第六話 崩壊寸前の都市
施設管理官に任命されてから、二ヶ月が経った。
桐生は、ようやくこの都市のインフラの全体像を把握しつつあった。
それは、想像以上に深刻な状態だった。
「報告書をまとめました」
桐生は、リーネの執務室で、分厚い書類の束を差し出した。
「バルトハイムの設備状況報告書。現状と課題、優先対応事項、中長期的な修繕計画を記載しています」
リーネは、その書類を受け取り、ページをめくった。
表紙には、都市の地図が描かれている。
地図上のあちこちに、色付きの印がついている。
緑、黄色、赤。
緑の点は少なく、黄色が多く、赤もそれなりにある。
「これは……」
「設備の状態を色分けしたものです。緑は正常、黄色は要注意、赤は緊急対応が必要。見ての通り、この都市は全体的に老朽化が進んでいます」
リーネは、地図を見つめながら、深い溜息をついた。
「こんなにも……」
「前任者が何年も怠慢を続けた結果です。正直、よくここまで持ちこたえたと思います」
桐生は、報告書の主要な項目を説明した。
魔導炉——修理は完了したが、根本的な改修が必要。現状は応急処置に過ぎない。五年以内に、炉心の全面交換が必要になる。
上水道——貯水槽の清掃は完了。だが、配管の約三割が老朽化しており、順次交換が必要。漏水による水の無駄も多い。
下水道——魔獣の侵入を防ぐため、入口に鉄格子を設置した。だが、管渠自体の老朽化も進んでおり、大雨時には溢れる可能性がある。
城壁——亀裂の補修は進めているが、根本的には石材の積み直しが必要。特に北側は、地盤沈下の影響で歪みが生じている。
一つ一つ、問題点と対策を説明していく。
リーネは、真剣な表情で聞いていた。
時々質問を挟み、理解を深めようとしている。
「……大変なことになっていますね」
説明が終わると、リーネは静かに言った。
「父が亡くなる前から、この状態だったのでしょうか」
「おそらく。前任者の怠慢は、少なくとも五年以上続いていたはずです」
「五年……」
「お父上は、気づいていなかったのでしょうか」
桐生は、慎重に言葉を選んだ。
この問題は、単なる設備の話ではない。
前任者を任命したのは、先代領主だ。
つまり、リーネの父だ。
その責任を問うことになりかねない。
「……前任者の報告書は、見ました」
桐生は言った。
「すべて『異常なし』と書かれていた。お父上は、その報告を信じていたのでしょう」
「信じていた……」
「現場を見なければ、分かりません。報告書だけでは、真実は見えない。それは、どの世界でも同じです」
リーネは、黙って俯いた。
その肩が、かすかに震えている。
父の無念を思っているのだろう。
あるいは、自分の責任を感じているのだろう。
桐生は、それ以上何も言わなかった。
慰めの言葉は、今は必要ない。
必要なのは、行動だ。
「これからどうするか、を話しましょう」
桐生は、報告書の後半部分を示した。
「優先対応事項を、三つに絞りました」
一つ目——魔導炉の延命措置。全面改修は予算と時間がかかりすぎる。まずは、現状の炉を可能な限り延命させる。定期的な点検と、消耗部品の交換。五年を目標に、改修の準備を進める。
二つ目——上水道の漏水対策。配管の全面交換は無理でも、特に漏水のひどい箇所を優先的に補修する。これだけで、水の無駄が三割は減る。節約できた水は、非常時の備蓄に回せる。
三つ目——城壁の補強。特に北側の構造を安定させる。地盤沈下が原因なら、根本的な対策が必要だが、まずは応急処置として、支えを入れて崩壊を防ぐ。
「この三つを、まず半年で実行します。予算と人員の配分は——」
桐生が説明を続けていると、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、ガルドだった。
「リーネ様、キリュウ殿。お客様です」
「客?」
「王都からの使者が到着しました。視察団、とのことです」
リーネの表情が、わずかに強張った。
「……通してください」
数分後、執務室に三人の男が入ってきた。
先頭に立つのは、四十代の貴族。整った身なりに、計算高そうな目つき。
その後ろに、二人の護衛らしき男が控えている。
「お久しぶりです、リーネ殿」
貴族は、慇懃な笑みを浮かべた。
「王国内務省の視察官、ヴェルナーと申します。先代領主のご逝去、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます、ヴェルナー卿」
リーネは、形式的な挨拶を返した。
だが、その声には警戒の色が滲んでいる。
「早速ですが、本題に入らせていただきます」
ヴェルナーは、執務室を見回した。
「王都では、この都市の状況を懸念する声が上がっております。先代領主の急逝、若い領主代理の就任、そして——」
ヴェルナーの目が、桐生に向いた。
「異世界から召喚された、正体不明の男の登用」
「彼は、施設管理官です」
リーネが、毅然と言った。
「この都市のインフラを再建するために、召喚の儀式によって呼ばれた方です」
「召喚の儀式……なるほど。しかし、それが本当かどうか、どうやって証明するのですか?」
「私が証人です。儀式の場に立ち会いました」
「若い領主代理の証言だけでは、心許ないですな」
ヴェルナーは、わざとらしく溜息をついた。
「王国としては、この辺境の安定を心配しているのです。ガルディア帝国との国境に近いこの地が混乱すれば、王国全体に影響が及びます」
「混乱などしておりません」
「しかし、噂では、魔導炉が停止したとか。上水道が汚染されていたとか」
「いずれも、すでに対処済みです」
「対処……ねえ」
ヴェルナーは、桐生を見た。
「あなたが、施設管理官殿ですか」
「桐生です」
「キリュウ……変わった名前ですな。どこの出身で?」
「別の世界です」
「別の世界。ふむ。それは便利な言い訳ですな。身元を確認しようがない」
桐生は、黙ってヴェルナーを見つめた。
この男が何を狙っているか、おおよそ見当がついた。
リーネの立場を揺るがそうとしている。
若い領主代理に、正体不明の男が取り入っている——そういう構図を作り、彼女の信用を落とそうとしている。
王都の誰かの意向だろう。
先代領主がいなくなった今、この領地を狙っている者がいるのだ。
「視察をしたいとのことですが」
桐生は、冷静に言った。
「何を見たいのですか」
「都市の設備の状態を」
「わかりました。案内しましょう」
桐生は、先ほどの報告書を手に取った。
「ちょうど、状況をまとめたところです。魔導炉、上水道、下水道、城壁——すべてお見せします」
「それは……」
ヴェルナーが、意外そうな顔をした。
隠すと思ったのだろう。問題を隠蔽し、取り繕うと思ったのだろう。
だが、桐生はそうしなかった。
「問題があることは、隠しません。前任者の怠慢で、この都市のインフラは深刻な状態にあります。ですが、今、改善に取り組んでいます。その現状を、正直にお見せします」
「……正直に、ですか」
「はい。隠しても、いずれバレます。バレた時のダメージの方が大きい。なら、最初から正直に言った方がいい」
桐生は、ヴェルナーの目を真っ直ぐ見た。
「それが、俺のやり方です」
視察は、三日間にわたって行われた。
桐生は、ヴェルナー一行を案内し、都市のあらゆる設備を見せた。
魔導炉の修理跡。
貯水槽の清掃後の状態。
補修された城壁。
新しく設置された下水道の鉄格子。
すべてを、包み隠さず見せた。
問題点も、隠さなかった。
まだ老朽化している配管。
まだ歪みが残る城壁の北側。
まだ不安定な魔導炉の一部。
そして、それぞれに対する対策計画も説明した。
ヴェルナーは、最初は粗探しをするつもりだったようだ。
だが、桐生が先回りして問題点を指摘し、対策を説明するので、批判の余地がなくなっていった。
三日目の夕方——。
「……なるほど」
ヴェルナーは、複雑な表情で言った。
「予想外でしたな。この都市が、これほど組織的に管理されているとは」
「まだ道半ばです」
桐生は言った。
「問題は山積みです。でも、一つ一つ解決していきます」
「あなたは……本当に、別の世界から来たのですか」
「ええ」
「そこでも、同じような仕事を」
「ビル管理会社で働いていました。建物の設備を維持する仕事です」
「ビル……?」
「この世界で言う、城や商館のようなものです。それを、大勢の人が利用する。その設備を、安全に、快適に保つ。それが俺の仕事でした」
ヴェルナーは、しばらく桐生を見つめていた。
その目には、最初にあった侮蔑の色は消えていた。
代わりに、困惑と、かすかな敬意が浮かんでいた。
「……王都に戻り、報告します」
ヴェルナーは言った。
「この都市は、問題を抱えているが、改善に向けて取り組んでいる。領主代理は若いが、有能な補佐がいる。当面は、静観すべきだ、と」
「ありがとうございます」
リーネが、深く頭を下げた。
ヴェルナー一行が去った後、リーネは桐生に言った。
「助かりました。あなたがいなければ、私だけでは……」
「俺は、正直に話しただけです」
「それが、難しいのです」
リーネは、小さく笑った。
「政治の世界では、誰もが何かを隠しています。正直に話す人は、珍しいのです」
「隠しても、いつかバレる。バレた時に、信頼を失う。なら、最初から正直に言った方がいい。それだけです」
「シンプルですね」
「シンプルが一番です」
桐生は、窓の外を見た。
夕焼けが、都市を橙色に染めている。
「さて、仕事に戻りましょう。明日は、北側城壁の補強工事の確認があります」
「はい。私も同行します」
「領主代理が、現場に来る必要はないでしょう」
「いいえ。私も、現場を見なければなりません」
リーネは、真剣な表情で言った。
「父のようには、なりたくありませんから」
桐生は、少し驚いた。
そして、頷いた。
「……わかりました。では、明日、朝七時に」
「はい。よろしくお願いします」
リーネが去った後、桐生は一人、執務室に残った。
机の上には、報告書の束が積まれている。
まだまだ、やることは山積みだ。
だが——。
少しずつ、前に進んでいる。
一人ではできないことも、仲間がいればできる。
信頼してくれる人がいれば、できる。
元の世界では、得られなかったもの。
この世界では、それがある。
桐生は、窓の外の夕焼けを見ながら、小さく笑った。
悪くない。
この世界も、悪くない。




