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第12話 地獄の一夜②

「どうして、こんな……シエラに何をした……!」


 言葉にならない怒りが裂くように声を上げるが、カトレアは涼しい顔で肩をすくめる。


「何を、というより、散々『楽しませてもらった』とだけ言えば足りるかしら。平民上がりの娘が、まさかこんなに(もろ)いとは思わなかったわ」


 レオネルは憤怒に燃えた目でカトレアを睨みつけ、シエラの身体を守るようにして一歩踏み出す。その瞬間、部屋の扉が開き、私兵と思しき複数の男たちが一斉に押し入ってきた。レオネルは慌ててシエラを床に下ろし、剣を抜こうとするが、強引に腕を()じ上げられ、あっという間に取り押さえられる。


「放せ……放せ……ッ!」


 必死に抵抗するが、精神的にも肉体的にも限界の状態ではどうにもならない。私兵たちに組み伏せられ、床へ顔を押し付けられながら、シエラのもとへ駆け寄ることすらできない。うつ伏せに押さえつけられた彼の耳に、カトレアの冷たい足音が近づいてくるのが聞こえる。


「見苦しいわ、殿下。もしかして、王族としての威光を誇っているつもりかもしれないけれど、今のあなたには何の力もないのね」


 その言葉に、レオネルは声にならない怒りを喉の奥で焼き尽くす。腕はねじ上げられ、指先から力が抜けていく。視線の先では、シエラがかすかに動いた。瀕死の身体が、まるで最後の力を振り絞るように、指先を動かし、レオネルの名を呼ぼうとする。しかし、声は出ない。ただ唇が(ふる)えるだけ。


「シエラ……シエラ! しっかりしろ……もう少しだ……!」


 (うめ)きにも似た彼の呼びかけに、彼女が薄く瞳を開いたように見える。しかし、その瞬間、彼女の胸から息が押し出されるような音が漏れ、次いで短い痙攣(けいれん)が走った。泡のような血が口端に浮かび、目の光が急速に霞んでいく。レオネルが絶叫するように名前を呼んだとき、シエラの呼吸は完全に止まっていた。


「嘘だ……嘘だ……!」


 必死の形相で私兵を振りほどこうとするが、相手はビクともしない。カトレアは床に崩れたシエラの身体を見下ろして、興味を失ったように鼻で笑った。


「……もう、終わりね。あなたの大切な人は、あなたを待たずに逝ってしまったわ」


 その無慈悲な言葉に、レオネルの心は粉々に砕かれる。意識が白く染まり、何もかも忘れてしまいたくなるほどの苦痛が襲いかかる。狂気じみた慟哭(どうこく)が口から漏れるが、誰もそれを止めない。むしろ私兵たちは冷ややかにレオネルの絶叫を傍観する。


「おまえ……許さん……許さんぞ……!」


 レオネルの叫びに、カトレアはゆるやかに首を振り、ただ深い嘲笑を浮かべる。目の前にあるのは、王子としての誇りも立場も全部失った男と、絶命したシエラの血まみれの姿。それが、彼女にとって心地いい破滅の風景なのだろう。部屋にはシエラの死に際が残した生々しい匂いと、レオネルの絶望的な嘆きだけが充満する。


「本当に、愚かな男。あなたがもう少し賢く立ち回っていたら、彼女はこんな目に遭わなかったかもしれないのに」


 言い放ちながら、カトレアは指先でシエラの頬に触れようとする。その冒涜的な仕草が、レオネルの精神をさらに破砕する。声を上げようにも口が渇き、恨みとも怒りともつかぬ咆哮(ほうこう)を発するだけだ。私兵の押さえつける力がさらに強まり、彼の肩に激痛が走るが、今の彼にはそれすらも曖昧(あいまい)な感覚しかもたらさない。


「やめろ……シエラに触れるな……!」


 くぐもった声が空虚に響く。カトレアは小さく笑って身体を引き、私兵たちに一瞥(いちべつ)をくれる。すると、男たちはレオネルの背中を押しつけたまま、立ち上がれないように拘束を強める。彼の指先は血塗れの床を抉るように掻き、どうにかシエラの身体に触れようと伸ばすが、あと数センチが届かない。何かが喉の奥から込み上げるようにして、嘔吐と泣き声が交じり合った音だけがこぼれる。


「あなたが王子だろうと、もう関係ないわ。この屋敷の中では、私がすべてを決めるのですもの」


 カトレアは足音を立てずにレオネルの背後へ回り、彼の耳元にかすかな声で囁く。


「思い知ったかしら? あなたの愛した者はこうして私の前で無力に死んだ。あなたの支配する世界など、最初からどこにもなかったのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、レオネルの心はずたずたに切り裂かれたような痛みを覚える。守りたかったシエラを、自分の手で救えなかった罪悪感と、カトレアへの殺意にも似た憎悪が混ざり合って、思考が真っ白になる。空洞になった思考の奥で、自分が何か取り返しのつかないものを失ったのだと理解するだけで、恐ろしいほどの喪失感が身体を蝕む。


「ご苦労様、殿下。これで、あなたにはもう何も残っていないでしょう」


 レオネルが再び叫ぼうとした刹那、私兵が彼の(あご)を蹴りつける。激痛に口を開けた瞬間、何か固いものを噛んだ感触がし、血の味がじわりと広がる。頭が揺さぶられ、力なく床に突っ伏す彼に、カトレアは声もなく笑みを送り続ける。


 こうして、シエラの無惨な最期とカトレアの狂気に飲み込まれる形で、レオネルの希望は寸断された。床を染める血と暗い笑い声だけが、地下室にこだまする。扉の外からかすかに漏れくる夜の風さえ、この場の恐怖を和らげることはない。レオネルの肩書など、誰も気にかけないほど圧倒的な暴力と絶望が支配し、すべてが崩れ落ちていく。


 瀕死のレオネルが目に焼き付けた最後の光景は、笑い狂うカトレアの顔と、シエラの冷たく動かなくなった身体。それは、彼が生きていく限り悪夢となって追いかけてくるだろう。血と悲鳴の夜に閉ざされたこの空間から、希望の光が射すことなど、もはや微塵(みじん)も期待できない。彼が失ったものの大きさに比べれば、地獄の中で叫び続けるしか術はないのだから――。


 こうして、一夜のうちにレオネルの人生は決定的な絶望へと落ち込んだ。王宮の混乱はさらに深まり、誰もが救いを見出せぬまま、破滅へ向かうしかないのだと悟り始める。血染めの地下室で行われた惨劇が、すべてを暗転させる最悪の事実として語り継がれるのは、まだ少し先のことになるだろう。そして、その狂気と絶望を知りながら、カトレアはただ妖艶に微笑み続ける――彼女の望む破滅という名の結末へと、物語が大きく傾き始めているのだ。

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