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第4話 犠牲への序曲①

 貴族街を抜けた先にある寂れた路地。そこは陽が落ちると人影もまばらになる一角だ。昼間は往来がそれなりにあるはずなのに、黄昏が迫ると皆そそくさと家に引きこもる。まるで、夜に目覚める何かを恐れているようにも見える。カトレアがこの路地を選んだのは、王都に詳しい配下から進言を受けたからだった。人気のない暗い道であれば、目立たず事を運べる。それが彼女の望みだ。


 (すす)けた壁の隙間から鼠が顔を(のぞ)かせる。カトレアはその小さな生き物にちらりと目をやるが、特別の感慨もなく視線を戻す。後ろには金で買収した数名の私兵が控えている。彼らは公爵家直属の人間というより、裏世界と繋がりを持つ者たちだ。彼女が用意しているのは単なる脅しや情報収集の道具ではない。今宵は、ついに「最初の犠牲者」を狙っているのだから。


「お待ちしておりました、カトレア様」


 男たちの中でも一際卑屈な笑みを浮かべているのは、情報屋を名乗る者だ。ガリガリに痩せた身体を深いフードで覆い、爬虫類のように動く目が落ち着かない。何度か金を渡し、下調べをさせた結果、彼が導き出したのはある若い貴族子息。レオネルの取り巻きの一人で、夜な夜な闇賭博に興じているという噂があり、借金まみれだという。


「さっそく連れてきていますので、あちらへ」


 情報屋が示した先には、小さな倉庫のような建物があった。壁にはヒビが入り、屋根も崩れかけている。だが、人目を忍んで行うには十分すぎる立地だ。カトレアは足音を立てぬように中に入ると、かび臭い空気が鼻を突いた。灯されたわずかなランプの光が、薄暗い床を照らしている。


 そして、部屋の中央には若い男が縛られたまま転がされていた。派手な衣裳をまとっていたのかもしれないが、今はボロ布のように汚れ、体には幾筋もの擦り傷が見える。口には布切れが詰め込まれ、(うめ)き声がくぐもった形で漏れ出していた。その顔は恐怖と混乱にゆがみ、焦点の定まらない瞳がカトレアたちを映し出す。


「……これがあなたの言う、レオネル殿下の取り巻きの一人?」

「ええ、間違いありません。伯爵家の次男で、名前はエディンといいます。夜な夜な賭場に入り浸り、つい先日も大金を注ぎ込んだばかりで……今回うまく誘い出し、こうして連れ込むのは造作もありませんでした」


 情報屋の言葉を、カトレアは表情一つ変えずに聞く。そして男に一歩近づく。灯りの下で見ると、エディンの肌は汗でべったりと湿っており、縛られた手首から血が滲んでいた。連行される際にかなり暴れたのだろう。けれど、いま彼を覆うのは圧倒的な無力感だ。口を塞がれているのだから叫ぶこともできない。


「さあ、始めましょう」


 カトレアは静かに言った。その声には揺るぎがなく、まるで何の疑問も感じていないかのようだ。彼女が合図すると、私兵の一人がエディンの口から布切れを乱暴に引き抜く。途端に男は慌てたように叫ぶ。


「な、何の真似だ! おまえたちは……っ、ぐあっ!」


 言葉の途中で、私兵が腹を蹴り上げる。エディンは床をのたうち回り、喉に手を当てて息を詰まらせる。その暴力にすらカトレアは微動だにせず、木箱の上に腰かけていた。冷ややかな瞳が男を見下すように追いかける。先ほどまでの躊躇(ちゅうちょ)はもうない。地下室で繰り返した“実験”が、自分に何ができるかを教えてくれたのだ。


「エディン。あなたには少しだけ、お話を聞かせていただきたいの」


 カトレアは優雅に言葉を投げかけるが、その内容は紛れもなく拷問の始まりを告げるものだ。エディンの顔が青ざめ、よろめきながら後ずさる。しかし、手足を縛られたままでは逃げようがない。私兵たちが無表情で見下ろしているのも、恐怖を(あお)るばかりだ。


「話って……俺は何も知らない! 王子との仲だって、ただの社交だ!」

「そう。けれど、あなたはレオネル殿下の近しい友人でしょ? もちろん、一緒に飲んだり馬鹿な放蕩(ほうとう)をしたり……いろいろな秘密を共有しているはず」

「ひ、秘密なんてないっ……俺にはそんな権力も……」

「聞きたいのは、殿下の弱みや取り巻きの実態。例えば彼らがどんな汚職をしているか、どの官僚と繋がっているか、それらを聞くだけよ」


 カトレアの声音は静かだが、その瞳には残酷な光が宿っている。エディンは必死に否定を繰り返すが、その言葉が終わりきる前に彼女は片手を上げる。すぐさま私兵が鉄の棒を持ち出し、エディンの腕を押さえつける。それを見届けると、カトレアは静かに口を開いた。


「痛いのは嫌でしょう? できるだけ早く教えてくれれば、苦しまずに済むかもしれないのに」


 その脅しは明瞭で、男にとっては悪夢以外の何ものでもなかった。彼の言葉が上ずると同時に、私兵が鉄の棒を振り下ろす。乾いた鈍い音が鳴り、エディンが絶叫する。その響きは()き出しの倉庫の壁で増幅され、酷薄なエコーを残した。


「ぐあああっ……い、痛い……やめろ……っ!」

「わたし、痛みにはあまり耐性がないんだけど。あなたはどうかしら?」


 カトレアはそう言って、わざとらしくため息をつく。まるで、この惨状を観察することを楽しんでいるかのようだ。彼女の表情は変わらないが、その口元には(かす)かな笑みが浮かんでいるようにも見える。涙と鼻水を垂らしながら転げ回るエディンを見下ろし、さらに続ける。


「さあ、話して。あなたが知っていることを全部」

「俺は……何も……知っ、知らない……ぐっ……」

「そう。まだ教える気がないのね」


 その言葉に合わせるように、私兵が再び棒を振り上げる。今度はエディンの脇腹を叩きつけ、湿った音が響く。男の絶叫は短く途切れ、とても呼吸が続かないような苦しげな咳へと変化する。血の気が引くどころか、彼の唇はうっすら血を含んでいるようにも見えた。


「どう? 少しは口を開いてくれる?」

「やめ、やめてくれ……俺に何を聞きたいんだ……!」

「最初に言ったわ。レオネル殿下と、その取り巻きたちの秘密よ。名前、金の流れ、どの貴族や官僚とどんな裏取引をしているか。それらを具体的に言いなさい。そうすれば少しは楽にしてあげてもいい」


 カトレアは優雅に足を組み替えながら、淡々と要求を突きつける。その姿はまるで、お茶会で雑談を楽しむ淑女に見えなくもない。しかし、足元には血を吐き、恐怖にまみれた男が転がっている現実がある。その光景がどれほどおぞましく、狂気に満ちているかを考えれば、誰もが背筋を凍らせるだろう。

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