第8話 蠢く影①
王宮のなかでは、かつてないほど濃密な緊張が漂いはじめていた。廊下を行き交う役人や貴族たちは、ときおり互いを値踏みするような視線を投げ、何かを見透かそうとする。微妙な噂や密告が横行し、誰がいつどこで裏切るかわからない――そんな空気が、そこかしこでじっとりと滴っているようだった。
その中心にいるのは、王位継承をめぐって揺れる王族たち。中でもレオネルは、これまで順当に地位を受け継ぐはずだったが、最近の取り巻きの失墜や自身の発言力の衰えにより、立場が危うくなっていた。兄王子や叔父らは、この混乱を好機と見て、レオネルを押しのける形で権力を握ろうと暗躍しているらしい。もともと次男という微妙な立場ゆえに、生半可な支援では厳しいのだ。それでも、王宮内に隠れたレオネル支持派が根強くいたはずだったが、このごろは皆、声を上げることなく沈黙を貫いている。
ある夕方、レオネルの前に一人の宮廷顧問が訪れた。顧問の顔にはどこかうさん臭い笑みが張りつき、低く疲れた声で言葉を投げかける。
「殿下、こちらをご覧ください。これは、兄王子殿下の側近たちが練っている計画を示す書状です」
彼が差し出した紙には、レオネルの信頼筋を王宮から遠ざける案が綿密に記されている。少し前に失脚した取り巻きの名前も並べられ、さらに今後取り込もうとしている有力者の名まで書き添えられていた。もしこれが本当なら、兄王子が先手を打ち、レオネルの地位を徹底的に削ぎ落とそうとしているのは明らかだった。
「……どこで手に入れた?」
「はっきり申し上げられぬのが心苦しいのですが、私も命が惜しい身ゆえ、どうかご了承ください。ですが、殿下には今すぐ対策を講じていただきたい」
顧問はそう言って、まるで思わせぶりな態度を取りながら去っていく。レオネルは書状を握りしめながら苛立ちに息を吐く。身内であるはずの兄が、ここまで露骨に権力を奪いにくるのか、と疑いたくなるが、この書状を裏付ける噂は以前から囁かれていたのも事実だ。しかも、いつからか耳にしている「闇の力」が、これをさらに後押ししているような気配すら感じる。
そんな中、密かに動いているのはカトレアだった。公には身を潜め、屋敷で慎ましく暮らしているかのように見えるが、その裏で兄王子派、叔父派、さらには王家以外の有力貴族とさまざまに情報を取り交わしているのである。彼女はわざわざ自身の名を伏せ、別の人物を通じて接触するため、誰も彼女が黒幕とは気づけない。依頼を受けた者たちですら、その主がカトレアだとは知らないで動いている場合が多い。
「よくわからぬが、後ろ盾の貴族がおられるそうだ……とにかく、これを殿下に渡すようにと頼まれた」
「殿下に不利になる文書をまとめて欲しいと提案された……大きな金が動くという噂もある」
そんな声があちこちから聞こえてくるが、誰が糸を引いているのかは皆が首を傾げるだけ。闇に浮かぶ糸が複数張り巡らされ、王族たちの争いをどんどん加速させている。カトレアはそれを確実にコントロールしながら、レオネルの立場をじりじりと追い詰めているのだ。
ある日、兄王子の陣営では、レオネルと敵対する貴族たちが集まり、密談が行われていた。部屋の中は人払いをし、周囲に聞こえぬよう窓を閉じきっている。張り詰めた空気の中、一人の侯爵が口を開く。
「レオネル殿下の支持者はもはや数えるほどしかおりません。とはいえ、王家筋の一部はまだ彼を憐れんで味方しようとしている。そこを断つにはどうすればよいか……」
「簡単なことだ。彼が過去に関わった醜聞をさらに拡大し、表沙汰にしてしまえばよい。それも真偽を問わない形で広めるのだ。そうすれば、残りの支援者も尻込みするだろう」
悪意に満ちた発言が飛び交い、人々が頷く。彼らは自分の利になるなら、どんな手段も辞さない態度で、王子を地に落とす計画を練り上げているのだ。そこには、ある人物からもたらされたという「裏情報」が散りばめられていた。兄王子たちは、それを利用してレオネル陣営を一掃しようと意気込む。その裏情報こそが、カトレアが密かに流した誘導情報そのものだと誰も気づいていない。