第十六話 予防という思想
冷却塔の一件は、桐生に一つの確信を与えた。
この都市には、「予防」という概念が根付いていない。
壊れてから直す。
病気になってから治す。
問題が起きてから対処する。
それが、この世界の——少なくとも、この都市の——常識だった。
だが、桐生は知っている。
予防は、事後対応よりもはるかに効率的だ。
コストも、時間も、犠牲も、はるかに少なくて済む。
壊れる前に直す。
病気になる前に予防する。
問題が起きる前に手を打つ。
それが、施設管理の——いや、あらゆる管理の——本質だ。
ある日、桐生はリーネに提案を行った。
「『予防保全』という考え方を、この都市に導入したい」
「予防保全……」
リーネは、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「設備が壊れる前に、定期的に点検し、部品を交換し、劣化を防ぐ手法です。壊れてから直す『事後保全』とは、対照的なアプローチです」
「なるほど……。でも、壊れていないものを直す必要があるのですか?」
「あります」
桐生は、断言した。
「設備は、使っていれば必ず劣化します。今日は動いていても、明日は止まるかもしれない。その『止まる』タイミングを、私たちは選べないのです」
「選べない……」
「事後保全では、設備が壊れるタイミングは、設備任せです。いつ壊れるか、わからない。壊れた時に、たまたま対応できればいい。でも、最悪のタイミングで壊れることもある」
桐生は、冷却塔の例を挙げた。
「もし、冷却塔の問題に気づかないまま、夏の盛りに再稼働していたら? 都市中に魔素病が蔓延していたかもしれません」
「……確かに」
「予防保全なら、そうしたリスクを最小化できます。定期的に点検し、問題の芽を早期に摘み取る。壊れる前に直すから、『いつ壊れるか』を心配しなくていい」
リーネは、考え込んでいた。
「でも、予防保全には、コストがかかるのでは?」
「かかります。でも、事後保全のコストよりも、はるかに少ない」
桐生は、数字を示した。
「例えば、ある部品が壊れた場合、交換に必要な費用が十としましょう。でも、壊れる前に定期交換すれば、費用は三で済む。なぜなら、周辺の部品へのダメージがないから」
「三分の一……」
「さらに、壊れた時の損失を加えると、差はもっと大きくなります。設備が止まっている間、生産ができない。サービスが提供できない。それが、いくらの損失になるか」
桐生は、リーネの目を見た。
「冷却塔の例で言えば、もし清掃が間に合わず、魔素病が蔓延していたら? 死者が出ていたかもしれない。都市の信頼が失われていたかもしれない。その損失は、清掃にかけたコストの何十倍、何百倍になる」
「……確かに」
「予防は、投資です。将来のリスクを減らすための、先行投資。コストに見えるかもしれないけど、長い目で見れば、はるかに安く上がる」
リーネは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「前の施設管理官は、違うことを言っていました」
「何と」
「『壊れていないものに金をかけるな』と。『無駄だ』と」
桐生は、苦笑した。
「それが、今の状況を招いた原因です」
「はい。今は、よくわかります」
リーネは、立ち上がった。
「キリュウ殿の提案を、受け入れます。予防保全の考え方を、この都市に導入してください」
「ありがとうございます」
「いいえ。お礼を言うのは、私の方です。この都市を、本当の意味で守ってくれている」
桐生は、頭を下げた。
それから、桐生は予防保全の仕組みを整備していった。
まず、すべての設備について、点検スケジュールを作成した。
日次点検。週次点検。月次点検。年次点検。
それぞれの頻度で、何を確認するかを明確にした。
次に、部品の交換サイクルを決めた。
各部品には、設計上の寿命がある。
その寿命が来る前に、予防的に交換する。
壊れてからでは、遅い。
さらに、点検記録のフォーマットを整備した。
いつ、誰が、どこを、どうやって点検したか。
結果はどうだったか。
すべてを、文書で残す。
記録があれば、問題のパターンが見えてくる。
どの設備が、どのくらいの頻度で、どんな異常を起こしやすいか。
そのデータを分析すれば、さらに効率的な予防が可能になる。
「これは……膨大な作業ですね」
ハインリッヒが、点検スケジュールを見ながら言った。
「ああ。でも、やる価値はある」
「私たちに、できるでしょうか」
「できる。一人では無理でも、チームならできる。そのために、組織があるんだ」
桐生は、技術班の全員に、予防保全の考え方を説明した。
「壊れてから直すのは、誰でもできる。でも、壊れる前に気づいて、直すのは、プロの仕事だ。俺たちは、プロだ。だから、予防する」
最初は、抵抗もあった。
「壊れていないものを、なぜ触るんだ」
「余計な仕事が増える」
そんな声も聞こえた。
だが、桐生は粘り強く説明を続けた。
そして、実際に予防保全の効果が出始めると、反対の声は消えていった。
「前は、しょっちゅうトラブルが起きていたのに、最近は静かだな」
「点検のおかげかもしれない」
「確かに、面倒だけど、急なトラブル対応よりはマシだ」
少しずつ、予防保全の文化が根付いていった。
桐生は、それを見て、満足感を覚えた。
自分のスキルだけでは、この都市は守れない。
でも、予防保全の仕組みがあれば、自分がいなくなった後も、都市は守られる。
それが、本当の意味での「管理」だ。
属人化しない。仕組みで回す。
そのために、自分は働いている。




