第二十六話 国境の小競り合い
王都での謁見を終えた桐生とリーネは、バルトハイムに向かう帰路についていた。
だが、その途中で、予期せぬ事態に遭遇した。
「桐生殿、大変です!」
護衛の兵士が、慌てた様子で報告してきた。
「国境付近で、帝国軍との小競り合いが発生しました!」
「何だと」
桐生は、顔を顰めた。
「バルトハイムは、大丈夫なのか」
「今のところ、直接の被害はありません。ただ、国境の村が攻撃を受け、避難民がバルトハイムに流入しているとのこと」
「避難民……」
リーネが、不安そうな表情を浮かべた。
「どのくらいの規模ですか」
「数百人規模と聞いています。さらに増える可能性も……」
桐生は、考え込んだ。
避難民の流入。
それは、インフラへの負荷を意味する。
水、食料、住居、衛生——すべてにおいて、対応が必要になる。
「急いでバルトハイムに戻るぞ」
桐生は、馬車の御者に指示を出した。
「最短ルートで頼む」
「承知しました」
馬車は、速度を上げた。
三日後——。
バルトハイムに到着した桐生たちは、予想以上の状況に直面した。
城門の前には、大勢の避難民が集まっていた。
疲弊した顔、汚れた衣服、不安そうな目。
老人、女性、子供——戦える者はほとんどいない。
彼らは、帝国軍の攻撃から逃れてきた民間人だった。
「キリュウ殿!」
ハインリッヒが、駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。大変な状況です」
「状況を報告しろ」
「はい。避難民は、現時点で約六百人。さらに増える見込みです。城内には収容しきれないため、城下町の空き家や倉庫を仮設の避難所として使用しています」
「衛生状態は」
「……あまり良くありません。人が密集しているため、感染症の懸念があります」
桐生は、眉を顰めた。
これは、まずい。
大勢の人間が、不衛生な環境で密集している。
感染症が発生すれば、あっという間に広がる。
「すぐに対策を打つ。まず、避難所の衛生管理を徹底しろ。トイレの設置、飲料水の確保、ゴミの処理。メイラに指示を出せ」
「わかりました」
「次に、病気の兆候がある者を隔離する。症状が出る前に、発見して対処する」
「発見して……どうやって?」
「俺のスキルを使う」
桐生は、城門に向かって歩き出した。
「今から、避難民を一人一人確認する。時間がかかるが、やるしかない」
「キリュウ殿、お一人で……」
「一人じゃない。お前も手伝え。俺が異常を感知したら、その人をメモしておけ」
「はい」
桐生は、避難民の列に向かった。
スキル【予知保全】を発動させながら、一人一人を観察していく。
緑……緑……緑……黄色。
「この人。熱が出始めている」
「わかりました」
緑……緑……赤。
「この人は、もっと深刻だ。すぐに隔離して、治療者を呼べ」
「はい」
作業は、延々と続いた。
六百人を超える避難民を、一人一人確認する。
単調で、地味で、時間がかかる作業。
だが、桐生は手を抜かなかった。
一人でも見落とせば、そこから感染が広がる。
予防は、一つの穴も許されない。
夜になっても、作業は終わらなかった。
桐生は、松明の明かりの中で、作業を続けた。
「キリュウ殿、少し休んでください」
ハインリッヒが、心配そうに言った。
「まだだ。あと百人くらいいる」
「でも、お体が——」
「大丈夫だ。これくらい、元の世界では普通だった」
桐生は、苦笑した。
「ビル管理の仕事は、年末年始に特別点検があってな。三日間ぶっ通しで働いたこともある。それに比べれば、これは楽な方だ」
「……すごいですね」
「すごくない。ただの現場作業員だ」
作業が終わったのは、深夜だった。
結果、感染症の疑いがある者は、全部で二十三人。
そのうち、重症者は四人。
彼らは、すぐに隔離され、治療が開始された。
「お疲れ様でした、キリュウ殿」
リーネが、温かい飲み物を持ってきた。
「ありがとうございます」
桐生は、それを受け取り、一口飲んだ。
体の芯から、温まる。
「避難民の皆さんも、感謝していました。見知らぬ者たちを、こんなに丁寧に診てくれるなんて、と」
「……当たり前のことをしただけです」
「当たり前?」
「はい。人が多く集まれば、病気が広がるリスクがある。だから、事前に発見して対処する。予防の基本です」
リーネは、桐生をじっと見つめた。
「キリュウ殿は、いつもそうですね。『当たり前』とおっしゃいますが、その『当たり前』が、私たちにはできなかったのです」
「……」
「前の施設管理官は、こんなことはしませんでした。避難民が来ても、『勝手にしろ』と言って放置したでしょう。病気が広がっても、『運が悪かった』で片付けたでしょう」
リーネは、真剣な目で桐生を見た。
「キリュウ殿の『当たり前』は、この世界では『特別』なのです。どうか、それを忘れないでください」
桐生は、何も言わなかった。
ただ、飲み物を飲み干した。
自分は、特別なことをしているとは思わない。
ただ、やるべきことをやっているだけだ。
壊れる前に直す。
問題が起きる前に予防する。
それが、施設管理者の仕事だ。
その信念は、この世界でも変わらない。




