第1話 裂かれた縁
王宮の大広間は幾重もの灯火に照らされ、まるで昼間のように明るかった。磨き上げられた大理石の床には、華麗なドレスを纏った令嬢たちの裾が擦れ合う音がかすかに響き、色とりどりの衣装と宝石がゆらめくたび、天井のシャンデリアが虹色の光を反射している。かぐわしい香油の香りと甘い菓子の匂いが混ざり合い、鼻をくすぐる。宰相家の娘が奏でるハープの調べは優美でありながら、どこか人々の心を浮足立たせるような軽薄さを孕んでいた。
「いらしていたのですね、カトレア公爵令嬢。今宵もお美しい」
「ええ、ありがとうございます」
そう返事をしながらカトレアは笑みを浮かべたが、その瞳に宿る光は微かに濁っていた。彼女はこの夜会がいかに形式的で虚飾にまみれているかを理解していた。いつもならば、こうした催しの中心に立ち、まるで完璧な淑女の見本のように微笑みながら舞台を踏むところだろう。けれど今夜は何かが違う。胸の奥から薄暗い不安がじわじわと広がり、耳鳴りがするような嫌な予感が離れない。
大広間には貴族や王族だけでなく、噂好きの高官やその愛人までもが出入りし、酒宴に興じていた。彼らの笑声は晴れやかに聞こえるが、どこか嘲るような響きも含まれている。カップを傾ける手つき、さりげなく交わされる視線――全てが利害や思惑に満ちた動きであり、そこには真摯な祝福も敬愛も感じられない。それでも格式上、カトレアは誰かに挨拶を求められれば欠かさず言葉を返し、微笑まねばならなかった。
「カトレア様、本日は殿下とご一緒に踊られますの?」
「ええ、予定ではそうなっております」
その「予定」は形式的なものだったが、カトレアは自分が第二王子レオネルの婚約者として、この夜会の中心に立つのが当然だと信じていた。むろん、周囲もそう扱うだろうと考えていた。けれど、会場のあちこちで交わされる囁きは妙に刺々しく、不自然なほど彼女を避ける者もいる。そればかりか、レオネル自身がどこか他人行儀な態度をとり始めてから、カトレアの胸中には消えない不審が芽生えていた。
そして、広間の奥からレオネルが姿を現すと、人々は一斉に視線を向け、軽やかな拍手が巻き起こる。レオネルの腕には、見慣れぬ少女の姿があった。色味の控えめなドレスを纏い、緊張を帯びた面持ちをしてはいるが、その手はレオネルの腕をしっかりと掴んでいる。その少女こそ平民出身のシエラ。巷では「王子に見初められた清廉な娘」という評判が流れていたが、こうして王宮の夜会に連れ立ってくるとは聞かされていない。カトレアは眉がひそかに歪むのを、自分自身でさえ制御できなかった。
「皆さま、今宵はお集まりいただき誠に感謝いたします」
レオネルの声が響き渡る。静まり返った人々の中で、カトレアは息を詰めていた。レオネルの表情はどこか冷たく、かつ高揚感に満ちているように見える。まるで、この場にいる全員を支配しているかのような圧を感じさせた。彼がそこで初めてカトレアの名を口にし、彼女へと視線を向けた瞬間、広間の空気が凍ったように思えた。
「私、レオネルは――本日をもってカトレア公爵令嬢との婚約を解消し、新たにシエラを正式な伴侶として迎える所存です」
言葉を聞いた者たちが一瞬息を呑み、その後、信じられないというざわめきが湧き起こる。カトレアの耳には血が逆流するような音が響き、胸が強く圧迫された。深呼吸すらままならないほどの衝撃。近くにいた令嬢たちが口元を押さえながら彼女を横目で見やり、遠巻きに囁き合うのが聞こえる。
「まさか……婚約破棄?」
「平民上がりの娘を正式に?」
「まあ、でも……カトレア様にも問題があると聞いたことがあるわ」
カトレアの視線はレオネルから離せず、歯を食いしばっていた。言葉が、出ない。理由を問い質したいのに、喉がかすれて声にならない。そのとき、レオネルはあたかも当然であるかのように続ける。
「カトレアがどれほど傲慢で冷酷な行いを繰り返してきたか、皆さまもご存じでしょう。私はそのような人物と婚約を続けるわけにはいかないのです。彼女には相応の罰が下るべきだと考えています」
冷酷という言葉が広間の静寂を切り裂くように響いた。傍らのシエラは不安げに唇を噛んで俯いているものの、レオネルから腕を離そうとはしない。むしろ、レオネルの腕に縋りつく姿が、周囲には「守られる清らかな娘」を連想させるのか、憐れむような視線がシエラへ向けられていた。結果、カトレアへの嫌悪と軽蔑がさらに増幅される。
周囲にいた貴族たちは、まるで見世物でも見るような好奇心と不快感を混ぜ合わせて、カトレアを品定めするように眺めている。誰も止めようとしない。ある者は驚きのあまり何も言えず、ある者はこの事態を面白がり、ある者はカトレアに対する日頃の嫉妬を晴らすかのように小馬鹿にした視線を送ってくる。
「そりゃあ、あの方には思い当たる節があるわ」
「高慢ちきだって噂は本当だったのね」
「平民の娘と比べても、もはや勝ち目はないわ」
背後で囁かれる声がカトレアの耳に突き刺さる。まるで剣の刃が四方八方から突き出され、彼女を刻みつけているように感じた。耐えられず、一歩足を引こうとしたとき、軽い振動が身体に伝わる。誰かが意図的に肩を当ててきたのだ。謝罪の言葉はない。むしろ嘲笑が聞こえてくる。
「……なぜ……」
カトレアがやっと搾り出した声は震えていた。だが、レオネルは「理由」をことさらに強調するように明瞭な声で応じる。
「なぜ? それは……簡単なことだ。おまえには他人への思いやりもなければ、真心もない。ただ名門の令嬢という立場を利用して、周囲を利用してきただけではないか。そんな者を妻として迎えるわけにはいかない」
彼女の手からワイングラスが滑り落ち、床に当たって砕け散る。赤い液体が飛び散り、まるで血のように見えた。視線をそらしていれば、ここが悪夢だと言い聞かせられたかもしれない。しかし、これが現実だということを否応なく思い知らされる。それまで誇りにしてきた存在感、地位、未来――すべてが足元で砕けるように感じられた。
「……殿下、私には……」
言いかけた言葉は、誰かの冷たい笑いにかき消される。近くにいた貴族の夫人が鼻で笑いながら、わざとらしくため息をつく。まるで「そんな言い訳、聞きたくない」とでも言いたげな態度。会場にいるほとんどの者が、既にカトレアを切り捨てる準備ができているようだった。
その中心で、レオネルとシエラは寄り添い合い、二人だけの固い結びつきを誇示している。レオネルがシエラの手を引き、満足げに微笑む姿に、腹の底から何か暗い感情が湧き上がった。それは悲しみか、怒りか、あるいはもっと冷たい何か――自分でも判別がつかない。ただ、心の奥を黒く染めるような感覚が確かにある。
「おまえとの婚約は、今この場をもって破棄する。公爵家の顔を潰すことになろうが、構わない。私はシエラと新たに人生を歩む」
レオネルの宣言はあまりにも容赦なく、観衆はまたどよめいた。カトレアの父もこの場にいるはずだったが、今はどこにいるのか、その姿は見当たらない。もしかすると、この破棄を黙認しているのかもしれない。そう思うと、余計に身体から力が抜けていく。
足元のガラス片が微かにきらりと光る。その破片を見つめながら、カトレアは口を開こうとして、言葉が出てこない。周囲の冷たい視線が身体を押さえつけ、思考を妨げる。嘲笑、蔑視、侮蔑――ありとあらゆる負の感情が彼女の周りにうごめき、足元をすくっていく。
「……ああ、なんて醜態。公爵令嬢がこんな目に遭うなんて」
「もう終わりね。あの方も、いずれ……」
聞きたくもない囁きが耳を塞いでも入り込んでくる。耳がじんじんと痛む。すべてが崩れ去る瞬間に、カトレアはようやく一つの意識に行き着いた。これほどまでに侮辱され、踏みにじられて終わるはずがない。何かが胸の底で暗く燃え上がる。声にならないまま、瞳だけが危うい光を帯びている。
レオネルにとって、シエラにとって、そしてこの場の誰にとっても、カトレアは今や「切り捨てられた存在」なのだろう。ならば、自分が受けたこの屈辱と絶望を、どうにかして形にして返さなければ――その思いがほんの小さな火種として呼吸を始める。
「……私を……こんな目に合わせるなんて……」
その呟きはあまりにも小さく、周囲には届かなかった。否、誰も気づこうとしなかったのかもしれない。すでにカトレアは人々の視界から外された「不要なもの」に成り下がっているのだ。彼女の震える声よりも、レオネルとシエラの新しい門出を祝福する喝采の方が、はるかに高らかに聞こえていた。
膝がわずかに崩れ、床に手をつく。頬に触れたのは誰かの手のひらではなく、倒されたワイングラスの残り汁だった。冷たい液体が肌を伝い、赤黒い汚濁のように見える。まるで自分自身が底なしの闇に沈んでいくかのような錯覚を覚える。あまりに暗澹とした心地に、胸が苦しくなる。
どれほど時間が経ったのか、拍手と喧騒が渦巻く中でカトレアは立ち上がることができずにいた。周囲が輪のように広がり、孤立した彼女を中心にして冷笑と囁きが絶えない。助けを求めることすらできないまま、彼女の顔にワインを浴びせかける者すら現れたが、誰も咎めようともしなかった。
「どうぞ、もうお引き取りになったらいかが?」
そう言い放った男の声に、カトレアは顔を上げた。男はせせら笑いながら高価そうなハンカチを鼻先に当てている。さも「穢れたもの」でも見るかのように嫌悪の表情を浮かべて。
彼女は何とか立ち上がろうとするが、足が震え、まるで自分の身体ではないかのように思えた。鞭のように浴びせられる蔑視の中、奇妙なほど冷静な意識の一端が、ここで決定的な断絶が生じたことを悟っている。かつての地位も、威光も、誇りも、すべてが剝ぎ取られた。残るのは血のように赤い液を浴びたままの身体と、どうしようもない虚無感だけ。
「おめでとうございます、殿下……」
声がかすれて聞こえるか聞こえないかの大きさで、カトレアはそう呟いた。それは祝福の言葉というより、もはや吐き捨てるような響きに近い。彼女はこの屈辱が永遠に刻まれるだろうと感じている。人生の晴れ舞台となるはずの夜会の壇上で、自分は玩具のように放り出され、笑いものにされた。
凍りついた手足を引きずるように、大広間から抜け出すと、視界の端にレオネルとシエラが笑みを交わす姿が映った。そのとき、心臓を握り潰されるような痛みが走り、何かが弾けるように胸を蝕む。言葉にならない怒りと憎しみ、そして裏切られた痛みが混ざり合い、錆びた刃のように擦れあっている。
彼女はふと、ドレスの袖に付着した赤い染みを見つめた。これが単なるワインか血か、もうどちらでも構わない。大切なのは、この屈辱が自分の身体を染めているという事実だけだ。足元に散らばる砕けたガラス片のように、自分の未来も粉々に砕かれたのだと痛感しながら、嗤うようにもつれる唇を噛みしめた。
こうして始まった夜会は、カトレアにとってまさしく破滅の宣告だった。しかし、その夜の闇が深まるほど、彼女の内面には新たな炎が生まれる。それは誰にも気づかれず、音も立てずに燃え広がりつつあった。やがて取り返しのつかない炎へと育っていくのだと、当のカトレア自身さえまだ自覚していない。彼女が大広間を後にしたとき、華やかな音楽と喧騒の背後で、人々は誰もが嘲笑を浮かべていた。それは全員の同意による屈辱の儀式であり、カトレアが完全に排斥された瞬間の象徴でもある。
遠ざかる拍手と歓声が、何重にも重なって虚ろに聞こえる。その冷たく祝福を装う音は、彼女にとって屈辱の合図でしかなかった。王宮の廊下に出ると、外から吹き込む夜風が頬を打つ。けれど、その冷たさが妙に心地良い。怒りと悲しみ、そして荒涼たる欠落感が混ざり、底知れぬ闇がカトレアの心を蝕み始めていた。
「……一体、これからどうすれば……」
呟いても答える者はない。誰もカトレアの後を追わず、彼女の問いかけを聞く耳など持っていない。この世に独りで取り残されたような感覚。だが、瞳の奥にわずかに宿り始めた光は、ただの諦めから生まれるものではなかった。二度とここまで踏みにじられないために、そしてこの屈辱を晴らすために何をすべきか――その答えを探し始めるかのように、カトレアの唇は苦々しく震えた。
夜会の狂騒がまだ遠くで続いている。その笑い声も、祝福の拍手も、カトレアには毒のように胸を抉る音にしか聞こえない。すべてを失ったと思った刹那、彼女の中には徐々に形の見え始めた感情があった。それは復讐と呼ぶにはまだ幼く、しかし静かに燃える怒りの火種。今宵、王宮で咲き誇っていた偽りの祝宴は、カトレアに小さな種を植えつけたのだ。その種がどのように育ち、やがて何を巻き起こすのか――誰も予測していなかった。
こうして、華やかな夜会は幕を下ろす。だが、その閉幕が示すのはカトレアの立場の終焉と、これから始まる暗い時間の始動だった。凍てつくような沈黙に支配された廊下を歩きながら、カトレアの耳にはまだ、レオネルとシエラの笑顔を取り巻く拍手の音がこびりついて離れなかった。