第8話 蠢く影②
一方、叔父派と呼ばれる別のグループも、独自の動きを見せる。老獪な叔父は、兄王子がレオネルを一方的に潰す現状に不満を感じ、自分が漁夫の利を得る形で王位に近づこうと画策する。あえてレオネルに表向きの支援を示唆し、彼の破滅に際して「救世主」として名乗り出る算段を立てていた。だが、その作戦の要とされる密書や証拠類も、またカトレアの手が加わった「偽の駒」に左右される仕組みになっている。
こうして王族同士の暗闘が激化する中、レオネルはますます孤立を深めていった。彼は感じている。自分を追い詰める陰には、かつての公爵令嬢が存在するのではないかと。実際、あの夜会以来の惨事を思い出すと、どうしてもカトレアの名が頭をよぎるのだ。しかし、その疑いを周囲に打ち明けても、ほとんど相手にされない。
「まさか。彼女はすでに表舞台から退いたと聞きます。そんなことをする動機がありますか?」
「公爵家の動向を調べても、それらしい証拠は見つからないのです。むしろ彼女は病気で屋敷に籠もっていると……」
家臣たちも表面の情報しかつかめず、レオネルの不安は根拠のない妄想だと片づけてしまう。誰もが兄王子や叔父といった「より直接的に利益を狙う」者たちばかりを警戒し、カトレアという存在は頭の片隅にも入っていない。彼女は表向き動きを見せず、裏から糸を引くだけで目的を果たす。だからこそ、猜疑心を深めるレオネルを周囲が信じようとしない。
「……確かに、あの娘が何も関係していないという証拠はない。しかし、証拠もなく疑い続けるのは危険です、殿下」
ようやく耳を傾けてくれた家臣も、苦言を呈するだけ。レオネルが声を荒らげても、誰も現実的な行動に移ることはない。むしろ彼を妄想に取り憑かれたと蔑んだり、呆れたりする気配が漂う。その間にも、王族間の裏切りや買収はさらなる広がりを見せ、もはや誰が味方で誰が敵なのか分からなくなるほどだ。
「このままでは俺は……何もできぬまま終わってしまうのか」
そんなレオネルの苦悩をよそに、カトレアは自室で新たな書状に目を通していた。そこには、王族間の勢力図が細かく記されている。兄王子派と叔父派が対立し、各貴族がどちらにつくべきか揺れ動いているさまが、まるで駒を配列したように図示されている。カトレアはこれを見ながら、引くべき糸と切るべき糸を冷静に選別しているのだ。
「面白いわ。彼らが互いを貶め合うほど、レオネルの周囲はさらに混沌としていく。私がわざわざ姿を見せる必要なんてないのだから」
口元に笑みを浮かべながら、カトレアは紙面に軽く指を這わせる。ある人物を指先でトントンと叩くと、その名前の上には小さなメモが走り書きされていた。賄賂に脆く、裏切りが得意な中間派の貴族である。彼を上手く転がせば、兄王子派にも叔父派にも不穏な情報を流し、確執を深めさせることができるだろう。さらには、レオネルを意図的に刺激する情報も添えてやれば、事態はますます混乱を極めるはずだ。
今のレオネルは、すでに自分を疑いつつも決定的な証拠を掴めない状態だ。周囲に味方はおらず、王宮の誰をも信用できないという疑心暗鬼に囚われている。これほど追い詰めやすい状況はないとカトレアは確信していた。あとは、王族の暗闘に乗じてレオネルの退路を断ち切ればいい。シエラはすでに精神的にボロボロな状態。王家の継承争いの激化と同時に、レオネルもシエラも焦燥に駆られて自滅へ突き進むだろう。
こうして宮廷内では、日々のように買収と密告が飛び交い、相互不信が増していく。些細な噂が大きく膨れ上がり、貴族たちは自らの保身のために友人や盟友を売り渡す。裏で一つの文書や手紙が動くたび、誰かが失脚し、誰かが嘲笑い、また別の誰かが裏切る。その一部始終を眺めながら、カトレアは愉悦を感じ続けていた。
「この陰惨な光景こそ、私が望んだもの。その果てに、彼らがどんな顔をするか……」
その呟きは誰の耳にも届かない。しかし、その底にある決意は揺るぎない。彼女が与えた小さな火種は、やがて王宮を覆い尽くす巨大な炎へと変貌するだろう。レオネルがどんなに言葉を尽くし、カトレアの存在を訴えても、周囲は耳を貸さない。逆に「そんな発想は荒唐無稽だ」と切り捨てられ、言葉を失うばかり。彼が抱えた薄暗い恐怖は、表出することなく胸に積もっていく。
やがて、兄王子派はレオネルへの攻勢を強め、叔父派はひそかに手ぐすね引いて「両派の潰し合い」を待ち受けている構図が固定化し始める。王宮の廊下には陰鬱な噂と殺伐とした風が吹き抜け、誰もが自分の身がいつ危うくなるか分からないと怯えていた。人々が感じる閉塞感は頂点に近づき、いつ破裂してもおかしくないほどだ。
混乱が深まるほど、カトレアの存在は遠ざかっていく。彼女はあくまで陰で絡みつく黒い糸のように、表舞台に足を踏み入れない。だからこそ、疑惑は具体的な形を取れず、レオネルが声高に叫んだとしても実りはない。こうして王族間の醜い争いは「黒幕の影」さえ見ぬまま激化し、レオネルとシエラは視界が塞がるような絶望に苛まれ続けることになる。それこそが、カトレアの狙い通りの展開だった。
「まだ、終わらないわ。彼らにはもっと深い闇を味わってもらわなくては」
カトレアは屋敷の小窓からわずかに見える王宮の尖塔を見つめながら、小さく息を吐く。その眼には、歪んだ決意の輝きが差し込んでいる。音もなく、形もなく、人心を腐らせる凶器として――彼女はまだまだ、その手を緩めるつもりなど微塵もなかった。