第5話 噂の連鎖①
王宮の回廊には、美しい装飾や豪奢な絨毯が敷き詰められているというのに、その雰囲気はどこか淀んでいた。昼間に降り注ぐ陽光が、廊下の漆喰の壁を眩しく照らしていても、人々の口からこぼれるのは暗い囁きばかり。まるで空気そのものが重くなってしまったかのように、足音が石床に吸い込まれていく。
「最近、妙な噂が増えましたね。まるで陰の力が働いているかのようだ」
「貴族子息の失踪に続いて、次々と奇妙な出来事が起こっているのですもの。王子を支えていた取り巻きの方々が軒並み失脚していくなんて、ただの偶然とは思えませんわ」
ささやかれる声が震えるように広がる。ある貴族は友人の前で噂を漏らし、ある侍女は廊下の陰で言い争いをするようにしてひそひそと耳打ちをしている。誰もが不安を感じつつも、その正体を掴めないでいる。それでも、すでに一部の者は薄々感じ取っているのだ。これらの事件が何者かの計画的な仕業であり、いずれさらなる波乱を生むだろうということを。
そんな空気の中、もっとも浮き彫りになったのは、一通の告発状だった。書かれているのは、若き令嬢シエラが行っている慈善活動についての疑惑である。平民出身とはいえ、王子の信頼を得てからは王宮や貴族社会でも一目置かれ、主に孤児院や困窮した人々への支援を積極的に行っていた彼女。しかし、その寄付金や物資の管理に不透明な部分があると、具体的な指摘がなされていた。
「まさか、そんなこと……」
シエラは告発状の文面を読み、顔を青ざめた。自分が心を込めて続けてきた慈善の行為が、不正や詐欺まがいの疑いをかけられているのだ。「寄付金の一部がどこかに流れているのでは」「実際には物資を十分に配っておらず、不正な取り分があるのでは」――書かれている疑惑は確かに根拠が曖昧だが、逆に曖昧だからこそ、周囲が妙に警戒を強める原因にもなる。
「わたしがそんなことするはずがありません……どうしてこんな……」
震える指先で告発状を握りしめるシエラを見て、周囲の女官たちは視線をそらす。彼女らは直接シエラを糾弾するつもりはないが、かといってはっきりと擁護しようともしない。王子の「特別な存在」である彼女に絡むスキャンダルに巻き込まれたくないからだ。やがて、そんな冷たい空気の中にレオネルが駆けつけてくる。
「大丈夫か、シエラ! こんな馬鹿げた告発、誰が仕組んだのかはわからないが、すぐに俺がすべて調べさせるから安心しろ」
レオネルは彼女の肩を抱き寄せ、必死に慰めようとする。だが、その顔には焦りがにじんでいた。実はこのところ、取り巻きが次々とスキャンダルに巻き込まれたり、失踪したりと、彼自身の周辺も大きく揺れている。殿下としての信頼が大きく揺らいでおり、今では王宮内に味方と呼べる者がどれだけ残っているかわからない。そんな状況で新たな問題が発生し、彼は明らかに気を揉んでいた。
「殿下……わたしは本当に何もやましいことなどしていません。信じてください……!」
「もちろんだ。おまえがそんな不正をするはずがないのはわかっている……だが、周囲がどう思うかが問題だ」
それは言い換えれば、王子自身も周囲からの信用を失いかけているという意味だった。かつてのように「殿下が言うのだから間違いない」という声は出ず、「あの殿下も最近は取り巻きの不祥事をカバーできずにいる」「レオネル殿下に判断力はあるのか」と陰口を叩かれているのが現実である。
この告発状が広まるのに、さほど時間はかからなかった。貴族の中には、もともと平民出身のシエラを疎ましく感じている者も少なくない。人目につくところで慈善活動をしていただけに、反感や妬みを抱いていた者たちが、これ見よがしに噂を掻き立てる。さらに、王子との結婚が近いと聞けば、「身分不相応」「成り上がり」「金の亡者」という言葉まで持ち出し、彼女を蔑むように囁かれるようになる。
「おかしいのよ。あの子、王子の庇護を得た途端に派手に寄付やら何やら。資金の出どころは殿下が融通しているんでしょう?」
「それにしても妙に計画的よね。最初から殿下の同情を誘うために善行アピールでもしていたんじゃないかしら」
社交界の紅茶会や、宮殿の廊下で繰り広げられるそんな言葉の数々は、シエラの耳にも否応なく届く。誰しも表立っては言わないが、裏でじわじわと批判が増殖しているのだ。さらに、幾つかの名士を名乗る人物から公式の場で「彼女の慈善活動に不正の疑いがある」と声が上がり、堂々と面会を要求してくる者まで現れ始める。
「まったく……なんという出鱈目だ。今すぐ取り下げさせてやる!」
レオネルは憤慨して彼らを追い返そうとするが、相手は王子をも軽んじるような態度を隠さない。取り巻きを失墜させられ、実質的に権力基盤を弱めているレオネルは、以前ほど絶大な影響力を行使できない。結果として、反論するほどに「隠蔽を図っている」「やはり黒幕がいるのでは」と勘繰られ、かえって疑惑を深めてしまう悪循環に陥る。
シエラは潔白を証明しようと、書類や寄付先のリストを揃えて説明に臨むが、貴族たちの厳しい視線に晒されると、その場でしどろもどろになってしまう。元来、彼女は平民の出身であり、こうした貴族や官僚とのやり取りには慣れていない。ましてや、疑いの目を向けられている状況で、的確に立ち回るだけの経験や知識は持ち合わせていない。
「シエラ様、これはどういうことです? この孤児院の帳簿と、実際の寄付金額に差異がありますが」
「違うんです、それは孤児院側が急きょ建物の補修費を……あの、私が直接指示したのではなくて……」
「それではあなたは何を把握していたんです? 本当に資金を適切に使っていたのなら、記録が明確に残っているはずでしょう」
問い詰めるように重ねられる言葉に、シエラは返答を詰まらせた。戸惑い、混乱して弁明すらままならない。やがて貴族たちは冷たい眼差しのまま「先方と結託しているのでは」とまで口にし、彼女の平民出身という点を取り沙汰する。そこにレオネルが割って入るが、彼の焦りが見えすぎてしまい、周囲はさらに疑心暗鬼を募らせる。
「もうよい、これは不当な追及だ! シエラをこれ以上苦しめるな!」
「しかし殿下、これでは不正の可能性を否定できません。むしろ、あなたの強引な擁護こそ疑念を深める要因となりかねませんよ」
「何を言う! この者は……」
レオネルの声が虚空に消えていく。もはや彼を強く支持してくれる家臣が近くにいないのだ。取り巻きが次々と消えていき、人心を失いつつある殿下に、貴族たちはわざとらしいほど冷淡な態度を取る。そうした姿を目の当たりにし、シエラはいたたまれない気持ちになりながらも、自分が何もできない無力感に押し潰されそうになっていた。