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第十章

 二人はその夜、町中にあるビジネスホテルの一室に泊まった。気が付くとこの部屋は英治が良輔を連れて行ったあの宿の一室に似ていた。

「やあ、金閣は素晴らしかった。あの感動は言葉にできないよ」

スーツを脱いでホテルの部屋着に着替えながら、良輔は感じ入る様に言った。

「ああ、良かったね。思っていたよりも池が広くて驚いた。広大な池の奥に絢爛な金閣のぽつんと浮いた物淋しさがいいね」

既に浴衣の様な部屋着に着替えた英治はベッドの縁に脚を組んだ。

「うむ、正に鏡のようだった。しかし池と言えば僕は森厳な安民澤の方が好きだ」

しかしこんな言葉はどれも日中の二人の感動を虚しく通り過ぎるのであった。橙色の部屋の明かりは、二人の影を幾重にも壁に揺らめかせ、二人を安逸な気持ちにさせた。

「少し休んだら飯を食いにいこう」

「ああ、そうしよう」

二人はベッドに横になって、暫し仮眠を取った。二人は瞼の裏側に何の夢幻を見たか?光り輝く少年時代、家族の顔、断ち切った筈の安定した生活…。そんな飽き飽きしたものが、ここにきて初めて彼らには美しく映っていたかも知れない。二人の寝顔には蕭条たる回顧がほの見えた。それは二人が遂に辿り着いた理想郷での寝顔だったろうか…。

 二人が食事に出たのは、午後九時を回った頃である。二人はまたスーツに着替え、部屋の鍵を持って外に出た。二人の衣類はもはや今日着てきた一式しか無いのであった。ホテルのすぐ近くに料理屋があったので、そこに入った。外観は寂れた居酒屋にしか見えなかったその店は、中へ入ってみると意外に奥行きがあり、内装は和洋折衷でなかなか洒落ていた。良輔は京都の家屋が門構えに対して奥行きがあるというのを何かの話で聞いた事があったが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。

 二人は店の奥の丸テーブルに対座し、ビールとコース料理を頼んだ。注文を聞きにきたウェイトレスは白のブラウスに紺の前掛けを付け、黒い髪を結わえており清潔感があった。京女とはこういう人であってほしいと、良輔などはささやかな願望を抱いた。二人の席はガラス戸を隔てて中庭に面しており、その風景を楽しむ事ができた。二人は静かにグラスを傾けながら、中庭の隅々を見渡してその恬淡な美しさを味わった。石の囲いから真っすぐに伸びた笹の幹は愚直なまでの若さを思わせ、夜露の滴る笹の葉は行灯の柔らかな光に揺れ、塗壁に陰影を描いていた。この朴訥とした硬質な空間の隅に、慎ましく枝垂れ梅が薄桃色の花を咲かせ、一縷の和らぎを加えていた。しかし何より美しいのは静寂であった。店には他に客もおらず、調理場から微かに聞こえる音の他は、一切の音が無いのである。今までの暮らしに何と雑音の多かった事か。街の喧噪や駅の構内放送、車やトラックの轟音といった騒音を嫌と言う程聞かされているのに、家では下らぬテレビの笑い声が部屋中を支配している。こんな店に食事にでも来ようものなら店内に流れる馬鹿馬鹿しい音楽と他の客の乱痴気騒ぎで食い気も失せてしまう。人に会えば沈黙を怖がっておしゃべりに明け暮れ、どこまでも薄っぺらな関係を育む。こんな風に都市の生活にあっては沈黙や静寂は忌み嫌われ、徹底して排除されているのであった。それを思えば、このしっとりと快い重みを持った閑静と、それを愛する事のできる人間の関係は疎外された環境においてのみ味わえるものであった。

 やがて二人の前に料理が運ばれてきた。お造りや天ぷら、お吸い物、おでん、フィレ肉のステーキ等、どれを取っても薄味で出汁がきいており、飽きのこない味であった。それらを平らげると、すぐさまゆかりを振りかけたご飯と赤出汁のみそ汁、京漬物が出された。特に酸味のある赤出汁は英治の大好物であった。二人はそれで満腹になったが、最後にマンゴーの豆乳シャーベット乗せが出たので、二人はそれをよく味わって食べた。唾液腺が痛む程の美味であった。

 美味佳肴は二人の胃袋をすっかり満足させたが、その精神の方は果たしてどうだったであろう?英治は食後の番茶を啜りながら話し出した。

「文句無く美味かった。ここは静かだし、中庭も綺麗だ。だがね良さん。僕らはこんな事をしにきたんだろうか?こんな事はせいぜい三日程休日を取って旅行に来ればできる事だ」

英治は満腹になって冷静な思考を取り戻したのだろうか?金閣寺に行く前の質問を繰り返した。良輔は怪訝な表情で問い返す。

「君はまだ分からないのか?僕らは単なる旅行者とは違う。全てを投げ打ってここに来ているんだ。崖っぷちから見る景色は格別だよ」

「それは分かる。金閣寺だって、そのお陰で人一倍堪能できた。だけど何かこう満たされないものがあるんだ」

「じゃあ君は何がしたいんだ?言ってごらん」

「それは分からない」

英治は毅然として言った。

「そうだろう。僕らは何かを求めて来ている訳じゃない。何かから逃げて来たんだ。そんな僕らにやるべき事などある筈が無い。何をしたって同じだよ」

英治は黙ってしまった。だがその沈黙は言葉に詰まったと言うより何かを躊躇している様子であった。

「しかし君の気持ちは分かる。だからやりたい事があったら何でも言ってくれ。それが何であろうと僕は君に付き合うさ」

良輔は英治を慰める様に言った。だが慰めとは常に自分に向いているもので、良輔は英治が何か言い出せば、それを叶えてやる事が自分の成すべき仕事であると考えていた。良輔自身これから何をしていいのか見当もつかないのであった。

 店を出ると、二人はホテルの部屋に戻って風呂に入った。濡れた髪の英治が言う。

「ねえ、そう言えば携帯の電源切りっぱなしだったよね?怖いけど、チェックしてみる?」

一瞬の躊躇いの後、良輔は

「ああ、いいよ」

と答えた。二人は合図を出し、同時に携帯電話の電源を入れた。しかし良輔はその振りをして入れなかった。自分の生活の瓦解を目にする事がこの上なく怖かった。しかし英治にそれを悟られたくなかったのである。

「僕の方は職場から着信があるだけだ。他は何にも来てない。普段から無断外泊してるから、妻も慣れているんだろう」

と嘘をついて手早く携帯電話を鞄にしまった。英治はと言うと、真剣な顔つきで画面を覗き込んでいる。

「うわあ、両親から二十件近くメールが来ているよ。今何をしているの?どこにいるの?とりあえず連絡ください。だってさ」

英治は苦々しい顔をして、再び電源を切った。

(見なきゃ良かった)

そんな英治の悔恨はそのまま表情に表れていた。

「何だったら、今から帰るかい?今ならまだ取り返しがつくぞ」

良輔の一言は英治の後ろ髪を引いた。この心情は一滴の未練も残していなかった筈の英治の決意を大きく揺るがした。そしてその迷いは英治の自尊心を著しく傷つけた。

「まさか」

とは言ってみたものの、英治の顔色は優れなかった。英治はベッドに突っ伏し、そのまま眠ってしまった。

 英治が眠りに就いた後、良輔は鞄から一冊のノートを取り出した。仕事用のノートだったが、日記はこのノートに書く事にした。机上のスポットライトの明かりの下、良輔は紙面にボールペンを滑らせた。断続的な筆の音は静かな詩の独唱を思わせた。

「私は遂に歩き出した。私を苦しめ続けた希望に向かって。そしてそれが一体どこにあるのか見当もつかずに。しかも私は一人の若者を道連れにしてしまった。彼は明らかに破滅を恐れている。それは当然だ。今まで周囲から愛されて育った人間が、その全てに別れを告げる事など叫び声をあげる程の苦痛だろう。その気持ちは痛い程によく分かる。現に私だって恐ろしいのだ。私は携帯電話を見る事ができなかった。無断欠勤した職場からは連絡が来ているだろう。会社から家に連絡が入って、真弓が心配しているかも知れない。そうなれば実家にも連絡が行き、母や姉や弟にまで心労を強いているかも知れないのだ。想像するだに恐ろしい!だがこれは私にとって試練だ。私は強くならなければならない。これに耐え抜いて自らの生を獲得しなければならないのだ。ここで挫けてしまったら、もう私の一生にその機会はないだろう。耐え抜いた先に何があるのか私は知らぬ。だが耐え抜かねばならない!英治も恐らくその事をよく分かっているのだ。英治とて同じ苦しみに喘ぎながらも、それに耐え抜こうと必死なのだ!」

良輔はペンを置くと、決心した様に鞄から携帯電話を取り出した。そして深呼吸して呼吸を整えると、その電源を入れた。画面から眩い白光が放たれる。良輔は着信履歴、及び受信メールをチェックした。大方は良輔の予想と違わなかった。ある一通のメールを除けば。職場からの着信、上司、あるいは母や姉からの怒号のメールの中にあって、一際良輔の思考を奪ったメールがあった。それは妻の真弓から届いたメールであった。

「私達の子供ができました。お願いですから、早く帰ってきてください」

良輔の視線はその文面を何度もなで回していた。だがその文面の純粋な意味から思考は一歩も動かない。呆然と、良輔はバックライトの消えた画面を見つめていた。と、その時、再び画面のバックライトが灯り、バイブレーションがけたたましく唸り出した。良輔の心臓は破裂しそうな程高鳴り、思わず身を仰け反らせた。それは真弓からの電話であった。良輔は携帯電話を落としそうになりながら、慌てて電源を切った。そしてベッドでうつ伏せに寝ている英治に飛びつき、がたがたと震えた。


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