第3話 渦巻く悪意①
夜が更けるにつれ、公爵家の廊下は静まりかえり、遠くから聞こえるのは時折の風が窓を叩く音だけだった。カトレアはその夜も人々の眠りを避けるようにして部屋を抜け出し、暗い階段を下る。あの地下室への道筋は、もうすっかり彼女の中で馴染んだものになりつつある。かつては存在を意識したこともなかった地下空間が、今や彼女にとって最も落ち着ける場となっていた。
扉を開け、壁に取り付けられた簡素なランプを灯すと、辛うじて足元を見渡せる程度の淡い光が広がった。床には古びた木箱、壊れた棚、そして廃棄された道具のようなものが雑然と積まれている。その隙間をかき分けるように進むと、奥まった場所に金属製の枷らしきものが打ち付けられていた。それをそっと撫でると、冷たい鉄の感触が指先に伝わる。視線をやや上に向けると、何本もの鎖がぶら下がっているのが見えた。錆び付き、所々が欠けているが、それがむしろ不気味な雰囲気を醸し出している。
「……使えるかもしれない」
口の中で転がすように呟いてから、カトレアはゆっくりと微笑んだ。ここ数日、彼女の脳裏にはある考えが芽生えている。それは、単に闇雲に恨みを晴らすだけのものではなく、もっと計画的に相手を追い詰めるための手段。そのためには、この地下室が最適な場になるという確信を深めつつあった。
きっかけは父の書庫を偶然漁っていたときに見つけた、いくつかの古文書だった。そこには先代、先々代の公爵が裏社会との繋がりを用いて権力を維持していた痕跡が記されている。金と脅迫、あるいは毒や密告といった手段を駆使し、反対派や邪魔者を始末してきた――まさに公にはできないが、確かに存在した闇の歴史。父親の代になってからはできるだけ穏便に済まそうとしていたようだが、記録はしっかり残っている。カトレアはその断片を読み解くうちに、こう思ったのだ。ならば、自分にもできないはずがない、と。
「表向きには私を閉じ込めようとしているくせに、こんな弱みを堂々と家に残しているとはね」
そう嘲るように独りごちたのは、わずかな優越感の発露だろう。父が政治的に手段を選ばず保身を図ってきた証拠は、この館にあちこち残されている。ならば、その遺産を引き継ぎ、使う側に回るのも一つの手。それが今の自分の窮状を打破する糸口になるという考えが、カトレアを突き動かしていた。
もちろん、ただ文書を眺めているだけでは足りない。彼女は数日前から、ひそかに動き出している。具体的には、裏社会と繋がっていると目される商人を呼び出し、密談を交わしたのだ。地位ある公爵家の娘が直接出向くわけにはいかないので、まずは使用人を間に挟んで取引を持ちかける。使用人自身も「まさか令嬢がこんなことを……」と困惑の色を隠せない様子だったが、カトレアはもう周囲の戸惑いなど意に介さない。必要な金は惜しまなかった。そうして少しずつ、必要な道具や情報を買い集めている。
机に備え付けた灯りの下で広げられているのは、貴族や高官らの身辺を記したメモ帳だ。カトレアはそれを睨むように見つめ、指先で一人ひとりの名前をなぞる。
「……レオネル殿下の側近たち。誰がどんな弱みを抱えているか。借金、愛人、汚職……。ふふ、きっと掘り起こせばいくらでも出てくるはず」
その声は静かながら、狂気を帯びている。見返しているメモには、まだ断片的な情報しか記されていない。しかし、そこに「入口」があるだけで、あとは金と脅迫次第で芋づる式に弱点を握れるという自信が彼女の中に芽生えていた。
道具の手配はさらに進んでいる。裏の商人からは、希少な毒や薬品をいくつか入手することに成功した。中には、摂取量によって麻痺や幻覚を引き起こす成分を含むものもある。それらの瓶をランプの下に並べ、一つずつラベルを確認する作業は奇妙な昂揚感を伴う。闇の商いは高価ではあったが、彼女はまったく惜しいとは思わない。むしろ、公爵家に仕えてきた裏の機構を利用できるのは、自分の立場がまだ完全に排除されていない証でもあると感じる。
「試してみないとわからないわね」
そう言うと、カトレアは地下室の壁際に繋がれた小さな檻に目をやった。そこには市場からかき集めてきた小動物が数匹閉じ込められていた。あまり人目につかない夜間に公爵家へ運び込ませ、今はカトレアが自ら世話と称して管理しているものだ。もっとも、彼女の「世話」の内容が一般的な世話でないことは明らかだった。
「さて、あなたたちには悪いけれど、協力してもらうわ」
檻を開け、小さなウサギのような生き物を引きずり出す。白い毛並みが震えているのがわかるが、カトレアはその様子を見てもまったくためらいを感じていない。彼女が手にした小瓶の中身を布きれに含ませ、ウサギの鼻先に当てた。もがくように暴れるウサギをしっかり抑え込み、そのまましばらく静止する。
「苦しいかしら。でも、もう少しの辛抱よ」
囁きに似た声は、優しげというよりは冷酷だ。やがてウサギの体はけいれんし、瞳が焦点を失い、ぶるぶると痙攣し始めた。カトレアはその変化を観察しながら、瓶のラベルとウサギの様子を照合し、小さく頷く。正確には、麻痺毒の効き目を試しているのだ。
「ふうん……これが限度量。あまり多く与えるとすぐに絶命するようね。使いどころを考えないと」
狂ったように痙攣するウサギを床に下ろすと、毛並みは汗と唾液で乱れ、いまだ呼吸を荒げている。放っておけば数刻で意識が朦朧として死に至るかもしれない。だがカトレアはため息ひとつ漏らさず、再び檻の方へ歩を進める。まだほかにも試したい薬品がいくつかある。愛らしく震える小動物たちが、彼女の手の動きに怯えたように身を寄せ合っている。
「さあ、次はどれを……」
そう呟いた瞬間、奥の扉がわずかに軋む音が聞こえた。誰かが忍び足で近づいてきた気配。カトレアはぎょっとして振り返り、ランプを半分消すように身を寄せる。けれど、戸口まで来た足音が躊躇うように止まり、そのまま立ち去っていくようだった。おそらく使用人かもしれない。なぜこんな時間に地下へ来たのか、何らかの用事だろうが、こんな光景を目撃されたら厄介だ。カトレアは心臓を高鳴らせながら、しばらく息を殺して立ち尽くす。
しんと静まった廊下の気配を感じ、どうやら立ち去ったと確信すると、冷や汗をぬぐうように頭を振り、再びウサギのもとへと戻った。
「こんなところ、見られたら大変な騒ぎになりそうね」
嫌悪感というより、むしろ愉快そうに口元を歪める。もし誰かが目撃しても、今のカトレアにはもう怖いものなどない。屋敷を追われる覚悟はとっくにできているし、もはや誰の同情も期待していない。重要なのは、ここで得られる知識と手段がレオネルとシエラを破滅させるために必要不可欠であることだ。