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第9話 血染めの警告①

 夜が深まる王都の路地裏で、一人の若い下級貴族が(うめ)き声を上げながら地面を()っていた。名前はダリオ。いつもなら王宮の廊下を遠慮がちに歩くような大人しい男で、レオネルと親交があるわけでもないが、シエラの誠実さに心を打たれ、その潔白を少しでも助けたいと思ったのが運の尽きだった。かつて彼女の慈善活動を手伝った経緯があり、自分なりに真相解明の糸口を探ろうと立ち回った結果、今はこうして血にまみれている。


 腰のあたりには鋭い痛みが走り、目の前の石畳が赤く染まっていく。遠くには町の灯りがちらちらと瞬いているが、そこまで這い進むことすらできない。助けを呼ぼうにも喉が潰れかけてうまく声が出ない。こんな場所に連れ込まれ、襲われるなど想像したこともなかった。


「く、そ……なぜ……」


 ダリオはかろうじて(つぶや)くが、返事をする者はいない。街灯の陰に人の気配があるような気がしても、それが救いの手なのか、とどめを刺しに来る者なのか分からず、ただ(ふる)えた呼吸を繰り返す。夜風が冷たく肌を刺し、体温がどんどん奪われていく。恐怖と絶望の淵で、意識が遠のきかけたそのとき――足音が近づいてきた。


 木製の靴底が乾いた音を立てて石畳を踏みしめ、ダリオの横に静かに(たたず)む。誰かが手を差し伸べてくれるかと思った瞬間、彼の目に映ったのは黒いローブを軽く翻す人影だった。その輪郭はわずかに月の光に浮かび上がり、特徴的な匂い――香油でも香水でもない、どこか甘ったるい薬品のような匂いが鼻を刺す。


「あなたも……無駄なことをしたものね」


 静かな女性の声。その声音は、一見すると穏やかに聞こえるが、その底には何とも言えない狂気が(にじ)んでいる。ダリオは思わず身を起こそうとするが、痛みと失血で筋肉が言うことを聞かない。夜風が通り過ぎる路地で、彼の目は必死に人影を捉えようとするが、ローブの深い影に隠されて顔はよく見えない。


「どうして……」

「あなたが少しでもシエラを助けようと動いたからよ。あるいは、レオネルに情報を渡そうとした? どちらでも構わないわ」


 声には楽しげな調子すら混ざっている。苦悶の表情を浮かべるダリオを見下ろし、相手はわずかに唇を歪めたように見えた。月光が染み入るように路地を照らし、冷たい石壁が二人の間で濁った色を放つ。この状況の異常さをダリオは理解しながら、頭が回らなくなっていくのを感じる。


 突然、彼の目に鋭い光が差し込んだ。相手が手にしている短剣の刃が、月光を反射してギラリと輝く。どこか装飾的な美しさを伴った凶器だった。それがゆっくりと振り上げられ、次の瞬間にはダリオの胸へ突き立てられる――


「ぐっ……!」


 悲鳴は出なかった。ただ息が詰まったような感覚のまま、身体が痙攣(けいれん)し、口中に鉄の味が広がる。肺が血で溺れていくような錯覚に陥り、視界が焼けつく。相手は一切容赦せず、短剣を何度か引き抜き、また突き刺す動作を繰り返す。地面に広がる赤黒い液体は、やがて濡れた板のようになり、ダリオの意識は千切れるように遠ざかっていく。かすかな呼吸音すら立たなくなったとき、相手は身をかがめ、まるで壊れた人形でも扱うかのように彼の身体を動かし始めた。


「まだ足りないわ。あなたには『警告』という役目を果たしてもらうもの」


 その声は死の淵にあるダリオの耳にはもう届かない。彼のかろうじて動いていた瞳は、急速に光を失っていった。呼吸が停止し、意識は闇へ沈む。冷たい夜の路地で、人影は短剣の刃についた血をさらりと拭い、ダリオの身体を壁際に引きずるように動かす。そこから先の作業は、よほど手慣れた手つきとしか言いようがない。凄惨な血の跡を使って、石壁に文字を描いていくのだ。


 翌朝、王宮内を震撼させたのは、「下級貴族の無残な死体が路地裏で見つかった」という報せだった。いつもなら騎士団や治安関係者が慎重に扱うはずの事件だが、今回ばかりはあまりの惨状に噂が爆発的に広まってしまう。死体には深い刺し傷が何箇所もあり、壁には真っ赤な血で(いびつ)な文字が書かれていた。文字というよりは、何かの警告文のようにも見えるが、その内容があまりに不明瞭かつ凄惨だったのが逆に不気味さを際立たせていた。


「これはいったい……誰が、こんなことを……」

「レオネル殿下に協力しようとしていた人物らしい。まさか、殿下が狙ったわけではあるまいが……」

「なんて酷い……あんな殺し方をするなど、正気とは思えません」


 死体の報告が王宮に届くと、たちまち人々は動揺し、(おび)え、そして疑心暗鬼を募らせる。すでに一人や二人の不審死が起きていたが、ここまであからさまに残酷な手口は初めてだった。しかも被害者は、シエラに同情的だったとされる下級貴族。これが「偶然」かどうかを考えれば、誰しも嫌な予感を拭えない。


 やがて噂が噂を呼び、「誰かが王宮全体を脅しにかかっている」「あの血文字は次の犠牲者への予告だ」といった話まで(ささや)かれるようになる。中には、「背後に恐るべき意図を持った人物がいる」と確信している者もいて、寝室の扉に何重もの鍵をかけ、外出を控える貴族さえ現れ始めた。


「おまえ……大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「誰がいつ狙われるか分からんだろう? 騎士を増やしても意味があるのか……」


 廊下で行き交う官僚たちは皆、浮足立ち、片時も気を抜けない雰囲気に包まれている。その中で、レオネルの姿を見かけた者は、あからさまに眉をひそめたり、遠巻きに睨みつけたりする者もいた。彼の名が被害者と直接結びついてはいないが、「レオネルの下につくと危険」という空気が強まったのだ。


 シエラがこの事件を知ったのは、まだ朝の光も弱い時間だった。貴族の使いが部屋に押しかけ、「あの男があなたを擁護していたという話だが、これでもまだ自分の行いを正しいと思うのか」となじったという。涙を(たた)えながら弁解しようとしても、相手は聞く耳を持たず、まるで犯罪が彼女のせいだと言わんばかりに扱う。部屋を出た後、シエラは(ふる)える手を胸に当て、祈るように目を伏せる。


「こんなこと……どうして……」


 レオネルもまた、言いようのない恐怖と絶望感に打ちのめされていた。この殺害が誰の仕業なのか、なぜこんなにも残酷な形で世に晒したのか――推測はできても決定打は得られない。周囲の貴族たちの多くは、彼が関わっている下級者が次々と悲劇に巻き込まれている事実を見て、「レオネルを援助すると、命が危ないのではないか」と背を向け始める。


「こんな……俺が何か言う前に、皆が逃げ出そうとしている。まるで疫病患者を扱うみたいに……」


 苛立(いらだ)ちを押し殺し、重苦しい溜息とともにレオネルは壁を拳で叩いた。不吉な血文字の存在が、王宮全体を覆う恐怖を際立たせている。残酷な死に方をした被害者はシエラ側に立とうとしたという事実――それが「警告」に他ならないことは明白だ。レオネルも気づいている。このままでは誰も自分を助けないし、自分もまたシエラを守れない。


「……もしかして、やはり彼女の仕業か。カトレアがここまでの……」


 その疑念が頭をもたげるたび、周囲の家臣に口にしてみるが、相手は半信半疑の様子で困惑するだけ。証拠がなく、あの公爵家の娘がどこまで関わるのかすら未知数だ。名門の家系を敵に回したくないという思惑もあり、誰も積極的に捜査に踏み切ろうとはしない。

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