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第2話 崩れゆく威光①

 公爵家の大きな門が目の前にそびえ立っているというのに、カトレアの胸にはまるで帰る場所などないかのような虚無感だけが渦巻いていた。夜会で受けた侮辱は、まるで何年も前の出来事のように思われる。揺らぐ心を押さえつけるように深呼吸し、石畳を一歩、また一歩と踏みしめるたび、自分の足音が嫌に大きく耳に響く。


 出迎えに来たのは初老の執事だった。かつては彼女の細かな世話まで引き受けてくれた人物だが、今の彼の表情は冷え切っている。会釈だけは形だけ整えているが、それ以上に親しげな言葉をかけることはしない。カトレアの目が彼の瞳を探しても、視線は素早く逸らされてしまう。


「お帰りなさいませ、カトレア様」


 事務的に告げると、執事は足早に先へと歩き出す。その後ろ姿を追うようにして館内へ入ると、廊下に並んだ使用人たちの態度も同様だった。膝を少しだけ折るメイド、顔を伏せる給仕、それらの仕草にはかつてのような敬意は微塵(みじん)も感じられない。忌み嫌うわけでもないが、同時に大切に遇するつもりもない。これが公爵家の方針なのだ。カトレアの胸は鈍く(きし)む。


 壁には先祖代々の肖像画が幾つも並ぶ。かつての偉大な公爵家の栄光を象徴するかのように威風堂々と描かれた肖像は、いつもならカトレアに誇りを感じさせてくれるものだった。だが今は、その一枚一枚がこちらを見下し、あざ笑っているかのように思えてならない。まるで「おまえは家名に泥を塗った」と言わんばかりだ。下を向いて歩いていると、執事が振り返ることなく扉を開けるのが見えた。


「旦那様がお待ちです」


 重厚な扉の向こう、そこは父の執務室。以前は招かれるたび誇らしかった部屋も、今となっては気が重いだけだ。扉の近くに立つと、少し湿った空気と紙の匂いが鼻を刺す。部屋の中には難しい顔をした父が一人、机の書類を乱雑に押しのけ、額を押さえて座っている。カトレアが入ってきたことに気づいても、しばらくは顔を上げようとしなかった。


「……父様」


 声をかけても沈黙が続く。長い沈黙の末、父は渋々といった様子で顔を上げ、カトレアをまじまじと見つめた。その眼差しは怒りとも落胆ともつかぬ色を帯びている。


「言いたいことはたくさんある。だが、まず聞きたいのは一つだ。なぜだ?」


 何を指しているのか、カトレアにはすぐに悟れなかった。けれど、その言葉にこもる苛立(いらだ)ちから、父が「彼女に原因がある」と考えているのは明白だった。夜会での婚約破棄が公爵家に落とした影は大きく、彼がそれを「家名を大きく傷つけた出来事」としか見ていないことも簡単に察しがつく。


「なぜ、と言われましても……あちらが一方的に」

「だからこそだ。おまえの振る舞いに問題があったからではないのか」


 机を軽く叩きながら、父は低い声で続ける。まるで、問答無用でカトレアを責め立てるためだけの問いのようだ。カトレアの唇は(ふる)え、それを悟られぬよう必死に噛みしめる。


「……どんな理由があろうと、婚約を破棄されるなど、恥をかくにもほどがある。私たちは王家と深い絆を結び、それこそが公爵家の安定を保障する手立てだったのだぞ」


 そう言い切る父の表情には、娘を心配する気配が微塵(みじん)もない。あるのは政治的打算が裏目に出たことへの不満と苛立(いらだ)ちだけだ。


「……申し訳ありませんでした」


 頭を下げると、父はやや声を潜めて言葉を継ぐ。


「おまえは当分、屋敷から出るな。下手に外出すれば、あらぬ噂や敵意をさらに招くだけだ。これ以上、家名を汚すわけにはいかない」


 苦々しい響きに、カトレアの心は冷えていく。既に公爵家の人間として認められていないかのような物言い。それでも反論などできるわけがない。父が自分を、ただの駒として見ていることは痛いほどわかっていた。どうにか踏みとどまって、再び頭を下げる。


「……わかりました」


 その声は唇の裏側から搾り出すような、干からびた音だった。父はそれ以上何も言わず、机に目を落として書類を雑にかき回す。部屋に再び沈黙が落ちる。カトレアは深く礼をして、その場を去った。部屋を出た瞬間、自分が無性に哀れに思え、目がかすんだ。気づかれぬよう急ぎ足で廊下を進み、自室の扉を閉めるまでの間、誰かの目とぶつかるたびに胸が痛んだ。


 寝台に腰を下ろしても、落ち着くことはできない。豪奢(ごうしゃ)な室内、かつては誇らしく思えた家具や調度品が、今はすべて色褪せて見える。


「……どうして私ばかり……」


 (つぶや)くたびに、夜会での光景がまざまざと蘇る。公衆の面前で踏みにじられた屈辱、嘲笑と冷たい視線。あのとき感じた恥辱は、今も呼吸を妨げるほどの苦しみをもたらす。さらに父のあの態度。家の誇りと称され、将来を嘱望された娘に対して向けるべき思いやりや慈しみはなく、ただ政治的な計算だけが優先されている。カトレアはふと、自分の存在が底なしの谷底へと落ちてしまったような孤独を味わった。


 翌朝になっても、使用人たちは淡々と食事を運んでくるだけだ。以前なら、メイドが心配そうに声をかけ、世間話や身体を気遣う言葉を投げかけてくれた。だが今は、盆を置いて無言で退室するだけ。わざわざ問いかけようとしても、彼女らの態度からは極力関わりを避けようとする空気がありありと感じ取れた。


「お嬢様、お加減はいかがでしょうか」


 かろうじて声をかけてくれたのは若いメイドの一人だったが、その瞳の奥には警戒の色が浮かんでいるようにも見える。カトレアが何気なく「ありがとう」と返すと、メイドは目を伏せておずおずと退出していく。まるで「これ以上関わってはならない」という指示でも受けているかのように。張り詰めた静寂が部屋に戻ると、カトレアは胸の奥で渦巻く暗い思考を振り払えなくなっていく。


 そんな日々が続く中、噂話ばかりは廊下や談話室を通じて容赦なく耳に入ってきた。レオネルがシエラをお披露目の場へ度々連れ出していること、シエラが王宮の人々に「控えめで心優しい」という評価を得ており、絶大な人気を博し始めていること。さらに彼女の平民出身というハンデですら、今や奇跡のように讃えられているとも聞く。全身を(さいな)むような嫉妬や憎しみが、カトレアの心にじわじわと染み込む。


「どうして……あの人たちは何もかも手に入れているのに、私は……」


 その疑問はやがて一つの答えに行き着く。あの夜会で、全ては決定的に変わってしまった。守るべきものを奪われ、信じていた人間に裏切られた。それだけならばまだしも、王宮や社交界からは唾棄(だき)され、さらに父親までが政治的な都合で自分を遠ざけている。このまま沈黙していれば、本当に何もかもを失ってしまう――そんな恐怖が胸を締め付ける。


 ある夜、なかなか寝付けないまま部屋を出て、屋敷の廊下をさまよっていると、(かす)かに湿った空気が頬を撫でた。それは地下へと続く方向から漂ってくる冷たさだった。好奇心と衝動に駆られて足を進めると、石造りの階段を下った先に錆びた鉄の扉がある。近づくと、かすかに黴臭いような、土の匂いのようなものが鼻をつく。


「こんな場所があったなんて……」


 以前から地下室の存在は知っていたが、ここまで深く踏み入ったのは初めてだった。扉を開けると、薄暗い空間が息を殺して待ち構えているかのように思える。床には染み付いた汚れが点々とあり、壁には古びた木箱や壊れた家具らしきものが積まれていた。何かがうごめく気配を感じ、慌てて灯りをかざすと、ただのネズミが走り去っただけだった。


 その不気味な静寂に、カトレアはなぜか不思議な安堵を感じた。屋敷の上階では常に誰かの視線や冷たい態度が付きまとい、自分が自由に呼吸すらできないように思える。だが、この地下室は「無関心」という形で彼女を受け入れているように感じられた。カビ臭い壁を指先でそっとなぞりながら、ふと「ここなら誰にも邪魔されずに何かを企める」という考えが頭をもたげる。強く閉じ込めようとしたはずの怒りが、また少し形を持ちはじめる。


「……こんなところにいれば、みんな私を忘れてくれるかしら」


 独り言のように(つぶや)くと、かすれた声が暗闇に吸い込まれていく。そうかと思えば、屋敷の上では使用人が何やら慌ただしく動いている音が微かに届いてくる。夜中にカトレアがいなくなったと知ったのだろうか。それとも、ただの雑務かもしれない。どちらでも構わない。彼女はとにかく、この地下の薄暗さに身を沈めていたい気分だった。ここでなら、屈辱も孤独も、そしてあの二人への憎しみすらも正直に感じ取れる。


 しかし長居はできなかった。地上の方で人の呼ぶ声がしたからだ。おそらく父の命令で、メイドか執事が探しているのだろう。カトレアは底に沈む怒りの感触を名残惜しむように味わいながら階段を上り、扉をそっと閉める。その扉の隙間から吹く風が、彼女の裾を(かす)め、まるで「また来い」と囁いているような錯覚を覚える。


 部屋に戻ると、扉の外で待機していたメイドが不安げに声をかけてきた。


「カトレア様、お呼びが……」

「わかりました」


 短く答えると、メイドはおずおずと下がり、部屋の前から遠ざかる。思えば、ほんの数日前までは「お嬢様」と心から敬い、丁寧に付き従っていたはずの人たちだ。今や、まるで「関わり合いになりたくない存在」を見るかのような態度になっているのが明らかだ。それは夜会の出来事があまりにも衝撃的であり、この屋敷全体の空気を一変させた結果なのだろう。カトレアは少し乱れたドレスを整え、父の執務室へ向かわねばならない。


 扉を開けると、そこには父と数名の家臣がいた。彼らは図面や手紙を広げて難しそうな話をしていたが、カトレアが入ってくるのを見て顔色を変える。会話を一瞬止め、目配せだけで「彼女の前で余計なことを口にするな」と警告し合っているように見えた。実の娘をこのように扱うのかと、彼女は心の奥で苦笑する。


「……どうやら、しばらくの間は国政に関わる大きな行事から外れることになりそうだ。おまえも派手に動かないようにしておけ」


 父はそれだけを告げ、カトレアにすぐ退室するよう合図する。周囲の家臣たちも彼女を避けるかのように視線をそらす。説明を求める余地などなかった。カトレアは無言で深く一礼し、部屋を出る。ドアが閉まった瞬間、何かが胸の中でまた崩れ落ちた気がした。これが自分の家なのだ。なのに、どこにも居場所がない。


「……ならば、私が居場所を作るしかない」


 扉の前で(つぶや)く言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものだった。そこに浮かぶ「居場所」という言葉は、夜会の華やぎを思い出させるものではなく、もっと別の、底無しの暗闇を感じさせる場所。それでも、カトレアは何らかの行動を起こさなければこのまま潰されてしまう、と直感的に悟っていた。

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