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第12話 地獄の一夜①

 夜の帳が地上を覆い尽くす頃、レオネルは公爵家の敷地裏手に、ひとり姿を現した。いつもの馬車や従者は連れず、まるで亡命者か盗賊のように衣服を取り(つくろ)い、人気のない塀を乗り越えるようにして敷地内へ滑り込む。理性も(おぼろ)げなまま、ただひとつの目的に突き動かされていた。シエラの行方を突き止める――その切実な思いだけが、今の彼を動かしている。


 月明かりの薄い夜。敷地内の草木が風に揺れてざわめくたび、レオネルは神経を尖らせながら進んだ。何度も人影を見かけるが、そのたびに隠れながら中庭を抜け、館の裏口へとたどり着く。公爵家の私兵が巡回しているだろうが、ここ数日の混乱もあり、警備が手薄な箇所があるのではないかと彼は賭けに出ていた。


 幸運にも小さな勝手口が施錠されておらず、レオネルは音を殺して扉を開ける。館の奥へ足を踏み入れると、すぐに重苦しい空気が肌に張りつくように感じられる。明かりの落とされた廊下は薄闇に沈み、使用人たちの姿は見えない。既に夜更けということもあり、屋敷は眠りについているのかもしれないが、どこか不穏な気配が漂うのを感じ、レオネルは冷や汗を(にじ)ませた。


「シエラ……」


 かすれた声で彼女の名を(つぶや)いても、虚空に散るだけ。足元を照らす弱々しいランプの明かりが床を揺らし、そこに無数の靴痕が重なっている。長年続く公爵家の重厚さを象徴する石畳に、ついさっきまで人の出入りがあったことを示す痕跡――レオネルは不安を抱えながら、半ば暗記していた館の構造を頼りに地下へ向かう階段を探す。


 やがて、埃臭い階段を下る途中で、鼻をつく妙な臭いに気づく。それは生臭い血の匂いとも、湿気を吸った石の匂いともつかぬ、どこか不快な刺激物の臭いだ。肺にまとわりつくようなその気配に、レオネルは胸がざわつき、吐き気を感じた。心臓が早鐘を打ち始め、冷や汗が背中を伝う。シエラがここにいるのかもしれない――そう思った瞬間、踏み出す足が(ふる)えそうになるのを必死で抑えた。


 階段を降りると、薄暗い廊下が伸びている。そこには扉がいくつもあり、鍵のかかっていないものを一つずつ開けては中を(のぞ)く。空の倉庫、散乱した古い道具、どれも異様なまでに雑然としているが、人の気配はない。じりじりと焦りが込み上げる中、レオネルはやがて廊下の突き当たりにある重い扉を見つけ、そこから一際強い血の臭いが漂っているのを感じ取った。


 扉に手をかけると、意外にも鍵はかかっていなかった。開けた瞬間、嗅覚を刺すのは鮮血の臭い。松明の淡い炎で照らされた室内には、鉄錆と脂のような汚臭が混じって立ちこめている。レオネルが足を踏み入れた先――それは、まるで拷問部屋と呼ぶにふさわしい惨憺(さんたん)たる光景だった。


 床には血痕が点々と散り、壁には鎖や枷、そして何本もの鈍い光を放つ拷問具がかけられている。空気が重く、濃密な生暖かさを帯びていて、汗と血液の混ざった鉄の臭いが鼻を焼く。その真ん中に、何かが横たわっているのを見て、レオネルは息を呑んだ。


「シエラ……!」


 叫ぶように駆け寄ると、そこには血と汚れにまみれたシエラが、かろうじて息をしている姿があった。全身には無数の傷が刻まれ、(あざ)や裂傷からはまだ鮮血が滴っている。手足には拘束の痕が深く食い込み、糸のように細い呼吸を繰り返しているが、意識があるのかも定かではない。その身体は(ふる)えるほど冷たく、死の気配が際立っていた。


「嘘だろ……こんなの……」


 レオネルは膝をつき、シエラをそっと抱き起こす。しかし、彼女の身体は驚くほど軽く、まるで中身が失われた人形のようだ。あちこちに開いた傷口から血が流れ落ち、彼の手や腕を染める。目を開けようとするシエラの瞳は焦点が合わず、虚空を漂うように揺れている。


「シエラ、俺だ……分かるか。レオネルだ……!」


 必死に名前を呼ぶが、返ってくるのは短い呼吸の合間に漏れるか細い声だけだ。彼女の唇が震え、何か言おうとしているようだが、声にはならない。レオネルは懸命に傷口を押さえ、止血しようと試みるが、どこを押さえていいかも分からないほど無数の傷がある。恐怖と嗚咽が入り混じり、頭が真っ白になりそうになる。


「こんなの……誰がこんなことを……」


 その答えを示すかのように、部屋の奥から足音が響いた。振り向くと、暗がりの中にカトレアの姿があった。灯された松明が、彼女の微笑む表情を怪しく照らし出す。上品な服装は変わらぬものの、目には狂気が宿り、口元には薄っすらと勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。


「やはり、来ましたのね、殿下。私を疑うなら、きちんと御自身の目で確かめたくなるものね」


 その声は冷たく響き、レオネルの胸をかき乱す。まさかこれほどの惨状をもたらした犯人がカトレアだったという現実が、怒りと恐怖を同時に呼び起こし、彼の理性を壊れそうなほど揺さぶる。シエラを抱えたまま立ち上がろうとするが、足が震えてまともに体重を支えられない。カトレアはその様子を(あざけ)るかのように笑った。

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