パのつく名前
せっかくアイススケートをして上手に滑るコツをつかんだけど、今日見た夢は花畑だった。青紫と白い花。混ざったような色の花もある。長い茎と、細い葉と葱坊主みたいな形状に咲く花で、「紫君子蘭」と名札がある。
むらさきくんしらん? えーと、何だったかな? 私の認識は、違う名前なのよね。これ、和名だったかなぁ?
花の間を歩きながら、広大な花畑を眺めていた。結構背の高い花で、背の大きなものは私のウエストの高さよりもある。
畑のような土の上のため滑れはしないが、もともと浮いていたからか、土にめり込んだりせず、沈まずに歩いている。ここはどうやら花の迷路らしい。離れた場所に、大人用らしき向日葵の迷路の案内が見える。
遠くで子供の泣き声が聞こえる気がしてキョロキョロと探していると、花の間を滑るように、あの幼児が通り抜けていった。ボディーボードと言うのかな? それをサーフィンのように上に乗っていた。
「待ってー」
呼び掛けたけど、振り向きもせずに行ってしまった。
目が覚めると、夫が心配そうにこちらを見ていた。
「おはよう夢ちゃん」
「おはよう蘭さん」
私の明るい声に、夫がホッとしたのが見て取れた。
「今回の夢はどんな感じだったの?」
「お花が綺麗だったわ」
私の回答に、夫の表情が更に柔らかくなった。
「へえ。何の花?」
夢の中で見た名札の名前は、紫君子蘭だったけど、もっと判りやすい名前があったはず。
「えーと、確か『パ』がつく名前で、何だったかなぁ?」
「パがつくの?」
「うん。パンパスグラス?」
私は思い付くまま発言してみた。
「夢ちゃん、それ、夢ちゃんがもふもふって呼ぶ草だね」
豪華なすすきみたいな草だ。これを綺麗な花とは呼ばない。
「じゃあ、パンタグラフ!」
「夢ちゃん、それ電車の上に有る」
鉄道車両の屋根に取り付けられている、架線から電気を取り込むための装置だ。
「んー、パンガシウス!」
「夢ちゃん、それは魚」
お手頃価格の白身魚だ。
「サカバンバスピス!」
「夢ちゃん、それも魚。しかも『パ』もついてないよ」
顔のパーツが前に寄って口が小さく開きっぱなしな、ちょっと有名な古代魚だ。
「えーと、あ!アガパンサスだわ!」
「あ、パは最初につく訳じゃないんだね」
「ふう。すっきり」
私は名前を思い出してスッキリしたけど、夫は少し複雑な顔をしていた。一緒に考えてくれていたのかもしれない。
「アガパンサスの花畑なら、今ちょうど見頃だけど、見に行ってみる?」
「え!いつ行くの?」
「今日はA社に資料を届けたら直帰予定だから、今から一緒に行こうか」
「うん!」
朝食を取りながら細かい予定を聞くと、8時頃家を出て、向こうに10時頃着いたら書類一式を渡して、そのまま帰ることが出来るらしい。
電車とバスで2時間くらいかかる場所なので、昼食を取って戻ってくると会社に着くのは14時を過ぎてしまうので、午後からの現場などには間に合わないため、直帰して良いと言われているのだそうだ。しかも、アガパンサスの花畑は、A社のそばにあるそうで、夢で見た話がなくても声をかけようと思っていたと、説明していた。
日焼け止めによる日焼け対策をしっかりし、おしゃれで涼しげなワンピースを着て、大きめな麦わら帽子を被り、準備完了! キャディーさん風帽子は私以外からの評価が駄目らしいから、可愛らしいリボンが付いている麦わら帽子にしてみた。
「夢ちゃん、そろそろ出掛けられる?」
「蘭さん、完璧よ!」
夫は仕事ではあるが、ジャケット着用ではなく、ポロシャツにスラックスだった。お外は暑いので、ネッククーラーも巻いている。
「蘭さん、帽子は被らないの?」
「日傘の方が涼しいから、日傘を差そうかと思って」
確かに、仕事着に被れる帽子は種類が少なそうだし、客先に行くのに、帽子では髪型が崩れてしまう。それに最近では、男性用の大きくてシックなデザインの日傘も増えた。でも私は手が塞がるのが好きではないので、色々な帽子を愛用している。本当は、竹笠などと呼ばれる頭から少し浮かせて被る和風のものを被りたいんだけど、ちょっと笑われたことがあって、お出掛けでの使用を断念している。
「なら、出掛けましょう!」
私はサングラスを装着し、家を出た。
「夢ちゃん、サングラスって、いくつか持っているの?」
「うん。乱視が酷いから、無いと眩しくて夏は外を歩けないからね」
「実用なんだね」
ティアドロップ型のレンズ面の大きなサングラスは、イケメン男性が使用すればそれなりに格好良いのに、なぜか私が使うと幼さが増す。少し大きめな頬が強調されるからかもしれない。可視光調光レンズなので、外に出ると光や紫外線に反応してレンズに濃い色がつく。
「視力は悪くないの?」
「度入りタイプも1つ持ってるけどね、車を運転するなら眼鏡を作り直すけど、とりあえず今のところは眼鏡って免許証には書かれてないの。そもそもペーパードライバーだけどね」
「車練習する?」
「練習して良い車あるの?」
そうなのだ。学生時代に運転免許自体は取得しており、法的には運転可能なのだ。取得後、1度も運転していないので、運転できる自信は全く無い。そもそもこの家には、3ナンバーの乗用車しかないのだ。
「夢ちゃんが乗る予定なら、小型車でも買おうか?」
「うーん。とりあえず、運転する予定はないかな」
免許証は身分証明書として有効利用しているけど、出来ることなら、このまま運転せずにいたい。
「無理しなくて良いよ」
「なら、無理しなーい」
私の返答に、蘭さんは楽しそうに笑っていた。我が家の車は、私以外が運転している。実は、お義母さんも運転が出来て、良く乗っているのはお義父さんだけど、車の権利的には、蘭さんに半分あるらしい。
バスで、最寄りの電車の駅まで到着し、普段ならあまり行かない方向の電車に乗った。何度か乗り換えをし、通勤客があまりいなくて観光客が多そうなその駅に到着した。スーツの人やワイシャツ姿の人が極端に少ない。カラフルな服装に帽子を被り、リュックサックやナップザックを背負った人がとても多い。
「うわー、なんだか久しぶりに来たかも」
「予定では、30~60分間くらいなんだけど、ロビーで待ってる? どこか見てる?」
「一旦ロビーまでついていってから、その辺見ようかな」
「了解」
訪問先の会社のロビーに予定どおり到着すると、なぜか大歓迎が待ち構えていた。
「胡蝶さん!お待ちしておりました!」
「あ、え!?」
蘭が驚いたのも無理はない。担当者だけではなく、その会社の他の社員や社長までニコニコとして立っていたのだ。
蘭は気を取り直し、慌てて挨拶を始めた。
その間、夢は、物珍しそうに夫の後からロビーを見回していた。
「奥様でいらっしゃいますか?」
「え?」
横から声をかけられた。夫の影に隠れていたからちょうど反対を向いていたため、頭の後から呼び掛けられ驚いた。
「はい。蘭さんじゃなくて、夫がいつも大変お世話になっております。妻の夢です」
蘭は少し奥に行ってしまい離れたが、夢は愛想良く答えていた。相手はモデル体型の美女で、夢を見下ろしている。そして小声で呟いた。
「なんでこんなちんちくりんが」
「はい?」
今、明らかに罵倒された。意味不明だ。そりゃ身長は完全に負けてるけど、私的には小さい方が便利だと思う。
「胡蝶さんって、凄くモテるんですよ。心配になりません?」
少し嘲笑うように言ってきた。でも「胡蝶さん」は、私もだ。まあ、夫のことを言いたいのだろうけど。
「蘭さんモテますよね。素敵だから当然ですよね」
焦ったり慌てたりしないどころか、意見を肯定してくる夢に、調子を崩されたらしい。焦った素振りのあと少し弱気になって再度聞いてきた。
「心配にならないんですか?」
「私が蘭さんを好きでいることと、蘭さんが私を好きでいてくれることは別のことなので、特に心配もないです」
相手の目を見たまま優しい笑顔で答える夢に、その気概に完全に負けたらしく、後ずさり、「今日のところは」と声をあげ、側に居た若い男性に何かを渡し、逃げていった。
「何だったんだろう?」
「胡蝶さんの奥さん、大丈夫でしたか?」
何かを渡されていた若い男性が声をかけてきた。
「えーと?」
「社長秘書の柳と申します。先ほどの彼女、胡蝶さんに猛アタックしていて、胡蝶さんが断ってもしつこかったんですけど、奥さんに明確に負けたみたいですね!あはははは」
先程の女性に軽く恨みでもあるのか、本当に楽しそうに笑いだした。
「そういうのでしたか。蘭さんの気持ちは、私に何か言って変わるものでもないと思うんですが」
すると柳は表情を引き締め、何かを取り出した。
「そうですよね。変なことに巻き込んでしまい大変申し訳ございません。よろしければ、こちらお詫びなので、お受け取りくださると助かります」
アガパンサスと向日葵の迷路がある公園の入場券と迷路参加券と、近隣の高級ホテルのお食事券だった。
「胡蝶さんはいつも、妻は1人でも生きていける人間力の高い人なので、むしろ僕が捨てられないように気を付けていますなんて冗談を言っているので、強さの方向性を理解していなかったんでしょうかね」
「そうなのですか。説明をありがとうございます」
少しすると、担当者や社長と話していた蘭が、そのまま引き連れて夢のもとに来た。
「夢ちゃん、大丈夫だった?」
「胡蝶さんの奥様、ご迷惑をお掛けいたしました。孫はきっちり叱っておきますので、どうか穏便にお願いできませんでしょうか?」
あの女性は、この男性の孫らしい。
「えーと、特になにもなかったですけど、むしろ入場券やお食事券を頂きまして、ありがとうございます」
夢が笑顔で返すと、社長の名札をつけた男性は更に頭を下げてきた。
「本当に、申し訳ございません」
「あ、頭をおあげ下さい。お孫さんは、おいくつなんですか?」
「28歳になります」
「私よりもお姉さんなんですね。未成年者以外の所業は、本人が責任を持つべき事柄です。謝るのなら、ご本人がお願いします」
「確かに、孫が敵う相手ではないようです」
「戦ったりはしていないのですが……」
「夢ちゃん、仕事は終わったから、花を見に行こうか」
「はい」
蘭が挨拶し、会社を後にした。
入場券は、ご家族でいらしたら差し上げます。と以前から声をかけられていたそうで、高級ホテルのお食事券は、本当にお詫びだったらしく、あの女性は本来、入場券や迷路の参加券などを手渡す役目だったのを、役目すら果たさずに逃走したので、結局、監視でついていた社長秘書の柳から、お食事券と一緒に渡されたらしい。
迷路も食事も心行くまで堪能したのだった。