第二話 予兆
光が見えた。
白い光だ。眩しくて、目を開けていられない。
これが、死後の世界というやつだろうか。
桐生誠一は、ぼんやりとそう思った。
宗教には興味がなかった。死んだら無になると思っていた。だが、こうして意識があるということは、何かが続いているのだろう。天国か、地獄か、あるいはそのどちらでもない場所か。
どこでもいい、と桐生は思った。
もう、点検しなくていいのだ。報告書を書かなくていいのだ。黒崎に怒鳴られなくていいのだ。
少し、休めるかもしれない。
光が、徐々に弱まっていった。
目を開けると、見知らぬ天井があった。
石造りの天井。アーチ状に組まれた石が、蝋燭の光に照らされて、橙色に揺れている。
ここは——どこだ。
桐生は、体を起こそうとした。
だが、全身が鉛のように重い。指一本動かすのにも、莫大なエネルギーが必要な気がする。
「お気づきになられましたか」
声がした。
若い女性の声だ。澄んでいて、どこか気品がある。
桐生は、首だけを動かして、声の方向を見た。
少女がいた。
十代後半か、二十歳前後か。銀色の髪を腰まで伸ばし、深い青色の瞳をしている。白を基調とした、中世ヨーロッパ風のドレスを着ている。
何かのコスプレだろうか。いや、それにしては衣装が本格的すぎる。布の質感、刺繍の細かさ、宝石の輝き——どれも、本物のように見える。
「ここは……」
桐生は、かすれた声で尋ねた。
「バルトハイム城です。アルテシア領の中心地、辺境城塞都市バルトハイム」
少女の答えは、桐生の理解を超えていた。
バルトハイム。アルテシア領。辺境城塞都市。
聞いたことのない地名だ。日本にも、世界のどこにも、そんな場所はないはずだ。
「私はリーネ・フォン・アルテシア。この領地の領主代理を務めております。あなたは——」
「桐生……桐生誠一です」
「キリュウ・セイイチ。異国の名前ですね」
リーネと名乗った少女は、桐生の顔をじっと見つめた。
その目には、好奇心と、かすかな期待と、そして不安が入り混じっていた。
「率直に申し上げます。あなたは、召喚されたのです」
「召喚……?」
「この世界とは別の世界から、召喚の儀式によって呼び寄せられました。私たちの窮状を救う力を持つ者として」
桐生は、しばらく黙っていた。
召喚。別の世界。儀式。
どれも、現実離れした言葉だ。
だが——。
あの火災を思い出す。炎に包まれた機械室。崩れ落ちる天井。確実に、自分は死んだはずだ。
それなのに、今、こうして意識がある。
見知らぬ場所で、見知らぬ少女と話をしている。
これが夢でないなら、何だというのだ。
「……信じられない話ですね」
桐生は、正直に言った。
「ご理解いただけないのは当然です。ですが、これは現実です。あなたは今、クローネスと呼ばれる世界にいます。この世界には、魔法が存在し、魔物が徘徊し、人々は領主の下で暮らしています」
「魔法……」
「証明してみせましょう」
リーネは、右手を軽く振った。
その瞬間、彼女の手のひらに、小さな炎が灯った。
蝋燭の火ではない。何もないところから、突然現れた炎だ。
それは、リーネの意志に従って揺らめき、やがて消えた。
「これが、火属性の初歩魔法です。この世界の住民であれば、多少の差はあれ、誰でも使えます」
桐生は、何も言えなかった。
目の前で起きたことが、理解できなかった。
手品ではない。トリックでもない。本当に、何もない空間から火が生まれたのだ。
これが、魔法。
これが、異世界。
「……なぜ、俺を召喚したんです」
ようやく、桐生は口を開いた。
「この都市は、危機に瀕しているからです」
リーネの表情が、曇った。
「父——先代領主が、三ヶ月前に急逝しました。それ以来、都市の運営は私に委ねられていますが、私はまだ若く、経験がありません。加えて、都市のインフラが崩壊寸前なのです」
「インフラ?」
桐生は、その単語に反応した。
「そうです。この都市を支える基盤——魔導炉、上下水道、城壁、すべてが老朽化し、機能不全を起こしています。前任の施設管理官が怠慢だったせいで、何年も放置されてきました」
「施設管理官……」
「召喚の儀式は、『この都市を救う力を持つ者』を呼び寄せるものでした。そして現れたのが、あなたです。つまり、この世界の神々が選んだのは——」
リーネは、桐生の目を真っ直ぐに見た。
「施設管理者、なのです」
桐生は、思わず笑いそうになった。
勇者でも、魔法使いでも、戦士でもない。
施設管理者。
ビルメン。
自分のような、地味で目立たない職業の人間が、異世界を救う者として召喚された。
何かの冗談だろうか。
「……俺は、戦えませんよ」
桐生は言った。
「剣も使えない。魔法も使えない。できることといえば、点検と修繕くらいだ」
「それで十分です」
リーネは、真剣な表情で答えた。
「この都市に必要なのは、戦士ではありません。今すぐ敵と戦うわけではないのです。必要なのは、崩壊していくインフラを立て直し、都市の機能を回復させる力。それこそが、召喚に応えた者の役割なのです」
桐生は、黙ってリーネの話を聞いていた。
インフラの崩壊。機能不全。老朽化。
聞き慣れた言葉だ。
元の世界でも、同じ問題に取り組んできた。
古くなった設備。放置された配管。怠慢な管理。
それを一つ一つ点検し、修繕し、維持してきた。
「……詳しい話を、聞かせてもらえますか」
桐生は言った。
「何がどうなっているのか。何が壊れていて、何が動いているのか。全部」
リーネの目に、かすかな希望の光が灯った。
「もちろんです。ご案内します」
翌日、桐生はリーネに連れられて、都市の視察に出かけた。
まず驚いたのは、自分の体が完全に回復していたことだ。
昨日まで、指一本動かすのも辛かったはずなのに、今朝目覚めると、まるで別人のように体が軽かった。筋肉痛もない。疲労感もない。三十二年の人生で、これほど体調がいい朝は記憶にない。
「召喚時の魔力消耗が回復したのでしょう」
リーネは、桐生の疑問にそう答えた。
「異世界からの召喚は、膨大な魔力を消費します。召喚された者も、その影響を受けます。一晩休めば、本来の状態に戻るはずです」
「本来の状態……」
桐生は、自分の手を見た。
節くれだった、荒れた手。それは変わっていない。だが、その手に力がみなぎっている感覚がある。今なら、工具を一日中握っていても疲れない気がする。
「それと、もう一つ。召喚された者には、この世界の神々から『恩恵』が与えられます」
「恩恵?」
「特殊な能力のことです。元の世界での経験や特性に応じて、その人物にふさわしい力が与えられると言われています」
リーネは、空中に手をかざした。
すると、桐生の目の前に、半透明の板が現れた。
文字が書かれている。
【ステータス】
名前:桐生誠一
種族:人間(異界人)
年齢:32
職業:施設管理官
レベル:1
体力:E
魔力:E
敏捷:E
知力:C
技術:A
【スキル】
・予知保全(CBM)〈固有〉
設備の状態を常時感知し、故障の予兆を察知する。
効果範囲:半径100メートル
感知精度:異常発生の24時間前
桐生は、その文字を見つめた。
予知保全。
CBM——Condition Based Maintenance。
状態基準保全。設備の状態を監視し、異常の予兆が出たタイミングで保全を行う手法。
自分が、ずっと追い求めてきた理想の保全方式だ。
黒崎に何度も提案し、何度も却下された。
「数値で示せ」と言われ、示せなかった。
だが——。
今、それがスキルとして、自分に与えられている。
設備の異常を、壊れる前に感知する能力。
自分がずっと、勘と経験で感じ取ろうとしてきたものが、今は確実に「見える」。
「……これは」
「お心当たりが、おありですか」
リーネが尋ねた。
桐生は、小さく頷いた。
「ああ。これは——俺向きだな」
苦笑が、自然と浮かんだ。
運命の皮肉、というやつだろうか。
元の世界では、予知保全は夢物語だった。いくら自分が異常を感じ取っても、「根拠がない」と退けられた。
だが、この世界では違う。
予知保全が、スキルとして成立している。
異常を感じ取れば、それが「能力」として認められる。
数値がなくても、「この設備は危ない」と言えば、信じてもらえる——かもしれない。
「では、ご案内します」
リーネは、桐生を城の外へ導いた。
バルトハイム城は、小高い丘の上に建っていた。
石造りの城壁に囲まれた、中世ヨーロッパ風の城。その周囲に、城下町が広がっている。
石畳の道。木造と石造りが混在した建物。行き交う人々は、中世の農民のような服を着ている者もいれば、鎧を纏った兵士もいる。
だが、桐生の目は、そうした風景よりも、別のものに向いていた。
道端の水路。
建物の壁から突き出た排気口。
地面に埋め込まれた、金属製の蓋。
インフラだ。
どんな世界でも、人が暮らす場所には、インフラがある。
水を供給し、汚物を排出し、熱を循環させるシステム。
それがなければ、都市は成り立たない。
「まず、魔導炉をお見せします」
リーネは、城の地下へと桐生を案内した。
魔導炉——この都市のエネルギー源だという。
元の世界で言えば、受変電設備に相当するものだろう。
階段を下り、長い廊下を進み、厚い扉を開けると——。
そこには、巨大な装置があった。
高さ十メートルはあるだろうか。金属と水晶で構成された、複雑な構造物。その中心には、青白い光を放つ球体がある。
そして——。
桐生は、スキルが発動するのを感じた。
頭の中に、警報が鳴り響いている。
赤。
この設備は、危険だ。
今すぐ止めないと、大変なことになる。
「……この炉、いつから動いてますか」
桐生は、静かに尋ねた。
「創設以来ですから、およそ二百年になります」
「二百年……」
桐生は、魔導炉に近づいた。
目で見る。装置の表面に、亀裂がある。継ぎ目から、かすかに光が漏れている。
耳で聞く。唸り音が、不規則だ。規則正しいはずのリズムが、ときどき乱れる。
鼻で嗅ぐ。焦げ臭い。オゾンのような、鋭い匂いがする。
すべてが、危険の予兆だ。
「止めましょう」
桐生は言った。
「えっ……」
リーネが、驚いた顔をした。
「止める、とは……」
「緊急停止です。今すぐ」
「ですが、この炉を止めたら、都市の機能が——」
「止めなければ、都市ごと吹き飛びます」
桐生の声には、有無を言わせない強さがあった。
リーネは、桐生の目を見た。
そこには、確信があった。
「……わかりました。あなたを信じます」
リーネは、傍らの兵士に命じた。
「魔導炉の緊急停止を。全職員に退避を指示して」
兵士が駆け出していく。
やがて、轟音とともに、魔導炉の光が消えた。
静寂が訪れる。
その直後——。
「何だ、これは……」
技術者らしき男が、魔導炉の内部を確認して、叫んだ。
「炉心に亀裂が入っている……あと数時間で、暴走していたところだ……」
リーネは、桐生を見た。
「なぜ、わかったのですか」
桐生は、肩をすくめた。
「……勘、ですかね」
本当は、スキルのおかげだ。
だが、それを説明するのは、まだ早い気がした。
この世界のことを、もっと知る必要がある。
自分の立場を、もっと固める必要がある。
それまでは——。
「とりあえず、他の設備も見せてください。全部、点検します」
桐生は言った。
「魔導炉だけじゃない。上下水道、空調、城壁、全部。この都市のインフラを、一から洗い出す」
リーネは、深く頭を下げた。
「お願いします。施設管理官殿」
施設管理官。
その肩書きが、今、桐生の新しいアイデンティティになった。
元の世界では、誰にも理解されなかった。
この世界では——。
少なくとも、一人は信じてくれる人がいる。
それだけで、十分だった。




