第7話 追い込まれる日々①
朝の光が差し込み始めた王宮の回廊に、いつになく重苦しい気配が漂っていた。壁際では女官たちがひそひそ声を交わし、遠巻きにシエラの姿を見やっている。以前なら、彼女が通ると笑顔で挨拶していた者もいただろう。けれど今は、まるで疫病の源でも見るかのように敬遠する。顔を伏せたり、廊下の隅に身を寄せたりして、彼女と目を合わせぬよう気を遣うのが一目でわかった。
シエラは手に持った書類をきつく握りしめながら、一歩ずつ歩みを進める。かつては誇らしげに微笑みながら足取りも軽かったはずなのに、今や緊張でこわばった表情がそのまま足元に伝わる。ほんの数歩進むだけでも胸が苦しくなり、息が詰まるような感覚にとらわれていた。
「……どうせ、またあの方は言い訳をするんじゃない?」
「平民出の身分を利用して、殿下の同情を買っただけかもしれないわ」
低く抑えられた声音ではあっても、耳を塞いでも聞こえてくるかのような陰湿な囁き。それらがシエラの背に容赦なく突き刺さる。少し前から続いていた「慈善活動に対する不正疑惑」は、いまや彼女を追い込む最大の火種になっていた。寄付金や物資がどこかに流れているのではと、興味本位の人間たちが騒ぎ立て、一部の名士たちは公式に追及を始めている。結果、シエラが長らく信頼を置いていた慈善団体ですらも、彼女との関わりを避けようと動き出した。
「申し訳ありませんが、これ以上はご協力できかねます」
そう告げたのは、彼女が慕っていた団体の代表者だった。温和で柔らかな笑顔が印象的な年配の婦人が、明らかに態度を変えているのを見たとき、シエラは言葉を失った。彼女は慌てて「何か誤解がある」「私が不正を働くはずがない」と説明したが、代表者は目を伏せたまま頭を下げるだけで、説得に応じようとはしない。むしろこう続けたのだ。
「ここにいては、私たちの活動の正当性まで疑われてしまうのです。あなたにもお辛いでしょうが、当面は表舞台から退いていただくのが得策かと……」
その場にいた他のメンバーも無言で俯くばかり。シエラの必死の訴えに対して、誰一人として手を差し伸べなかった。まるで口を開けば自分も巻き添えを食らうとでも言わんばかりだ。彼らの態度を非難するのはたやすいが、それが今の王宮と貴族社会を取り巻く空気なのだと痛感させられる。
「そんな……わたしは、ただ皆さんと同じように貧しい人を救いたかっただけなのに……」
涙をこぼす寸前でこらえながら、シエラは団体の建物を後にした。その帰り道、風は冷たく吹き付け、人々が交わす噂が否応なく耳に入る。どこかで「シエラが金を横領した」「彼女の裏には凶悪な組織がいるらしい」などと根拠のない与太話まで聞こえてきた。たとえ否定しようと足を止めても、相手はその場から逃げるように立ち去るだけ。誰も話し合おうとはしない。
王宮に戻ってきたとき、シエラの足はふらつき、顔色はすっかり青ざめていた。ふと視界に入ったレオネルに救いを求めようと駆け寄るが、彼もまた険しい表情を浮かべて周囲の貴族から責め立てられているところだった。
「殿下、このままでは王家の信用に関わります。一度きっぱりと、あの娘との縁を切るべきでは?」
「そうだ。あの娘の疑惑が晴れぬ以上、殿下の立場も危険であることは自明かと」
「しかし、わたしは何度も言っているではないか……あれは濡れ衣だ……彼女は決して裏切るようなことはしない!」
レオネルの声は表情に似合わず小さく震えていた。必死にシエラを庇おうとしているが、誰一人として彼の言葉を信用しない。あまりに取り巻きの失墜や不審な事件が重なり、彼自身が政治力を大きく失ってしまったせいでもある。かつて王子としてのカリスマを誇っていたころなら、彼の一声で周囲も黙っただろう。しかし今は、むしろ貴族たちが彼を見限る口実にこの騒ぎを利用しているフシすら感じられる。
その光景を横目に、シエラの心は砕け散りそうになる。レオネルがこれほど苦境に立たされ、助けを呼びかけても聞き入れてもらえない姿を見たのは初めてだ。まるで二人とも、深い闇に落とされていく感覚。しばらく経つと、レオネルは何とか人垣を抜け出してシエラのもとへ来るが、その疲れ切った表情にはどこか挫折の色が見えていた。
「シエラ……大丈夫か。顔色が悪い」
「わたしは……大丈夫ではないけれど……殿下の方こそ、今にも倒れてしまいそう……」
二人は支え合うようにして廊下の片隅に身を寄せた。周囲は好奇の視線を隠しもしない。ひそひそ囁く声の中には「見苦しい」「王子様があの娘に振り回されている」といった辛辣な言葉さえ混ざる。それでもレオネルは弱々しく微笑み、彼女の手を握ろうとする。
「俺が必ず……どうにかする。だから、もう少しだけ耐えてくれ……」
「……はい。わたしは信じています」
シエラはそう答えながらも、自分自身が本当に信じきれるのか確信できなかった。レオネルの手は震えており、以前のように力強くはない。支えてくれる存在が彼にはいないのだ。振り返れば、通り過ぎる貴族や官僚が冷たい視線を投げかけ、見て見ぬふりをしている。壁の絵画が壮麗に飾られているだけに、その異様な空気はより際立って感じられた。
そんな二人の様子を、公爵家の一室から報告として聞き及んでいる人物がいた。カトレアは椅子に腰かけ、窓の外を見つめながら淡々と情報屋の言葉に耳を傾ける。そこには、シエラが慈善団体から事実上追放され、レオネルが必死に庇っても効果がないという報告が含まれている。
「なるほど。思ったより早く進行しているのね」
「はい、おかげさまで、どこからともなく噂が絶えません。あちらが何とか誤解を解こうとしても、周囲が取り合わずにひたすら疑惑を煽っている状況です」
カトレアはわずかに笑みを浮かべ、足を組み替えた。自分で直接行動を起こさなくても、貴族社会は勝手にシエラを排除しようとし、レオネルを切り離そうと動く。彼らの打算と恐怖が相まって、望む形で状況が転がっているのだ。
「このまま、じわじわと追い詰めればいい。彼女を抹殺するのは簡単だけど、まだあの顔から生気が失せるのは早いわ」
そう冷たく呟くと、情報屋は内心の恐怖を隠しきれず背筋を震わせた。カトレアが抱える執念の深さを、言葉の端々から感じ取っているからだ。公爵家の暗い地下にまで通じる恐ろしさを知る者にとっては、この微笑みがもっとも不気味に映る。彼女は相手をじわじわ痛めつける喜びを噛み締めながら、まだ満足などしていないのだ。