気味の悪い、退屈な面構えなのである。居たたまれなくなった彼は、そこから一歩を踏み出す。そして虚空に浮かぶ観音に一切を委ね、こう哀願する。
「私はこの命を賭ける。その代わり私に必要な何かを…!」
果たして彼は命を取り留めて、何かを得られただろうか?その時、英治は遠くに白く霞むなだらかな京都の街並を見渡した。霞の向こうには死を覚悟した者が見たかも知れない、観音の微笑みが見て取れた。
その後、二人は近くの茶屋で軽食をとった。真紅の毛氈の敷かれた縁側に座り、二人はこし餡、粒餡、きなこの三種のおはぎを平らげ、茶を啜りながら話し込んだ。
「実はさあ、良さん」
「ん、何だ?」
「こんなところで言う話ではないかも知れないけど、僕は女を知らないんだ」
「どうした突然?」
「僕にやり残した事があるとすれば、それかも知れない。尤もいかがわしい店になら何度か行ったよ。それである程度は女体を知る事ができた。だけどそうじゃない。僕は女と精神的な付き合いをした事が無いんだ」
「うむ、それは難しい相談だね。そればかりは金銭で解決できる事ではないからな」
「そうだろう。どうしようもない。ただ今ふと思い付いたから、言ってみただけだ」
その後二人は八坂神社へと足を運んだ。八坂神社の本殿は割と新しく、純白の外壁に朱色の柱や軒が組まれ、上から漆黒の屋根瓦に覆われており、半紙に墨で描いた様な力強く鮮やかな神聖さを演出していた。
案内によると、本殿の東側に美の神を祀る美御前社があるという。美と言っても、それは大抵美容の意に解され、そのため女性の参拝客が多いそうであった。
「丁度良い。少しは女が分かるかも知れないぞ。行ってみよう」
そんな冷やかし半分で、二人はそこに向かった。着いてみると、そこは石造りの鳥居といい、社の色使いといい、本殿を縮小した様な小振りな神社であった。立て看板には
市杵島比売命
多岐理比売命
多岐津比売命
とある。この神社に祀られている美を司る三女神であるらしい。
「女は美しくなる為に神頼みまでするんだね」
「そりゃそうだ。女の美しさは何にも増して価値があるからね」
それを言いつつ、良輔は真弓の事を思った。美しかった真弓。今もってその美しさは健在である筈が、良輔はそれをもはや疎ましく思っているのである。
「女は美しさを愛しているのだろうか?」
英治は神殿前に湧き出ている「美容水」なる御神水を眺めて言った。
「確かに女は美しさの追求に余念がない。こうして神頼みさえしているくらいだ。だがそれは一体何の為だろうか?男の為?あるいはそこから得られる物質的幸福の為?それとも美しさそれ自体の為なのだろうか?」
「それは女になってみないと分からんね。何でまた?」
と、良輔は後頭部を掻きながら苦笑いをして言った。
「もし美しさそれ自体が目的でないとすればだ。美しさを愛しているのはむしろ男の方じゃないか?美は男にとっては生き甲斐だが、女にとっては釣り餌でしか無い訳だ」
「うーむ、つまり一見女は美しさを追い求めている様に見えて、それは実は真に美しさを求める男の為であり、反対に男が物質的成功を欲するのはそれを求める女の為というわけだね?」
「そうだ。両者は言わばねじれ状態にあるんだ」
「その理屈が正しいかどうかは一概に言えないと思うけどね、ただこういう事は言えると思う。女は出産という生産手段を持って生まれた人種なんだ。だから大概はそれを指向して生きればいい。ところが男はそれを持ち得ない。故に美などというろくでもない享楽に縋らざるを得なかった訳さ」
「生産手段を持つか否か。まるで中産階級と無産階級の違いだな」
「その通りだ。美というものは一見中産階級が所持しているようで、実は無産階級のものなんだ。なぜなら美とはあくまで他者の美への憧憬という事だからね。そういう意味では君の言った事は正しいかも知れない」
「そういえば小市民というのは中産階級の事を指すらしいけど、女の幸福というのは悉く小市民的だよなあ。しかし僕ら無産階級の仕事はそれに奉仕する事なんだよな」
「はは、それもまあ人それぞれだけどね。第一僕らは既にそんな隷属からも逃げ出してきているんだ。僕らはもはや男でも女でもない。性別を免れた資本階級だよ」
「よく言うよ。人一倍美に惹かれているくせに。良さんはある意味最も男らしい男だよ」
と、英治はからかい半分で言った。
「何を言う。僕が愛しているのは自然の美だ。それは人間の美の様に見返りを求めないからな」
真弓は良輔に見返りを求めた事など一度たりともなかった。だが良輔に良き亭主でいてくれる事を望む真弓の眼差しは良輔にとって束縛であり、他ならぬ見返りの催促であった。良輔は続けざまに言った。
「もう良いじゃないか。男女の区別なんて忘れよう。人間は本来美しい存在である筈なんだ。なのにこんな区別のせいですっかり醜くなってしまっている。これはさっき言えば良かった事だが、英治、君は女を知る必要などないよ。これからは精神の美しさを探求しよう」
その後二人は美御前社の前で手を合わせた。ふと見ると、祇園の舞妓と思しき、きらびやかな衣装に身を包んだ若い女が物珍しそうに二人を見ている。男二人でこの神社にお参りしている光景は、地元の人間からすれば異様に映ったに違いない。だが二人は肉体の美しさとは違い、精神の美しさが永遠である事を信じた。お互いの精神の美しさを讃え合う様に…。