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施設管理業異世界転生『予知保全スキルで異世界のインフラを守ります ~ビルメンは世界の破滅フラグを見逃さない~』  作者: もしものべりすと


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第一話 点検は続く

午前五時四十五分。


 桐生誠一は、誰もいないビルの地下二階で目を覚ました。


 正確には、眠っていたわけではない。仮眠室のパイプベッドに横たわり、天井の染みを数えながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。宿直勤務の夜は、いつもそうだ。完全に意識を手放すことができない。どこかで警報が鳴るかもしれない。ポンプが止まるかもしれない。受水槽の水位が異常を示すかもしれない。


 そんな「かもしれない」が、三十二年の人生で染みついた習性になっていた。


 携帯電話のアラームが鳴る十五分前に、桐生は静かにベッドから降りた。作業着はすでに身につけている。宿直の夜は、いつでも動けるようにそのまま横になるのが彼の流儀だった。


 洗面所で顔を洗い、鏡を見る。


 疲れた顔だ、と思う。


 目の下には薄い隈があり、頬はこけ、髪には白いものが混じり始めている。三十二歳にしては老けて見える。だが、それがこの仕事の代償だと、桐生は理解していた。人々が安心して眠っている夜に起きている。人々が当たり前に使っている電気、水、空調の裏側で、誰かが見守っている。その「誰か」が自分であることに、桐生は密かな誇りを持っていた。


 たとえ、それを誰も知らなくても。


 たとえ、それを誰も評価しなくても。


 防災センターに戻ると、夜勤の相棒である佐々木が、モニターの前で船を漕いでいた。六十代半ばのベテランで、この業界に四十年以上いる。桐生が入社した頃、右も左もわからない新人だった頃に、一から仕事を教えてくれた恩人でもある。


「佐々木さん、交代しますよ」


 桐生が声をかけると、佐々木は慌てて目を開けた。


「おお、桐生か。すまんな、ちょっとウトウトしてた」


「いいですよ。何もなかったですか」


「ああ、平和なもんだ。二時頃に三階の感知器が一回反応したが、誤報だった。タバコの煙だろう」


「また喫煙者ですか。何度注意しても聞かないですね」


「まあ、人間てのはそういうもんだ。自分だけは大丈夫だと思ってる」


 佐々木は欠伸を噛み殺しながら、日誌を桐生に手渡した。几帳面な字で、夜間の出来事が記録されている。二時十五分、三階東側感知器発報。現場確認、火災なし。喫煙による誤報と判断。二時三十分、復旧。


 桐生はそれを読み、頷いた。


「了解です。お疲れ様でした」


「ああ、お前もな。今日も長いぞ」


 佐々木が仮眠室に消えていくのを見送り、桐生は防災センターの椅子に腰を下ろした。


 目の前には、十二台のモニターが並んでいる。エントランス、エレベーターホール、駐車場、機械室、屋上——ビルのあらゆる場所を映し出すカメラの映像。その隣には、中央監視装置のディスプレイがある。空調の運転状況、電力の使用量、給排水のポンプの稼働状態、火災報知設備の警戒状態。このビルという巨大な生き物の、すべての生命徴候がここに集約されている。


 桐生は、その一つ一つを確認していった。


 空調は正常。外気温度は八度。まだ暖房運転が必要な季節だ。


 電力は正常。深夜電力から昼間電力への切り替えは六時。あと十五分。


 給水ポンプは正常。受水槽の水位は七十パーセント。


 排水ポンプは正常。汚水槽の水位は三十パーセント。


 火災報知設備は正常。全フロア警戒中。


 異常なし。


 その二文字を確認するために、桐生は毎日この作業を繰り返している。異常なし。何も起きていない。それが、この仕事の成果だ。


 六時になると、日勤の設備員たちが出勤してくる。桐生は彼らに引き継ぎを行い、朝の点検巡回に出発した。


 点検表を片手に、地下二階から屋上まで、すべての機械室を回る。これが桐生の朝のルーティンだ。


 まず、地下二階の受変電設備。


 キュービクル——高圧の電気を受け取り、ビル内で使える電圧に変換する装置——の扉を開け、中を確認する。電圧計、電流計、電力計の針を読み取り、点検表に記入する。六千六百ボルトの高圧電流が、ここを通ってビル全体に供給されている。一歩間違えば、命に関わる。


 桐生は、計器の数値だけでなく、五感を使って設備の状態を確認した。


 目で見る。端子の変色はないか。焦げた跡はないか。


 耳で聞く。トランスの唸り音に異常はないか。いつもと違う振動はないか。


 鼻で嗅ぐ。焦げ臭い匂いはしないか。絶縁体が劣化していないか。


 異常なし。


 点検表にチェックを入れ、次の場所へ移動する。


 地下一階の空調機械室。


 巨大な空調機が、低い唸り声を上げて稼働している。桐生はフィルターの汚れ具合を確認し、Vベルトの張り具合を指で触って確かめた。ゴムの弾力は十分。まだ交換の必要はない。だが、あと三ヶ月もすれば、そろそろ限界だろう。点検表の備考欄に、その旨を記入しておく。


 一階のポンプ室。


 給水ポンプと排水ポンプが、規則正しいリズムで動いている。吐出圧力を確認し、ベアリングの温度を手で触って確かめる。異常なし。


 屋上の冷却塔。


 まだ冷房シーズンではないので、停止中だ。だが、桐生は欠かさず確認する。充填材にスライムが付着していないか。ボールタップは正常に動くか。水抜きは完了しているか。冬の間に放置された冷却塔は、春になって再起動したときにトラブルを起こしやすい。予防が大切だ。


 屋上から見下ろすと、都市の朝が始まっていた。


 出勤する人々の流れ。走り去る車。開店準備を始める店舗。誰もが、自分の一日を始めようとしている。


 彼らは知らない、と桐生は思う。


 この街の下に、どれだけの配管が走っているか。この建物の中に、どれだけの設備が稼働しているか。電気が来ること。水が出ること。空調が効くこと。それがどれだけ多くの人間の手によって維持されているか。


 知らなくていい、とも思う。


 それが当たり前であること。それこそが、自分たちの仕事の成果なのだから。


 点検巡回を終えて防災センターに戻ると、デスクの上に一枚の紙が置かれていた。


『桐生へ。九時に本社会議室。出席のこと。黒崎』


 黒崎——プロパティマネジメント部の担当者。このビルの運営を統括する立場にある男。


 桐生は、その名前を見た瞬間、胃の奥が重くなるのを感じた。


 九時ちょうどに会議室に入ると、黒崎はすでに席についていた。


 四十代半ば、痩せぎすの体躯に、神経質そうな顔立ち。常に眉間に皺を寄せ、何かを計算しているような目つきをしている。高級そうなスーツを着ているが、どこか着こなしが窮屈に見える。


「座れ」


 挨拶もなく、黒崎は言った。


 桐生は黙って椅子に腰を下ろした。


「先月の報告書を見た」黒崎はノートパソコンの画面を睨みながら言う。「冷却塔の薬剤費が予算を超過している。説明しろ」


「殺菌剤の投入量を増やしました」


「なぜだ」


「レジオネラ菌の検査結果が基準値ギリギリでした。安全マージンを取るために、投入量を一・五倍にしています」


「基準値内なら問題ないだろう」


「ギリギリでは危険です。レジオネラ症は、発症すれば死亡率が高い。万が一、このビルで感染者が出たら——」


「万が一の話をしているんじゃない」


 黒崎は、桐生の言葉を遮った。


「私が聞いているのは、なぜ予算を超過したかだ。基準値内であれば、現状維持でよかったはずだ。余計なコストをかける必要はない」


「予防のためです」


「予防?」黒崎は鼻で笑った。「数字に出ないものに金をかけるのは、経営的には無駄だ。何も起きなければ、その金は捨てたのと同じだ」


「何も起きないようにするために、金をかけているんです」


「詭弁だな」


 黒崎は、パソコンを閉じた。


「いいか、桐生。私の仕事は、このビルの収益を最大化することだ。お前たち管理会社の仕事は、最小のコストで、最低限のサービスを提供することだ。それ以上でも、それ以下でもない。お前が勝手に『予防』とやらに金をかけて、それで何か成果が出るのか? 出ないだろう。何も起きないんだからな」


「何も起きないことが成果です」


「そんな屁理屈は通用しない。数字で示せ。削減した損失を金額で示せ。できないだろう? できないことに金は出せない。来月からは、薬剤費を元の予算内に収めろ。以上だ」


 桐生は、何か言い返そうとした。


 だが、言葉が出てこなかった。


 何度も、同じような会話を繰り返してきた。何度も、同じような結論に至ってきた。数字に出ないものは、存在しないのと同じ。目に見えない危険は、危険ではない。予防にかけるコストは、無駄なコスト。


 それが、黒崎の——そして、この業界の——常識だった。


「……わかりました」


 桐生は、そう答えるしかなかった。


 会議室を出て、エレベーターを待つ間、桐生は自分の手を見た。


 節くれだった、荒れた手。工具を握り、配管を触り、汚れた機械を清掃してきた手。この手で、どれだけの設備を守ってきただろう。どれだけのトラブルを未然に防いできただろう。


 誰も知らない。誰も見ていない。


 それでいい、と思ってきた。


 それが自分の仕事だ、と思ってきた。


 だが、時々、虚しくなる。


 自分がやっていることに、意味があるのだろうか。誰にも理解されず、誰にも評価されず、ただ黙々と点検を続ける日々に、意味があるのだろうか。


 エレベーターの扉が開いた。


 桐生は、その中に乗り込んだ。


 午後は、受水槽の点検だった。


 ビルの地下にある巨大な水槽。このビルの飲料水と生活用水は、すべてここに一旦貯められる。桐生は、水槽の蓋を開け、内部を確認した。


 水は澄んでいる。異臭はない。壁面にスライムの付着もない。


 次に、残留塩素の測定。


 試薬を使って、水中の塩素濃度を測る。これは、法律で定められた義務だ。飲料水の安全を確保するために、七日以内に一回、必ず測定して記録しなければならない。


 結果は〇・三ppm。基準値は〇・一ppm以上。問題ない。


 桐生は、点検表に数値を記入した。日付、時刻、測定値、測定者の署名。この記録は、五年間保存される。万が一、水質事故が起きたときの証拠になる。


 万が一。


 その言葉が、桐生の頭の中で引っかかった。


 黒崎は言った。万が一の話をしているんじゃない、と。


 だが、万が一は起きる。


 起きたときには、もう手遅れなのだ。


 点検を終えて、桐生は地下二階に向かった。


 先ほど確認したキュービクル。高圧受電設備。


 朝の点検では、異常なしだった。だが、何かが引っかかっていた。言葉にできない、漠然とした違和感。


 桐生は、キュービクルの扉を開けた。


 目で見る。異常なし。


 耳で聞く。トランスの唸り音は……いつもと同じ……いや、違う。わずかに、音が高い。


 鼻で嗅ぐ。匂いは……何も感じない……いや、かすかに、何かが焦げているような……。


 桐生は、顔を近づけた。


 トランスの端子。そこに、わずかな変色があった。朝には気づかなかった。あるいは、朝にはなかったのかもしれない。


 これは——。


 桐生の背筋に、冷たいものが走った。


 接触不良だ。


 端子の接続部分で、わずかな隙間が生じている。そこに電流が流れるたびに、火花が散る。火花が散るたびに、端子が焦げる。焦げるたびに、接触抵抗が増す。抵抗が増すたびに、発熱が大きくなる。発熱が大きくなるたびに、絶縁体が劣化する。劣化が進めば、いずれ——。


 短絡。


 火災。


 爆発。


 桐生は、すぐに防災センターに戻った。


「佐々木さん、キュービクルに異常があります」


 仮眠から戻ってきた佐々木が、桐生の報告を聞いた。


「異常? 朝は何ともなかっただろう」


「トランスの端子に変色があります。接触不良の初期症状です。このままだと、短絡する可能性があります」


「そりゃまずいな。すぐに電気保安協会に連絡するか」


「その前に、黒崎さんに報告しないと。緊急停止が必要になるかもしれません」


 緊急停止。つまり、ビル全体を停電させるということだ。テナントに影響が出る。業務が止まる。損害が発生する。


 だが、放置すれば、もっと大きな損害が発生する可能性がある。


 桐生は、黒崎に電話をかけた。


「何だ」


 不機嫌そうな声が返ってきた。


「キュービクルの件で、報告があります。トランスの端子に異常が見つかりました。接触不良の可能性があり、このままでは短絡の恐れがあります。緊急停止と点検を提案します」


 電話の向こうで、沈黙があった。


「根拠は」


「端子の変色と、トランスの異音です」


「数値は」


「まだ取っていません。ですが——」


「数値も取らずに、緊急停止だと?」黒崎の声に、苛立ちが滲んだ。「お前の『勘』で、テナント全員の業務を止めろと言うのか。損害賠償はどうする。責任は誰が取る」


「ですが、このまま放置すれば——」


「放置しろとは言っていない。電気保安協会に連絡して、次回の定期点検で確認させろ。それまでは様子を見ろ」


「次回の定期点検は、来月です。それまでに——」


「来月まで持たないという根拠は? 数値で示せ。できないなら、緊急停止は認められない」


 電話は、一方的に切れた。


 桐生は、しばらく受話器を握ったまま、動けなかった。


 数値で示せ。


 何度も言われてきた言葉だ。


 だが、設備の異常は、いつも数値に出るとは限らない。


 長年の経験で培った勘。五感で感じ取る微細な変化。それが、数値に現れるよりも早く、異常を察知することがある。


 だが、それは「根拠がない」と切り捨てられる。


 桐生は、キュービクルの前に戻った。


 変色した端子を、もう一度見つめる。


 嫌な予感がする。


 この設備は、持たない。


 来月までは、絶対に持たない。


 だが、それを証明する「数値」は、今の桐生にはない。


 桐生は、自分の点検表に、詳細な記録を残した。日付、時刻、発見した異常、報告した内容、黒崎の回答。これが、自分にできる精一杯だった。


 万が一のときに、少なくとも、自分は警告したという証拠を残しておく。


 万が一は起きる。


 桐生は、それを知っていた。


 その夜、桐生は宿直だった。


 防災センターで、一人でモニターを見つめていた。


 時刻は午前一時。ビルは静まり返っている。テナントはすべて退社し、警備員だけが巡回している。


 モニターには、何も映っていない。空っぽの廊下、点灯したままの非常灯、動かないエレベーター。


 静かな夜だ。


 何も起きない夜だ。


 それが、最高の夜なのだ。


 だが、桐生の胸の奥では、何かがざわついていた。


 あのキュービクルのことが、頭から離れない。


 変色した端子。高くなった唸り音。かすかな焦げ臭さ。


 すべてが、危険の予兆だ。


 自分には、それがわかる。


 だが、誰も信じてくれない。


 午前二時。


 桐生は、もう一度キュービクルを見に行くことにした。


 地下二階への階段を降りる。非常灯の薄明かりが、コンクリートの壁を照らしている。自分の足音だけが、静寂の中に響く。


 機械室の扉を開ける。


 キュービクルの前に立つ。


 扉を開ける——その瞬間。


 桐生の目に、オレンジ色の光が飛び込んできた。


 端子が、赤熱している。


 火花が、散っている。


 絶縁体から、煙が上がっている。


「まずい——」


 桐生が叫んだ瞬間、轟音が響いた。


 爆発だ。


 衝撃波が、桐生の体を吹き飛ばした。


 壁に叩きつけられる。頭を打つ。視界が暗転する。


 熱い。


 炎が、あたりを包んでいる。


 逃げなければ——。


 だが、体が動かない。


 頭から血が流れている。足が、何かに挟まれている。


 遠くで、警報が鳴っている。


 火災報知設備が、作動している。


 良かった、と桐生は思った。


 設備は、正常に動いている。


 自分が維持してきた設備が、最後まで正常に動いている。


 それだけで——。


 意識が、遠のいていく。


 炎の向こうに、誰かの姿が見えた。


 清掃員だ。夜間清掃の担当者が、異常に気づいて駆けつけてきたのだ。


「桐生さん! 桐生さん!」


 若い女性の声が聞こえる。


 逃げろ、と言いたかった。


 俺はいいから、逃げろ、と。


 だが、声が出ない。


 女性は、燃える機械室に飛び込んできた。


 桐生の体を引きずり出そうとしている。


 馬鹿だ、と桐生は思った。


 自分なんかを助けようとして、巻き添えになってどうする。


 だが——。


 嬉しかった。


 誰かが、自分のために危険を冒してくれている。


 誰かが、自分を助けようとしてくれている。


 それだけで——。


 炎が、迫ってくる。


 天井が、崩れ落ちてくる。


 桐生は、最後の力を振り絞って、女性を突き飛ばした。


 出口の方へ。


 安全な方へ。


 自分の代わりに、彼女だけでも——。


 轟音。


 熱。


 そして、暗闘。


 最後に桐生が見たのは、天井から降ってくる炎の塊だった。


 ああ、と桐生は思った。


 結局、俺の予感は正しかった。


 あの設備は、持たなかった。


 俺の警告は、無視された。


 そして、俺は死ぬ。


 誰にも理解されないまま。


 誰にも評価されないまま。


 地味で、目立たない、施設管理員として。


 それでも——。


 悪くない人生だった、と思う。


 何事もない日常を、守り続けた。


 誰も知らない場所で、誰も見ていない仕事を、続けてきた。


 それが自分の——。


 意識が、完全に途切えた。

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