隣家の奥さん
ここはどこだろう?
真っ暗な場所に居た。ずっと先に小さな光が見える。そしてその光が少しずつ大きくなって、段々近づいてくる。
遠くに有ったときは果てしなく思った時間も、近くに来たらあっという間だった。あっという間に私の横を通り抜けていった。
綺麗だなぁ。
又、光が見える。今度の光は、私にぶつかった。私はその光に飲まれたらしい。
気付くと、私は空中に浮いていた。下に見える地面から4~5mくらいの、微妙な高さ。2階より高いけど、3階より低い。服装は、先日新しくしたばかりのパジャマのままだ。夏用の涼しい生地で、サイズもゆったり目なので、汗をかいても動きが楽なのだ。
あれ、この場所知ってる。
見る角度が違うのですぐに気付かなかったけど、そこは自宅のそばだった。普段上から見ることなんて無いからね。キョロキョロしてみても移動はできず、身体の向きを変えられるだけだった。仕方なく、バレリーナみたいにクルクル回転してみたり、泳ぐ真似をしてみたりしたけど、お腹の中心部辺りの場所が動かない。それならと側転のように横向きに回ってみたけど、何だか馬鹿馬鹿しくなってきて回るのを止めた。目も回っていたみたい。
そのうち、隣家のガレージから車が出てきて、車種は分からないけど、セダン型の乗用車だ。その車は曲がりきれずに、派手に柱に擦っていた。
「あらー。ドア2枚にわたる傷は、修理費高そう」
そう呟いた瞬間、場面が切り替わる。
「お前は何やってるんだー!」
野太い男性の声が響く。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
謝っているのは、その家の奥さんの琴子さんだった。たまにお茶を一緒にしたりする人だ。先ほどの車の運転者なのだろう。40~50代くらいのわりと無口な感じの女性だけど、私の認識するより大分若くみえる。
旦那さんらしき人から何かを取り上げられ、泣きながら謝り続けている。
そんなに怒らなくてもねぇ。と思い見ていたら、再び車をガレージから出す場面に切り替わった。
ガガガガッ。
また擦った!?
うわ、嫌な悪夢みたいだわぁ。
車を盛大に傷つけたあと、永遠に怒られる。そして何か制限をうけ、泣きながら謝り続ける。その繰り返し。
怪我がなかったんだから、そんなに怒らなくても良いのにねぇ。私は移動できずそれを眺めていた。
7回くらい繰り返して見たところで気配を感じ、後ろを振り返ると、4~5歳くらいに見える幼児が、キャッキャと笑いながら走っていくのが見えた。
私と同じような高さの空中を。
「ちょっと待って!」
私の声かけに一瞬止まり、キョロキョロしたあと、また走っていなくなった。あれは何なんだろう?
すると私の意識は薄れていき、気がつくと家のベッドの上だった。
「夢だったのね。怒られている人がいなくて良かったぁ」
あれ?何だか、自己紹介をしなくてはいけない気がする。
「私は新婚の妻、胡蝶 夢。夫は、蘭という名前で、お義母様がつけられたそうです。お腹の中にいた頃にお医者様から、生まれるのは女の子だと言われ、女児の名前しか用意がなく、生まれた時の可愛らしさからつい、そのままつけたそうです。大体、女の子だと誤解されながら育ったと本人も言っていました。学生時代の友人からは、歌劇団の人みたいな名だね。と言われ、そんな名前に苦労した夫は、結婚したら妻の名字を名のる気でいたらしく、学生時代の恋人、爆さんにも同じ話をしたそうです。すると、『ねえ、ハゼランって植物知ってる? まさに、爆蘭って書くんだけど。胡蝶蘭よりも格がバク下がりだね』と言われ、絶望し、何となく別れてしまったそうで、次につきあった、君子さんにも、『読みは違うけど、君子蘭だね!』と言われ、やはり絶望したそうです。そんな夫は、私と付き合っている時に、入婿になりたいと言っていましたが、当然ご両親から反対され、私が名字を変えることになりました。そして私の名前は、胡蝶 夢となり、『何か俺よりも凄い名前!』と、何故か、気が済んだようです」
以上が、当人の情報がほぼ無い自己紹介のようなものでした。補足すると、24歳の専業主婦で、夫側の両親と内部完全別の二世帯住宅の2階に住んでいます。胡蝶 蘭と出会う前の、学生時代に付き合っていた彼は、白昼さんで、結婚したら白昼夢になるなあと、婿入りを打診したところ、仲が拗れてしまい別れた過去があります。そのためか、フルネームに悩む夫の苦悩が理解できたのかもしれません。白昼夢と違って、胡蝶の夢は格好良い!と、本人は思っています。
「おはよぅふぁー」
しっかり寝た気がせず、おはようを言いきらないうちにあくびが出た。
「おはよう。何か眠そうだね?」
「うん。なんかね、他人の悪夢みたいな夢でね」
「何それ?」
「ご近所の奥さんが、車をガレージの柱に擦って、旦那さんに怒られるのが繰り返す夢だったの」
私の話に、少し考えた夫は何か思い出したらしい。
「ご近所って、もしかして鈴木さん? 何か昔、俺がまだ小学生の頃、買ったばかりの車擦って派手に夫婦喧嘩してた気がする」
「えー!」
実在の記憶の欠片的なものを見てしまったのかしら?
とりあえず頭を切り替え、朝の支度を急ぎ、目玉焼きと塩鮭を焼き、タイマーで炊いてある炊飯器からご飯をよそった。
おひたしと常備菜は、夫が冷蔵庫から出してきてくれ、昨晩の残りのスープを温めたものを出し、朝食の準備が整った。
「いただきます」
「いただきます」
「なんで、あんな夢見たのかしら」
「何かの折りに、車を擦った話を聞いたんじゃないの?」
とりあえず記憶にあるかぎり、そんな話は知らない。
「うーん? そんな話を聞いたことはないんだけどなあ。それに、車の運転、とてもお上手だと思うのよ」
乗せて貰ったことがあるけど、運転はとても丁寧で上手だった。
「まあ、車擦って夫婦喧嘩していたのって、20年くらい前の話だからな」
「そういえば、夢の中でもお若かったわ」
「あとは、体調でも悪いんじゃないか?」
「え? 誰の?」
夫は食べ終わると、慌てて歯を磨いて出勤していった。今日はお弁当が要らないと言われ、私はゆっくりだったけど、夫はいつもより早く出る予定だったらしい。
食べ終わった食器を片付け、燃えないゴミを出しに外に行くと、丁度、夢の登場人物の鈴木琴子さんに出会した。何だか表情が暗い。
「おはようございます。つかぬことをお伺いしますが、体調が悪かったりしますか?」
「え、顔色悪い? あ、おはようございます。何か、夢見が悪くて、今朝から頭が痛いのよ」
「少しお疲れに見えます。どうかお大事になさってくださいね」
「ありがとう! 少し休むことにするわ」
笑顔を作り、少し顔色が良くなったように見えた。
「夢見って、恐い夢でも見たんですか?」
「そうなのよ。若い頃に、夫と大喧嘩した夢ね。あの頃は一方的に怒られて、今なら言い返すのに、車を擦って言われるがままに怒られ続ける夢なのよ。トラウマだわ。うふふ」
話して落ち着いたのか、すっかり顔色が良くなり、笑顔で戻っていった。
後から知ったが、結局、この後発熱して、寝込んだらしい。