第三話 炎の中で
魔導炉の緊急停止から三日が経った。
炉心の亀裂は、予想以上に深刻だった。
技術者たちの報告によれば、あのまま稼働を続けていれば、六時間以内に魔力暴走が起き、炉心が爆発していたという。爆発の規模は、城を中心に半径五百メートルを壊滅させるほどだったと試算された。
城下町の大部分が、消し飛んでいたことになる。
「あなたの判断がなければ、私たちは今頃……」
リーネは、そう言って言葉を詰まらせた。
桐生は、首を横に振った。
「判断が早かっただけです。遅かれ早かれ、誰かが気づいていた」
「そうでしょうか。前任の施設管理官は、何年もこの炉を見ていたはずです。それでも、異常に気づかなかった」
「見ていなかったんでしょう。数字だけ見て、現場を見ていなかった」
桐生の言葉には、苦い記憶が滲んでいた。
元の世界でも、同じことがあった。報告書の数字だけを見て、現場に来ない管理者。異常の予兆を見逃し、事故が起きてから騒ぎ出す上司。
どの世界でも、同じなのだろう。
現場を知らない人間が、現場を管理しようとする愚かさは。
「炉の修理には、どのくらいかかりますか」
桐生は、リーネに尋ねた。
「技術者の見立てでは、最低でも二週間は必要とのことです。その間、魔導炉からの魔力供給は停止します」
「それは、どういう影響が出る」
「都市の照明、暖房、浄水設備、すべてが止まります。住民の生活に、深刻な支障が出ます」
桐生は、腕を組んで考えた。
元の世界で言えば、ビル全体が停電した状態だ。
非常用電源があれば、最低限の機能は維持できる。だが、それも限界がある。
「代替手段は」
「小型の魔導器を複数稼働させることで、最低限の機能は維持できます。ですが、出力が足りません。照明か暖房か浄水か、どれかを選ばなければなりません」
「全部は無理だと」
「はい」
桐生は、しばらく考え込んだ。
優先順位を決める必要がある。
何を守り、何を諦めるか。
それは、施設管理の本質的な問いだ。
「浄水を優先してください」
桐生は言った。
「水がなければ、人は三日で死にます。照明や暖房は、人力で代用できます。だが、清潔な水だけは代わりがない」
「わかりました。そのように手配します」
リーネは、すぐに指示を出した。
その判断の早さに、桐生は感心した。
若いのに、決断力がある。領主としての資質は十分だ。ただ、経験が足りないだけで。
その日の午後、桐生は都市全体の巡回を開始した。
魔導炉だけではない。この都市のインフラは、全般的に老朽化している。
リーネの話では、前任の施設管理官は、記録を改竄していたという。
本来行うべき点検を行わず、「異常なし」と報告し続けていた。その結果、設備の劣化は放置され、今や都市全体が崩壊寸前になっている。
上水道。
城の北側にある貯水槽を確認する。
スキルが反応する。黄色。危険度は中程度。だが、放置すれば赤に変わる。
貯水槽の内部を覗くと、水が濁っていた。
本来、透明であるべき飲料水が、わずかに緑がかっている。
「……藻が発生している」
桐生は呟いた。
水槽の清掃が行われていない証拠だ。
さらに、水槽の壁面には、黒いスライムが付着していた。
これは——。
「魔素汚泥です」
同行していた技術者が説明した。
中年の男で、名をハインリッヒという。この都市で長年設備の管理に携わってきた、数少ない経験者だ。
「魔導炉から放出される魔力の一部が、水に溶け込んで沈殿したものです。少量であれば無害ですが、蓄積すると……」
「水質が悪化する」
「はい。最悪の場合、魔素病を引き起こします」
魔素病——この世界特有の疾患だという。
汚染された水や空気を摂取することで、体内に魔素が蓄積し、様々な症状を引き起こす。
軽度であれば倦怠感や頭痛。重度になると、臓器不全で死に至ることもある。
元の世界のレジオネラ症に似ている、と桐生は思った。
冷却塔の管理を怠ると、菌が繁殖し、それを吸い込んだ人が肺炎を起こす。
この世界でも、同じような危険が存在するのだ。
「清掃の記録は」
「ありません。少なくとも、私が知る限り、この一年間は行われていないはずです」
「一年……」
桐生は、眉を顰めた。
元の世界では、受水槽の清掃は年に一回以上が義務付けられている。それでも、一年に一回では足りないと思うことがある。
この世界で一年以上放置されているとなれば、状況は深刻だ。
「すぐに清掃を手配してください。それと、住民に周知を。しばらくは、煮沸してから飲むように」
「わかりました」
ハインリッヒが走り去っていく。
桐生は、点検表に記録を残した。
日付、場所、発見した異常、指示した内容。
元の世界と同じだ。
記録を残す。証拠を残す。
何かが起きたときに、「自分は警告した」と言えるように。
下水道。
城下町の東側にある排水口を確認する。
スキルが反応する。赤。危険度は高い。
排水口からは、悪臭が立ち上っていた。
桐生は、顔を顰めながら、排水溝の蓋を開けた。
中を覗くと、汚水が溢れかけていた。
本来、流れていくべき汚水が、詰まって滞留している。
「これは……」
「詰まっていますね」
ハインリッヒが、戻ってきて言った。
「下水管のどこかが閉塞しているようです」
「原因は」
「おそらく、魔獣の死骸か何かでしょう。時々、小型の魔獣が下水管に入り込んで、そのまま死ぬことがあります」
桐生は、溜息をついた。
元の世界でも、似たようなことはある。ネズミや鳥が配管に入り込んで、詰まりの原因になる。
だが、魔獣とは。
「除去できますか」
「はい。ただ、下水管に入る作業は危険です。有毒ガスが発生している可能性もありますし、もし生きた魔獣がいたら……」
「俺が行きます」
桐生は言った。
「危険な作業を、部下にだけやらせるわけにはいかない」
「ですが、あなたは召喚された方。万が一のことがあれば——」
「万が一を防ぐために、点検するんです」
桐生は、腰に下げた工具袋を確認した。
懐中電灯、軍手、マスク、ロープ。
この世界に来てから、リーネが用意してくれた道具だ。
元の世界の工具ほど高性能ではないが、使えないことはない。
「案内してください」
ハインリッヒは、しばらく桐生の顔を見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
「……畏まりました。こちらです」
下水管の入り口は、城下町の外れにあった。
石造りのトンネルが、地下へと続いている。
桐生は、懐中電灯を点け、中へ入った。
悪臭が、鼻を突く。
マスクをしていても、完全には防げない。
だが、これくらいは慣れている。
元の世界でも、汚水槽の点検は何度も行った。
人間が嫌がる場所に、誰かが入らなければならない。
それが、この仕事だ。
トンネルの中を、ゆっくりと進む。
足元は滑りやすく、壁面には苔が生えている。
天井からは、水滴が落ちてくる。
スキルが、前方に異常を感知した。
赤。
何かがいる。
桐生は、足を止めた。
懐中電灯の光を、前方に向ける。
そこには——。
巨大な塊があった。
最初は、岩だと思った。
だが、違う。
それは、生き物だった。
いや、生き物だったもの。
全長三メートルほどの、トカゲのような生物の死骸。
すでに腐敗が進んでおり、体液が下水に溶け出している。
これが、詰まりの原因か。
桐生は、慎重に近づいた。
スキルが、さらに強く反応する。
危険。
この死骸自体が危険なのか。それとも——。
その時、死骸の影から、何かが動いた。
小型の、犬ほどの大きさの生物。
鋭い牙を剥き出しにして、桐生を睨んでいる。
子供だ。
この巨大なトカゲの子供が、親の死骸の傍で、生き延びていたのだ。
「……まずいな」
桐生は、後退しようとした。
だが、遅かった。
魔獣の子供が、襲いかかってきた。
鋭い爪が、桐生の腕を掠める。
痛みが走る。血が滲む。
だが、致命傷ではない。
桐生は、とっさに工具袋からスパナを取り出し、振り回した。
魔獣の頭部に、鈍い音が響く。
魔獣がよろめく。
その隙に、桐生は距離を取った。
「大丈夫ですか!」
トンネルの入り口から、ハインリッヒの声が聞こえる。
「問題ない! 魔獣がいる! 援軍を呼んでくれ!」
桐生は叫んだ。
魔獣は、再び態勢を整えて、桐生を睨んでいる。
一匹だけではない。
死骸の影から、さらに二匹の子供が現れた。
三対一。
武器は、スパナだけ。
絶望的な状況だ。
だが——。
桐生の目は、魔獣たちではなく、その背後に向けられていた。
下水管の壁面。
そこに、亀裂がある。
古くなった石材が、崩れかけている。
スキルが、その亀裂を感知している。
黄色。
今すぐではないが、いずれ崩壊する。
だが、もし今、強い衝撃を与えれば——。
桐生は、賭けに出た。
魔獣たちに背を向け、全力で走った。
亀裂の真下を通り過ぎる瞬間、スパナを思い切り壁に叩きつける。
轟音。
石材が崩れ落ちる。
魔獣たちは、その下敷きになった。
桐生は、崩落を避けて、トンネルの入り口まで走り抜けた。
外に出ると、ハインリッヒと数人の兵士が待っていた。
「大丈夫ですか! 血が——」
「かすり傷だ。それより、中の魔獣は片付いた。死骸の撤去を頼む」
桐生は、息を整えながら言った。
腕の傷が、じくじくと痛む。
だが、生きている。
また、生き延びた。
その夜、桐生は城の一室で、傷の手当てを受けていた。
治癒魔法を使える者がおり、傷はすぐに塞がった。
元の世界では、何週間もかかったであろう怪我が、数分で完治する。
魔法というのは、便利なものだ。
「無茶をしすぎです」
リーネが、桐生の傍らに座って言った。
「あなたは召喚された方。この都市にとって、かけがえのない存在です。もっと自分を大切にしてください」
「仕事ですから」
桐生は、淡々と答えた。
「危険な現場に入るのは、施設管理の一部です。誰かがやらなければならない。なら、自分がやる。それだけです」
「それだけ、とおっしゃいますが……」
リーネは、桐生の顔をじっと見つめた。
「あなたは、元の世界でも、同じように働いていたのですか」
「ああ」
「誰も見ていない場所で、誰も感謝しない仕事を」
「そういうものだ」
桐生は、視線を窓の外に向けた。
夜空には、見慣れない星座が輝いている。
元の世界とは、違う空だ。
「俺のやっていた仕事は、成功しても誰も気づかない。設備が正常に動いているのは当たり前だから。でも、失敗すれば、すぐに批判される。電気が止まった、水が出ない、空調が効かない。それは誰のせいだ、と」
「理不尽ですね」
「かもしれない。でも、それでいいと思っていた。何も起きないこと。それが俺たちの成果だ。誰も知らなくても、俺は知っている。俺が守ったんだ、と」
リーネは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「私は、知っています」
桐生は、リーネを見た。
「あなたが、この都市を守ってくれていること。魔導炉を止める決断をしてくれたこと。下水道に入って、魔獣と戦ってくれたこと。全部、私は知っています」
「……ありがとうございます」
桐生は、小さく頭を下げた。
感謝されることに、慣れていなかった。
元の世界では、感謝されることなど、ほとんどなかった。
だが——。
悪くない気分だった。
誰かが、自分の仕事を見てくれている。
誰かが、自分の努力を認めてくれている。
それだけで——。
続けていける気がした。




