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第5話 噂の連鎖②

 その頃、公爵家ではカトレアが静かに報告書を眺めていた。書類にはシエラの慈善活動が抱える「脆弱(ぜいじゃく)性」が細かく列挙されている。弱い孤児院の運営体制、曖昧(あいまい)な会計管理、さらにシエラ自身も書類仕事を苦手としていることなど、どれもが突かれれば痛手となる要素だ。こうした情報を、彼女は裏で得意とする情報屋や買収した役人を使って収集し、噂と告発状という形で少しずつ流しているのだ。


「ふふ……やはり、最初の一押しで十分ね。あとは、彼らが勝手に騒ぎ始める」


 カトレアの唇から漏れる声は淡白だ。まるで、遠巻きに火が広がっていく様子を観察するかのような冷たい視線。その一方で、彼女の胸の奥には静かな確信が生まれている。苦しむシエラの姿を想像すると、まるで夜の底を這う生温い風が頬を撫でるような満足感が湧き上がってくる。直接手を下さずとも、十分な打撃を与えられるのだと知ったからだ。


 王宮ではシエラへの風当たりが強くなる一方で、同情や擁護の声はほとんど上がらない。ほんの少しでも彼女をかばおうとする人々は、すでにどこかへ姿を消しているか、またはカトレアの陰謀によって口を噤まされているのかもしれない。いずれにせよ、貴族たちが求めているのは確実な証拠と金の流れであり、シエラの善意など歯牙(しが)にもかけない。噂はさらに(ゆが)んだ形で拡散し、「彼女は王子に取り入るために偽の慈善を演じていた」と言う者まで現れる。


「ひどい……わたし、本当にそんなつもりでは……」


 シエラの声が廊下に落ちると、周囲の者たちは一瞬立ち止まって彼女の姿を探るが、次の瞬間にはまるで疫病を避けるかのように距離を取る。かつては優しく微笑みながら話しかけてきた女官や貴族令嬢も、あからさまに視線を逸らし、逃げるように去っていく。まるで彼女と関係を持つこと自体が危険であるかのような扱いだ。


「シエラ……すまない、今は少し耐えてくれ。近いうちに、俺が……」

「でも、殿下……このままでは……」


 レオネルが手を握ろうとするが、周囲の目がそれを許さないように暗黙の圧力をかけている。彼自身も、その重圧に正面から逆らうだけの余裕を失いつつある。取り巻きや後ろ盾となるはずの貴族たちが、次々と「事故」や「失脚」の()き目に遭い、さらに自分の評判までも失墜しているのだから。王子という地位だけでは、もはやシエラを守り抜く絶対的な力にはならなかった。


 そんな二人の迷走を、カトレアは公爵家の一室から淡々と見つめていた。もちろん、王宮へ足を運ぶわけではない。彼女のもとに届けられる報告は、すべて金で買収した小者たちによるもので、それを聞くたび、彼女は自分の手をほとんど汚さずに事が運んでいることにわずかな愉悦(ゆえつ)を感じる。


「まだまだ……これでは足りないわ」


 カトレアはゆるく指を組みながら、シエラへの攻撃が今度はどの方向へ広がるかを思案する。例えば、それなりの地位ある貴族や官僚が「審議」と称してシエラの活動を調査し始めれば、彼女を精神的に追い詰めることも容易だ。つい先日は、孤児院の経営者たちを誰かが脅し、シエラに不利になるような証言をでっち上げさせる計画も耳にした。自分が直接指示するまでもなく、貴族たちが勝手に動いてくれているのは好都合でしかない。


 暗い室内で、ランプの炎が彼女の横顔を照らし出す。その瞳には、まるで底なしの井戸を覗くかのように深い闇が広がっていた。怒りと憎悪を内に秘めながら、彼女は狡猾に周囲を巻き込んでいく。


 一方で、シエラは王宮の片隅、誰も来ない庭園の石畳に腰を下ろしていた。夜風が冷たく肌を刺し、今にも泣きそうな顔をして俯く彼女の横に、レオネルが膝をついて座る。二人とも疲労の色が濃く、言葉を交わすことも躊躇(ためら)うほど追い詰められていた。


「シエラ……ごめん。俺がもっと早く動けていれば……」

「殿下、わたしが……至らないから……」


 慰め合う言葉がどれほど通じ合ったとしても、事態が好転する兆しは見えない。貴族の世界はかくも残酷で、疑いが一度固まれば取り除くのは容易ではない。特に、レオネルがその立場を揺るがされている今、シエラが頼れる力はほとんどないに等しい。相手は見えない闇の手を使い、彼女の慈善のイメージをことごとく汚そうとしているのだ。


「……一体、誰がこんなことを企んでいるのか。まさか……」

「いや、そんなはずはない。あの人はもう……」


 レオネルの頭をよぎったのは、かつての婚約者の存在だったが、すぐにかぶりを振る。彼女の名を思い出すだけで、胸にやり場のない罪悪感と苛立ちがこみ上げる。それを振り払うように、シエラを見つめて言葉を繋いだ。


「俺が必ず、何とかしてみせる。おまえは少しでも体を休めてくれ……」


 だが、シエラにはこの言葉さえ空虚に聞こえる。すでに騎士団や官僚の一部からも遠ざけられ、訴えを聞いてくれる者など残っていない。彼女は胸を締め付けられるような孤独感を味わいながら、ただ微かに頷くしかなかった。


 そうして夜が更ける中、公爵家の地下室ではカトレアが新たな情報を手にしていた。そこには、シエラが先日証拠として提出した財務書類の不備が細かく記されている。いくつかは完全に罪に問えるほど大きな違反ではないが、捏造の噂を流すには十分だろう。


「レオネルとシエラは、ますます追い詰められるでしょうね」


 彼女は手の中の書類をぱらりとめくりながら、冷たい笑みを浮かべる。もはやわざわざ自分で動かずとも、周囲がシエラを糾弾し続ける構図が出来上がりつつある。風評と陰口、そして確証のない告発――それらが積み重なってシエラに重くのしかかる。その過程を想像するだけで、カトレアの心には不気味な達成感が広がっていく。


「これからもっと、苦しみの深みに沈んでいけばいいわ」


 小さく(つぶや)く声が、石造りの壁に反響して消えた。決して大きな声ではないが、その響きは地下室の闇に染み渡るかのようだ。王宮や社交界には、まだ薄暗い陰謀の全貌を知らない者ばかり。だが、いずれそれがどれほどの惨劇を呼び起こすかは、誰にも想像できないだろう。ただ一人カトレアだけが、静かに笑みを噛み締めながら遠巻きに火を放ち、動揺する人々を見下ろしている。その冷酷な瞳は、まるでこの先に待ち受けるさらなる破滅を確信しているようにも見えた。


 こうして王宮にはますます不穏な空気が漂い、シエラとレオネルは息苦しいほどの孤立感に苛まれていく。それでも、まだ二人は「どこからの攻撃なのか」と明言できず、周囲の視線だけが鋭さを増していくばかり。ここから先、何が起こるのか――人々の間には根拠のない不安が広がり、「ここからもっと酷いことが起こるのではないか」という予感だけが抜き差しならない形で醸造されていた。カトレアはその暗い予感を掌の上で転がすかのように、ひっそりと微笑む。その笑みは人々を破滅に導く黒い川の源流であり、彼女自身さえ、どこまで深みにはまっていくかを知らないままなのかもしれない。

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