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第10話 地下室の悪夢①

 深夜の王宮は、妙に静まり返っていた。人々が一日の喧噪から解放され、床に就いている時刻にもかかわらず、空気には重苦しい気配が漂う。そうした薄闇に紛れるようにして、数名の男たちがシエラのもとへ忍び寄ってきたのは、まるで惨劇の幕開けを告げる合図のようだった。


 彼女が自室で疲れきった身体を休めようとしていたその矢先、扉を守るはずの騎士がいとも簡単に買収されていたとは、誰も想像しなかっただろう。部屋の鍵が開くか開かないかのうちに、荒々しい手がシエラの腕を(つか)み、布を口に押し当てる。悲鳴を上げる間もなく呼吸が塞がり、混乱のまま意識が遠のいていく――それが、誘拐の始まりだった。


 いつしか眼を覚ますと、そこには冷たい石壁があった。鬱陶(うっとう)しいほど湿気を含んだ空気が肌を()で、鼻を突く(かび)臭さが広がる。シエラは床に横たわったまま、両手両足を縛られていることに気づくと、全身に戦慄(せんりつ)が走った。動かそうにも縄が肉に食い込むほど厳重で、その跡からはじわじわと血の感触がにじむ。痛みに耐えながら、恐る恐る周囲を見回すと、そこはまるで地獄のような地下室だった。


 床には古びた鉄の鎖や、用途のわからない金属の器具が無造作に転がっている。壁には錆びた輪っかや留め具のようなものが備え付けられ、所々に染み付いた褐色の汚れは、見慣れぬ者にもすぐに血痕だとわかる。蛍光の明かりもない地下は、数本の松明だけで薄暗く照らされており、ゆらゆらと揺れる炎が、かえって不気味な影を壁に映し出していた。


 シエラは息をのむ。身体を動かすたび、足音が闇の奥でかすかに反響するように思える。そこへ、静かな足取りが近づいた。松明の光がゆっくりと姿を照らし出すと、それはカトレアだった。美しいドレスに身を包んでいるが、その目には冷たい狂気の光が宿っている。かつての社交界で見せていた優雅な微笑とはまるで別人のようだ。


「ようこそ、シエラ。あなたをここで迎え入れる日が来るとは、我ながら感慨深いわ」


 カトレアの声は穏やかでありながら、まるで毒を孕んだ甘露のように耳を侵食する。シエラは必死に声を出そうとするが、先ほどまで口に詰め込まれていた布のせいで喉が痛み、うまく言葉にならない。代わりに(ふる)えた唇から漏れ出すのは、切羽詰まった低いうめき声だけ。カトレアはそれを見下ろして、ほんのわずかに口元を歪める。


「やっと二人きりになれたわね。あなたがどれほど殿下に守られても、この場所では何の意味もない。ええ、ここは私の庭も同然よ」


 続ける言葉に、シエラは絶望感に襲われた。この地下室がカトレアの支配領域であること、そして自分はこの場で彼女に好き放題にされる――その予感だけでも、心臓が止まりそうなほどの恐怖が襲いかかる。だが、カトレアは遠慮などしない。床に転がる道具の一つを拾い上げると、冷たい鉄の先端をシエラの(あご)にあてがい、ぐいと持ち上げた。


「殿下をどれだけ信じていたのか知らないけれど、彼はあなたを救い出せない。だって、こうしてあなたは私の手の内にいるもの」


 思わずシエラは身をそらそうとするが、拘束されているため逃げ場などない。鉄の先端が皮膚を引っかき、鬱血した痛みがじわりと伝わる。カトレアは、まるで獲物を愛玩するかのようにゆっくりと力を加え、シエラの肌に薄い傷をつけた。(にじ)む血が細い筋となって首筋を伝い落ち、切なく淡い光の中に赤い線を描く。


「きゃあ……やめ……」

「嫌ならば叫ぶなり何なり、お好きにどうぞ。誰もあなたを助けになんて来ないけれど」


 (あざけ)るように言葉を投げかけると、カトレアは道具を置いて、今度は別の棚から錆びた針のようなものを取り出す。先端がどろりと黒ずんでおり、清潔とはほど遠い代物だ。彼女はそれを松明の火で軽く炙ると、楽しげにそれを見つめてからシエラの方へ振り返った。


「一歩ずつ確かめましょうか。あなたがどれほど痛みに耐えられるのか、試してみたいの」


 その言葉に、シエラは今度こそ悲鳴を上げようとしたが、恐怖で喉が塞がって声にならない。やっとの思いで「助けて」とかすれる声を出した瞬間、カトレアは針をシエラの指先に突き立てた。ぷつりと皮膚を破る音に続いて、爪の隙間からじわりと血が滲む。激痛が神経を貫き、シエラの全身が痙攣(けいれん)するように震えた。


「きゃああああっ……!」

「どう、痛い? でもまだまだ序の口よ。こんな程度で気を失われても困るわ」


 カトレアはわざと針をゆっくり(ねじ)るようにし、シエラの声を削り取る。床に滴った血液が薄い水溜まりのように広がるが、地下室の空気は酷薄なまま変わらない。シエラの目に涙が(にじ)み、痛みに混乱しながら必死に叫ぶが、カトレアは構わず次々と針を用意していく。


「あの慈善を誇っていた姿はどこへいったのかしら? あんなに人々を救うことに燃えていたのに、今はあなた自身が救われない状況ね」


 冷たく嘲笑しながら、カトレアは手際よくシエラの指先や腕に針を刺していく。一本一本が神経を焦がすような痛みを走らせ、シエラは声にならない悲鳴を必死に押し出す。涙と血が混ざり、顔をくしゃくしゃにしても、カトレアは容赦しない。逆にその苦しむ姿を見て、ほんのり頬を染めるように狂気を昂らせていくのだ。


「そうそう、もっと叫んで。あなたがどれほど純潔を装っていようと、ここでは誰も助けてくれないのだから」


 シエラの頭から滴る汗と涙が汚れた床に吸い込まれていく。意識がもう朦朧(もうろう)としているが、拷問は終わる気配を見せない。カトレアはやり方を変えて、今度は鞭のような細い革紐を手にすると、シエラの肩や背中を幾度も打ち据える。皮膚が裂け、うっすら赤黒い筋が浮かび上がるたび、シエラの口からは断続的な悲鳴がこぼれるばかり。


「こんな罰は初めてかしら? あなたは高貴な育ちではないから、案外耐性があるかと思ったけれど、そうでもないのね」


 言葉に(あざけ)りを混ぜながら、カトレアはゆっくりと距離を取り、息を乱したまま横たわるシエラを眺めた。その瞳には、まるで悪趣味な玩具でも手に入れたかのような愉悦(ゆえつ)が見える。それはもはや正気の沙汰とは思えない光で、シエラはその視線だけで身体が凍りつくような恐怖を覚えた。


「殿下はどうするかしら。あなたがいなくなったら、少しは必死に探すかもしれないわね。けれど、やり手の騎士も汚職まみれの役人も、私にとってはただの駒に過ぎない。捜索が届かないよう、手筈は整えてあるの」


 その言葉の通り、レオネルの捜索はすでに形骸化しつつあった。彼が必死に騎士団を動かそうとしても、上官レベルではすでに買収や脅しが行き渡っており、まともな捜査は進まない。いくつかの役人が「シエラの行方に手掛かりを得た」と報告しては来るが、実際には時間稼ぎの嘘ばかり。肝心の足取りは一向につかめず、もう一晩、また一晩と時間だけが過ぎていく。


 王宮の一角で焦燥に駆られたレオネルは、額に手を当てて廊下を行ったり来たりするが、周囲からは哀れみか嘲笑を浴びるだけ。誰も「殿下を心から(した)っている」者がいなくなった今、彼の命令に真摯に動く騎士はほとんど残っていなかった。自分の身を危険に晒すくらいなら、黙って高見の見物を決め込もうとする貴族も多い。そうしてシエラは孤独なまま、拷問の奈落へ沈んでいく。

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