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第6話 深まる狂気①

 雨上がりの夕暮れ、王宮の裏門付近は普段より静かな気配に包まれていた。人通りもまばらで、遠くの兵士たちが交わすやり取りがかすかに聞こえるだけ。薄暗い曇天の下、ひっそりと一人の若い官吏が足早にそこを抜けようとしていた。名前はカストル。最近、シエラの慈善活動に関する書類を精査する任を負わされたばかりの下級官吏である。


 カストルは焦燥に駆られた面持ちで、周囲を気にしながら歩を進める。胸の奥には恐怖と迷いが混じっていた。少し前まで、彼はただ真面目に仕事をこなすだけの平凡な官吏だったが、上層部の命令でシエラを追及する係に回されてから事態が大きく変わってしまった。彼女に不利な証拠を見つけるためと称して、帳簿の不備を探し回り、一方で裏からの圧力に翻弄され続けている。誰が仕組んでいるのか見当もつかないが、薄暗い影のように脅しの言葉が届くようになっていた。


「……まるで、抜け出せない蜘蛛の巣だ」


 独りごちたカストルの声は(ふる)えている。まるで誰かに聞かれてはいけないとでも思うように、小さく、喉の奥にかすれるような音で。実際、数日前には彼のもとへ差出人不明の手紙が届いた。そこには「余計なことを嗅ぎ回るな」とだけ書かれており、まるで彼の行動をすべて把握しているかのような文面だった。さらに夕刻から夜にかけて通りを歩くと、どこからともなく視線を感じる。気のせいかもしれない。それでも、首筋を冷たい汗が伝うような不快感が消えなかった。


 カストルは職務上、シエラの財務書類や寄付先の現地調査を進めていたが、奇妙なことが多すぎると感じていた。何者かがわざとシエラの足元をすくうように書類を改ざんし、周囲に拡散させている節がある。一方で、真実を知る人物や、彼の調査に協力しようとした人々は次々と黙らされるか、姿を消している。まるで巨大な闇が動いているようだ。正義感や良心だけでは、立ち向かう手段も見つからない。


「こうしている場合じゃない……何とかしないと、きっと自分も……」


 彼が官吏として従事するのは王家への忠誠心からではあるが、今はそれより強い恐怖を覚えている。遠くでは、シエラが自らの潔白を訴え続けているというが、その声はもう()き消されつつある。レオネルも信頼を落とし、形だけの発言では誰も動かせなくなっている。そうなれば、いずれ自分にもさらなる圧力や危害が及ぶかもしれない。危惧どころではない、実際すでに異様な空気は彼の周囲を取り巻いていた。


 そんな思いに囚われたまま、カストルは裏門を出て細い路地へと足を踏み入れる。そこには誰の姿もないはずだった。ところが、ほんの数歩進んだところで妙な気配に気づいた。ぎしり、と靴底が濡れた石畳を踏む音が響くが、それとは別に息づかいのようなものがする。振り返ると、そこに黒衣の男が立っていた。顔を深くフードで隠し、その手には何か長い棒のようなものが握られている。


「だ、誰だ……」


 声を震わせて問いかけると、男は答えずに一歩近づく。その動作は冷ややかで、まるで獲物を狩る獣のよう。カストルは慌てて逃げようとするが、濡れた路面で足を滑らせ、無様に転倒してしまう。背中に嫌な衝撃が走り、息が詰まった。転んだ拍子に公文書の一部が路面へ散らばり、雨水を吸ってぐしゃりと音を立てる。


「や、やめろ……何の……なんのつもりだ……っ!」


 男は無言で近づくと、手にした棒を振り下ろした。カストルは悲鳴を上げる暇もなく、その衝撃で視界が一瞬白く染まる。すぐに後頭部を強打された痛みがどくどくと響き、世界がぐらぐらと揺れ始めた。どうにか体を捩って逃れようとするが、男は容赦なく追い打ちをかけ、棒を彼の腹部に叩き込む。生ぬるい吐息が口から洩れ、胃液が逆流しそうになる。


「やっ、やめ……ごほっ!」


 血の味が混ざった唾液が石畳に広がり、雨水に溶けて赤黒く流れる。カストルは必死に這いつくばるが、全身が(しび)れたように動かない。意識が遠のく中で、誰かの声が耳の奥に小さく響いた。それは男のものとも、別の誰かのものとも判別できないほど不明瞭な(ささや)きだったが、「黙れ」という言葉だけがはっきりと聞こえた気がする。次の瞬間、また激しい痛みが意識を砕くように襲いかかる。


 これがカトレアの直接の指示であるか否かは、カストルには知る(よし)もなかった。だが、間接的にせよ、彼女が裏で糸を引いている闇の一端に触れてしまったことだけは確かだ。何らかの方法で彼が得た情報が、彼女にとって「邪魔」になる可能性があった――ただそれだけの理由で、彼は今この路地で血を吐き、命の危機に瀕しているのだ。


 翌朝、王宮の人々は一人の若い官吏が路地で変わり果てた姿を発見されたという報に驚愕する。カストルは溝の水に浸かったまま、全身に殴打の痕跡を残し、既に息絶えていた。治安の良いはずの王都で、しかも王宮からほど近い場所で惨い事件が起きたことに、誰もが不気味な寒気を感じる。


「なんてことだ……あんな下級官吏が、なぜあのような……」

「しかも、書類が散乱していたという話だ。一体何を調べていたのか」


 広がる(ささや)きは混乱を極めた。中には「シエラの調査をしていた官吏じゃないか」とすぐ気づく者もいる。そこから「彼は彼女の不正の証拠を握っていたのか、だから狙われたのだろうか」といった憶測が飛び交い始める。あるいは逆に「彼女を(おとしい)れようとした闇の力があるのでは」と考える者もいた。いずれにせよ、確信に至る者はいないまま、王宮は疑心暗鬼の渦に包まれていく。


 シエラがこの事実を知ったのは、遺体発見の知らせが走り回った数時間後のこと。たまたま会話を交わした官吏から「まさかあなたに恨みを抱く者がやったのでは」と疑いの言葉を向けられ、愕然(がくぜん)として問いただすうちに、犠牲者が彼女の調査に関わっていたカストルだと判明したのだ。真実を知ると同時に、シエラの顔は見る見るうちに青ざめていく。


「そんな……わたしは何も……彼はわたしに厳しく当たっていたかもしれないけれど、死んでしまうなんて、そんな……」


 言葉がうわずり、レオネルが駆け寄って背を支える。周囲の視線は冷たく、あるいは探るようにシエラを見つめる。まるで「あなたのせいではないか」と突き付けるかのようだった。


「落ち着け、シエラ。これは……何者かの陰謀だ。おまえを疑う者がいるようだが、真実を明らかにしなければ……」


 レオネル自身も動揺を隠せない。続けざまに人が死んでいく。取り巻きの失墜やスキャンダル、それだけでは終わらず、ついに明確な犠牲者の死が起こった。しかも、遺体には明らかに暴行を受けた痕跡がある。これはただの事故でも自殺でもないかもしれない。それどころか、誰かが狙って彼を殺害した可能性が高い。にもかかわらず、王宮にはまるで対処できる気配がない。


「一体、誰がこんなことを……俺はどうして何もできずに……」


 苛立(いらだ)ちと恐怖に満ちたレオネルのつぶやきが、シエラの耳に痛々しく響く。彼女もまた、涙を流す余裕さえなく、ただ恐怖と絶望を味わっていた。否応なしに増していく周囲の疑念も、彼女を深く傷つける。平民から王子の心を得た「幸福」など、実は幻想にすぎないのではと思えてしまうほどに、現実はあまりに冷酷だった。

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