第一章
俺は架空のオペラとなった。俺はすべての存在が、幸福の宿命を持っているのを見た。行為は生活ではない、一種の力を、言わば、ある衰耗をでっち上げる方法なのだ。道徳とは脳髄の衰弱だ。
アルチュール・ランボー
*
良輔は突然、父を喪った。それは良輔が市役所に勤め始めて丁度一年経った頃の出来事であった。春の微風が襟元を柔らかく通り抜けてゆく日和、妖しげな生暖かさが凶事の前兆であった様に今では思われる。殺風景なオフィスの雑然と書類の散らかった机で仕事をしていた良輔の携帯電話に、一通のメールが届いた。
「良輔、悲しいお知らせです。お父さんが今日亡くなりました」
それは母からの父の訃報であった。あまりにも突然の出来事に、良輔の中の時間は暫し静止した。何の感情も持ち得ない時間の滞りに対し、周りの事物だけが忙しなく動作している事が良輔にはただ不思議に思われるのだった。
普段は感情の起伏が頗る激しい母である。こんな時に限って冷静なメールを送ってよこす母の表情を、良輔は想像しかねた。それはもしかすると余りにも動揺し過ぎた人間が却って冷静さを堅持した時の残酷な表情かも知れなかった。
良輔は上司に事情を話し、忌引き休暇を取って実家の長野県に帰った。気が競っているくせに妙に頭がぼんやりしていて、何だか全てが苛立たしかった。行き先とは逆方向の電車に間違って乗ってしまった事で、良輔は自分の動揺の大きさを知り、それにより更に苛立った。とは言えこれほどの緊急事態に翻弄される自分が、灰色に蠢く人混みの中にあって一際輝いている様にも思えた。乗り間違えをしたせいで最短距離を大きく迂回して帰省する間抜けな自分が、勇猛な冒険者の如く危険な存在に思えた。
それでも何とか長野行きの新幹線に乗車すると、良輔は酷く疲れた様子で深々と溜め息をつき、スーツのジャケットを脱いだあと、乱暴に窓辺にもたれかかって闇に沈んだ遠くの景色を眺めた。凍った星々の様な外灯が点々と浮かぶ田畑、寂れた田舎町を次々と映し出す窓ガラスには物憂げな男の顔が浮かんでいた。虚ろで、放恣なその表情…。闇夜に紛れて深く淀んだ目の奥で、良輔は父との思い出を蘇らせ、やっとのことで感傷に浸ったのである。
長野駅で新幹線を降りて乗り継いだローカル線に暫く揺られていると、ふと見上げた車窓の外に姨捨の夜景が広がった。その景観の美しさで全国的に有名なスポットである。漆黒の善光寺平に宝石を隙間無く敷き詰めた様な眩い景観が、薄暗く人気の無い車内にいた良輔の頬を神妙に照らした。明滅する光の群れは、天の川の様な豪奢な光の奔流を成していた。電車は夜景を誇示するかの様に停止し、少しだけ後退したかと思うと、またゆっくりと動き出した。光の渦は山間に隠れ、すぐに見えなくなった。こんな緊急事態にあって、良輔は名残惜しい様な気がしていた。
(こんな時でさえ、美しいものは美しい)
良輔は心に沁み入る様に感じていた。この世のあらゆる規範、道徳、情念からの一切の評価を免れて、美しいものはただその存在のみをもって美しい。それは美しいという以上の意味を持たず、また持つ必要も無いのだった。
良輔が実家近くの病院に到着した頃には、午後九時を過ぎていた。駅からはタクシーで病院に向かった。病院の玄関口には姉の沙知と弟の哲平が待っていた。沙知は悲愴な表情の上に無理に作った微笑を浮かべて良輔に手を振っていた。哲平は気怠そうに壁に寄りかかって携帯電話をいじくり、良輔を瞥見したきり再びその画面に視線を戻した。
「おかえりなさい、遅かったじゃないの」
微笑を崩さずに温柔な口調で言う姉は、心なしかいつもより美しかった。肉欲を持たない近親者の自分が感じる美しさは、恐らく本物であると良輔は心密かに自負した。尤もその自負は今に始まった事ではなく、良輔が物心ついた時から一貫して持ち続けている自負であった。
「ああ、途中で乗る電車を間違えてね。えらく遠回りをしてしまったよ」
と、良輔は正直に答えた。哲平が良輔の不手際を咎めた。
「予定より一時間以上遅いぞ」
哲平は携帯電話で時刻表を調べていたらしい。彼は彼なりの方法で良輔の到着を待ちこがれていたのである。良輔は弟の感情、つまり一刻も早く兄と悲しみを分かち合いたいという欲求を持つ心の頼りなさを愛しく思った。弱さとは愛の温床であり、それをひた隠す弟のいじらしさは却って愛の存在を浮き彫りにしたのである。
「そんな事より、さあ、早く行きましょう」
沙知が促すと、一同は暗い病院の廊下を、靴音だけを響かせて歩き出した。
消毒液の臭い、真っ暗な廊下、すきま風が不気味なうめき声をあげる部屋という部屋、窓から見える鬱蒼とした山野、そして父の死。この状況下にあって、良輔は心の底から高揚していた!何という人間的心情の懈怠だろう!こんな時に人間は何を思うべきなのか?人間的心情の営為とは、このような不真面目な感情では決して無かった筈である。
一室だけ明かりの漏れている病室に、良輔は通された。そこには母がいた。泣きはらした顔を持ち上げて、母は良輔に向かって笑いかけた。
「ごめん、遅くなって」
良輔は自らの発した事務的な第一声に少しだけ落胆した。しかし間もなく病室のベッドに横たわる父の姿が目に入った。純白の寝具に包まれた父の身体は微動だにせず、何の浮き沈みもしていなかった。青白い死相には、薄く閉ざされた瞼、静かに結ばれた口元と微かな安堵の表情が垣間見えた。それは良輔の記憶にある父の寝顔と大差ない様に思われた。だが父はもう目覚めないのだ。
母親は父の側に寄って言った。
「しょうがないさ、仕事中だったんだもの。さあ、よく見ておやり。お父さん、良君が帰ってきたよ」
父に優しく囁きかける母の姿を見て、沙知がこらえきれずに嗚咽した。母は父の白髪混じりの頭髪を慈しむ様に撫でると、
「お父さん…」
と呟いて、父の胸の当たりに顔を伏せ、暫くそこを動かなかった。哲平は暗くて何も見えない窓の方を向いて黙っていた。
一連の家族の様子を見て、良輔は父をかつて無い程尊敬した。
(父は間違いなく立派な人間だった。妻子を養い、僕らをここまで育て上げて、家族に愛された末に死んだ。こんなに安らかに、安堵の表情さえ浮かべて。まるで一つの大仕事を終えた後の眠りの如く…。父は最期まで強い人だった)
父はまだ五十九だった。早過ぎる死だった。これほどに早い最期を目前にして、人間はここまで安逸な顔でいられるものだろうか?しかし父の表情には恐れや迷いの欠片も見当たらなく、それどころか悲嘆にくれる家族を一人慰めている様にすら思えるのだった。良輔は掌を父の額にあてた。生命の通わない肉体は、良輔の掌の熱を奪う程冷たかった。それは何と潔い冷たさだったろう。氷室の様な峻厳な冷たさ。父はもはや魂を一片としてこの肉体には残していないのだ。
(これが死というものか)
俯いた良輔の両頬に、生暖かい涙が伝わった。この涙は何の為に流されたものであったろうか?それは良輔の家族と同類の悲しみの涙では無かった。父の、家族のこの瞬間に、良輔は心を動かされていた。どんな映画や演劇を見ても一度として泣いた事の無い良輔は、この時感涙に濡れていたのである。病室の静寂は快くその場を支配した。
医者の説明では、良輔の父の死因は脳梗塞であるとの事であった。