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第2話 崩れゆく威光②

 その翌日、長く続いた雨が止み、カトレアは中庭へと足を運んだ。久しく外の空気を吸っていなかったためか、(かす)かな苔の香りと冷たい湿気が身にしみる。敷石の上を歩いていると、隅の方で控えていた使用人がぺこりと頭を下げるものの、言葉もなく駆け去ってしまった。逃げられたも同然だったが、不思議と悲しみよりも苛立(いらだ)ちがこみ上げる。


「そんなに私が厄介なのかしら……?」


 だが、その疑問を口にしても誰も答える者はいない。周囲の視線を浴びる中、彼女は孤立した存在であることを実感していた。このまま屋敷に閉じこもっていても、自分の名誉が回復するわけではない。むしろ、裏ではさらに陰湿な噂が広がっているに違いない。考えれば考えるほど胸が重くなり、足取りが重くなる。


 そこへ、どこからか聞こえてきた侍女の会話が風に乗って耳に届いた。どうやら王宮での新たな茶会の話題らしい。その茶会に、レオネルとシエラが手を携えて現れ、多くの貴族から賛辞を受けたことを嬉々として語り合っているようだ。カトレアは思わず立ち止まり、茂みの影で息を殺す。


「なんてお似合いなんでしょう。シエラ様は平民出身なのに、気品もおありで……殿下も本当にお優しそうでしたわ」

「それに比べて……いや、あの件はもう触れない方がいいって聞いているけど……」


 ひそひそ声が、カトレアの頭を針で突き刺すように響いてくる。苦々しい感情が込み上げ、拳を握りしめる。ここでもなお、自分を(おとし)める声が聞こえるのか。彼女は自分を制して足早にその場を離れた。もしそこで問い詰めようものなら、さらに厄介者扱いされるに決まっている。耐えがたい思いを抑えつつ、か細い息を繰り返す。


「シエラは幸福を謳歌している……レオネルも……」


 公爵家の庭をぐるりと回って、それから再び屋敷に入り、廊下を歩きながら地下室へ向かう階段の横を通り過ぎると、まるで見えない力に引き寄せられるように足が止まった。あの(かび)臭く暗い空間が、一瞬だけ甘美な逃避の場所に思えてしまう。誰にも干渉されず、誰の目も気にせずに済むのだから。きっと、あそこなら自分の憎しみと絶望をためらいなく解き放つことができる。


 けれど、今はメイドや使用人があちこちをうろついている時間帯。堂々と降りていけば何を思われるかわからない。カトレアは階段から視線を外し、肩を落とすようにして自室へ戻った。扉を閉めるなり、溜息が大きくこぼれ、枕元に投げ出されていた新聞の紙面が視界に入る。ざっと目を走らせると、「王子の新たなパートナーは純真無垢な花」「夜会での突然の婚約破棄、真相はいかに」など、嫌味な見出しばかりが踊っている。


 破り捨てたい衝動に駆られたが、歯を噛みしめて耐える。破っても何も変わらない。かえって自分が(みじ)めになるだけだ。カトレアは新聞を机の端に押しやり、窓の外を見つめる。夕陽に染まる空は美しいはずなのに、今は目に映っても胸に何の感慨も生まれない。代わりに、ただ真っ黒な陰鬱さだけが強まり、心が透き通らぬ闇で埋まっていく。


「こんな仕打ち、許されると思っているの……?」


 小さく(つぶや)くと、その声は妙に冷えていることに自分で気づいた。先日までなら、こんな独り言を漏らすことなど想像もできなかった。だが今は、誰にも聞かれない部屋の中でこそ、本心が現れる。怒りや憎悪の種火はもう心に宿っている。そのことに気づくと同時に、カトレアは以前の自分には戻れないと悟った。


 このままではいられない。手をこまねいていても、周囲はますます自分を馬鹿にし、あの二人は更なる幸福を味わうだけだろう。父や公爵家の家臣、使用人たちも、結局は政治や自分の身を守るためにカトレアを排斥し続けるに違いない。ならば――


「……私が動くしかない」


 (ふる)える唇から紡がれる言葉には、静かな決意が(にじ)んでいた。だが、まだそれは形を持たない。どのように復讐を果たすのか、どんな手段を講じるのか、今はまだ漠然としている。だが、その闇こそが新たな生きる糧になるのだろうと思う。あの地下室の暗い匂いを思い出すと、なぜか胸が少しだけ楽になる自分に気づき、彼女はそっと目を閉じた。


 部屋の外で人の気配がしたと思ったら、控えめなノックが聞こえた。返事をしないまま扉を開けると、一人のメイドが慌てた様子で立っている。


「失礼いたします、カトレア様。旦那様から、今後はあまり目立つような行動は慎むようにと、改めてご伝言を……」

「承知しています」


 短く言うと、メイドは恐縮したように頭を下げ、そそくさと退室しようとした。その後ろ姿を見送るカトレアの口元に、笑みとも言えぬ(ゆが)んだ表情が浮かぶ。一度足を踏み外した娘を、これ以上公爵家の名誉に関わらせたくないという思惑があからさまに透けて見える。つまりは「監視」だ。この屋敷での立場が一気に崩れ去り、彼女を「面倒な存在」として扱っているのが分かる。


 扉が閉まると、部屋にまた静寂が落ちる。外の庭では夜の虫の声がかすかに響き始めるが、その響きはむしろカトレアの心の中の暗い感情を引き立てるように思える。胸を覆うのは、深い絶望だけではない。復讐の二文字が、ますます濃密な形で意識を蝕みつつあった。


 あの夜会で、レオネルとシエラに受けたあの屈辱――思い出すたび、身体が(ふる)えるほどの怒りを感じる。そして、誰一人として自分を救ってくれなかった事実。父ですら、最も身近な味方であるはずの父ですら、自分を切り捨てた。このまま沈黙し続ければ、彼らは平穏を手にし、自分は永遠に烙印を押されたまま(おとし)められるのだろうか。


「……そんな未来は、まっぴら」


 (かす)れた声で呟き、カトレアは窓の外を(にら)む。その瞳は夜の色を宿し、どこか狂おしい闇を抱いている。まだ復讐の全容は見えないが、やがて何かが確実に動き出す予感に満ちていた。


 こうして公爵家へ戻ってからの日々は、沈黙と冷遇の地獄だった。それでも、その地獄の奥底でカトレアは少しずつ行動を起こすきっかけを模索し始める。地下室の湿った空気を思い出すたび、己の心の底に蓄えられた憎しみが燃料となって燃え上がるのがはっきりとわかる。遠く王宮で歓声を浴びているレオネルとシエラの姿を想像すると、腹立たしさが抑えきれない。


 人々から(ないがし)ろにされ、父親からも無視に近い扱いを受け、使用人には恐れられ、社交界はまるで彼女など存在しないかのように扱う。ならばいっそ、そのすべてを裏返しにしてしまえばいい。そんな考えが、陰湿な根をカトレアの心に張り巡らせつつあった。しかし、それを言葉や行動に移すには、まだわずかな踏ん切りがつかない。復讐が現実となり得るまでには、もう少し時間が必要だ。それまで、公爵家の冷たい廊下をさまよいながら、誰にも見えぬ暗い炎を育てよう――


「私を裏切った代償は……きっと、高くつくわ」


 そう(つぶや)いたとき、部屋の隅に置かれた古い鏡が自分の姿を映していた。ここのところ眠りも浅く、顔色がすっかり悪くなっている。けれど、その瞳の奥に宿る光だけは消えていなかった。むしろ、これまでのカトレアが見せたことのない冷厳な光だ。屋敷の中に漂う沈黙は、さながら嵐の前の静けさにも思える。


 夜の闇が深まると、屋敷はますます冷え込んでいく。人々が寝静まった頃、カトレアは再び自室を抜け出して、あの地下への扉の前に立った。暗がりで息を潜め、鍵をそっと回してゆっくりと階段を降りる。灯りに照らされた狭い空間は、彼女の心を奇妙に落ち着かせる。やがて、少しずつ不敵な笑みが浮かんだ。


 誰にも聞かれない場所ならば、ここで何をしても誰にとがめられることはない。今はまだ何も決まっていない。けれど、この静寂の底でなら、どんな思考も自由に巡らせられる。目を凝らせば、一番奥の壁に何か重々しい鉄製の器具が掛かっているのを見つける。用途のわからない古い道具かもしれないが、錆びついた金具の光がギラリと主張してくる。まるで「使われるのを待っている」という言葉を暗に(ささや)くようだった。


「……私も、あなたたちの一人ひとりを……」


 何を口にしようとしているのか、自分でも定かではない。ただ、その空気が(はら)む冷たさと暗い誘惑が、カトレアに「復讐」という明確な行動指針を与えてくれる気がした。かすかに(ふる)える指先で壁を触れ、落ちかけた蜘蛛の巣を払いのける。その作業一つ一つが、自分の意思を確固たるものに鍛えていくかのようだ。


 夜会での屈辱は、決して終わりではない。むしろここからが始まりだ――沈黙を強いられ、孤立し、名誉も威光も失ったカトレアは、その絶望の中で新しい力を見出そうとしていた。かつての社交界では許されなかった、もっと黒く、もっと底知れぬものを。そして、その暗闇が、彼女の未来をどこへ導くのかは、まだ誰にもわからない。


 だが、地下室を後にするとき、カトレアの瞳はまるで夜明け前の深い闇のように沈み、同時にどこか鋭い光を宿していた。この静寂の裏側にある怒りと屈辱は、やがて形をなして燃え広がるだろう。そのとき初めて、王宮で笑っている二人の耳にも、彼女の声が届くはずだ。今はまだ遠い予感にすぎない。けれど、その予感だけを信じて、カトレアは階段を一歩ずつ昇っていく。踏みしめる石段が(きし)みを上げるたび、彼女の胸には「沈黙するだけでは済まされない」という決意が膨れ続けていた。

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