王太子の空席は__を育む
「カメリア・ロドニー侯爵令嬢、不義密通により、婚約破棄を申し渡す!」
ざわめきがが広がる。さざなみのようなそれに頭が真っ白になりかけた時、私は見た。隣にいつの間にか立っていた彼の唇が何かに挑む様に横に引かれたのを。
しんしんと雪が降っている。ここはイシュタニア王国の王太子執務室。そこで、私は想い人と二人きり、ひたすら紙にペンを走らせる音が続く。間に空席の王太子の机を挟んで。
居るべき席に婚約者である第一王子の姿はない。これはいつものことだ。
私、カメリア・ロドニーは、頭が空っぽの第一王子を補佐させるために陛下に選ばれた婚約者だ。そこそこ価値のあるはずの侯爵令嬢という地位も、陛下にされたお願いを断れないという損でしかないと思う。
そして補佐官という犠牲者がもう一人。空席を挟んで向こう側で書類を捌く人物を見やる。伏せた目、サラサラとペン走らせる骨ばった手をじっくりと眺めてしまう。セドリック殿下に瓜二つな姿。それでいて髪の色だけが違うと言われている彼の姿を。
黒髪に不思議な色に輝く青い瞳を持つ彼は、クロイツ・シュトランド公爵令息。私の秘めた恋の相手だ。この想いは告げることはないし、実ることもない。何故ならば、私と彼が共に国の犠牲者だから。
私達は、第一王子であるセドリック殿下のために選ばれ彼を支える役目を仰せつかっている。それこそ、どんな手を使っても。そう、どんな手段__
たとえそれが、彼を傀儡の王太子に、将来的には王にするということでも。
幼い第二王子殿下を病で亡くし、難産だったために不妊になってしまった王妃殿下は狂ってしまわれた。第一王子、セドリック殿下を盲目に溺愛し、何でも言うことを聞く様になってしまったのだ。
このままではセドリック殿下はまともに育たない。
王妃殿下を愛していた王は悩んだという。陛下は国を一番に愛されている。しかし、王妃様のことも心の底から愛していらっしゃるのだ。このまま、セドリック殿下への愛を止めてしまえば、王妃様は狂ってしまう。そうお考えになったらしい。そして、悔しいことに、私の目から見てもそうなのだから、きっとそういうことなのだろう。
しかし、その陛下がした決断によって、私は5歳の頃から英才教育を施され、血の滲むような努力を求められた。芸は身を助けると言うけれども、私はむしろ苦しみが増すと思う。一つ覚えれば次を、三つ覚えれば十を期待される。たとえ仮に期待された分だけ覚えたとしても、更に上を目指し続けることを求められる。
そんな中で、頼りにならない婚約者を差し置いて、彼に恋をしてしまっても仕方がないと思うの。
「カメリア嬢、休憩にしませんか?」
物思いに耽って亜麻色の髪をいじっていると、いつの間にかペンの音が止んでいた。向こうからクロイツ様が少し目を細めて微笑みかけている。
穏やかなこの時間が本当に愛しい。
とぽとぽと紅茶をゆったりと淹れる音が鳴る。静かな執務室に寄り添う様な音が落ちて。どうぞ、と差し出される優しさを今日も受け取るのだ。
「ありがとうございます」
湯気の立ち上るカップはじんわりと疲れた身体と心を温めてくれる。
彼は、この部屋でよく、メイドを呼ばず、手ずから紅茶を注いでくれる。それは、この部屋に機密文書が多いからかもしれないけれど、間違いなく私にとって特別な時間なのだ。
特にこれといった会話もない時間、話すとしても当たり障りのないことをぽつりぽつりと。踏み込めないのは私達が、誰よりも自分たちの役割と置かれた立場を理解しているから。
クロイツ様は、この状況をどのように考えていらっしゃるのだろう。彼は王位継承権第3位を持っている。セドリック様、王弟殿下に次いでの地位だ。
彼がその気になりさえすれば、王位簒奪すら可能な地位。まして、仕事をしているのはクロイツ様。セドリック殿下はふらりとやって来て、どうしても必要な印を押すだけ。
考えても意味のないことよね。彼は王国を誰よりも愛しているのだわ。きっと。私なんかよりもずっと。私は、セドリック殿下の婚約者でいることで、クロイツ様と同じ重みを背負える。と自分を騙すことでこの役目を虚しく思いつつもそれに縋るために甘んじているのですもの。
「何かお悩みですか?」
ふと気づけば、いつの間にか机から立ちあがって傍に来ていたクロイツ様に覗き込まれていた。
「貴女の憂いを晴らせるわけではないでしょうが、私でよければ話を聞くくらいは出来ますので」
その優しさが嬉しくて苦しいんです__なんて、言ったらどんな顔をするのかしら。
ゆっくりと首を振った。
「お気持ちだけ。ふふ。ありがとうございます、クロイツ様」
彼が何か言いたげに口を開き、躊躇う様に閉じ、また開いた時だった__
「寒い! 帰ったぞ。なんだ二人とも茶なんぞ飲んで、さぼりか?」
ドタバタと音がして、セドリック殿下が入ってくる。外に出ていたらしく、鼻の頭が真っ赤だ。
全く良いご身分で。無言で処理済みの書類を突き出すと彼は顔を顰めた。
「この寒い中帰ってきたのに労ってもくれないのか。なんて冷たい。お前は瞳の色だけじゃなく性格まで氷のようだな」
「セドリック殿下、ご令嬢にその様に言ってはなりませんよ」
やんわりと非難したクロイツ様にうるさげに手を振ることで拒否して彼は続ける。
「全く、ココナは居るだけで暖かくなると言うのに」
ココナ様、とは何方様でしょうか。ここしばらく忙殺されていたので、セドリック殿下の情報は全く入って来ていない。でも、いつもだったら何か問題が起きる前にクロイツ様が手を打っているはずなのだけれども……。
内心で首を傾げているうちにもセドリック様の熱っぽい声が室内に響いた。
「ココナは温かなココアみたいな髪の色をしているんだ。瞳はチョコレートみたいに甘そうで、ふわふわした髪はいい匂いがする。何より、優しくて笑顔が癒される。まるで妖精の様な女の子なんだ」
クロイツ様を見れば、いつになく冷めた目でセドリック殿下を見ている。クロイツ様は、この件を知っていらしたのかしら。知っていて、放っておいたの? 一体、何のために?
「セドリック殿下、ご婚約者様の前で、別の女性の話をされるのは__」
クロイツ様が静止すると、セドリック殿下はこちらに面倒臭そうに目をやった。なんだ、お前そういえば婚約者だったか。みたいな目だったと思う。
彼はしばらく不本意そうにしていたけれども、不意にくくっと笑った。
「そういえば、まだ婚約者だったな」
「まだ?」
今度こそ私が首を傾げると、彼は分からなくていいと肩をすくめて、出てくる、と告げた。
「せっかくいい気分で戻って来たのに、お前たちの顔をみたら台無しだ。印が必要な書類はまとめて置いておけ」
くるりと踵を返し、バタンと扉が閉まる。
思わず呆然と見送ってしまう。反射で引き留めかけた手は空に伸びたまま__
「4ヶ月だそうです」
隣から静かな声が聞こえて降り仰げば、クロイツ様がこちらの様子を感情の読めない目で伺っていた。
「お相手はココナ・ウッド男爵令嬢。元は商家のご令嬢だそうで、王都に邸宅を持っていたことから知り合い、逢瀬を重ねているのだとか」
どう反応していいのか分からず、困惑して見返すと彼は瞳を揺らした。
「知っていて黙っていました。私を軽蔑しますか?」
一瞬言われたことが理解できず、けれど反射的に首を振っていた。
「いいえ」
今まで沈黙していた彼が、セドリック殿下に対し見限る様な行動を起こした。
「貴方がそうしたのならば、それだけの意味があるということ。そのくらいはわかりますわ。もう長いこと、私達は戦友だったではありませんか」
私が笑いかけると、彼はびっくりしたように目を見開いて、ついで、何かを堪えるかの様に目を伏せた。そうしてぎこちなく笑った。
「貴女にはきっとこれからつらいことが起こります。全て私のせいにして構いません。けれど、私は貴女を裏切りません。それだけを知っていて」
ひとつ、私の秘密をお話しします。
そう言って彼は指を一本、唇の前で立ててみせた。
「カメリア・ロドニー侯爵令嬢、不義密通により、婚約破棄を申し渡す!」
今日は新年を祝う夜会。王妃殿下は、体調不良で欠席されていた。挨拶にと中央に進み出たセドリック殿下は、開幕早々声を張り上げた。
腕にはふわふわとしたピンクのドレスのご令嬢。件のココナ・ウッド男爵令嬢だろう。小柄で小動物を思わせる姿は確かに庇護欲をそそる。
対して、婚約破棄を叫ばれている私は、亜麻色の髪をきっちりと結い上げ、瞳は氷の色に近いブルー。きちんと顎を引き姿勢を保つのは王太子妃教育の賜物とはいえ、このような場面では旗色が悪い。
けれど、私は、自分でもびっくりするほど落ち着いていた。あの日、セドリック殿下の不義を知った日に、
__貴女の瞳の先を私は知っています。
クロイツ様は言った。
何が起こるか分からなかったけれど、クロイツ様は何かをしようとしている。彼を信じよう。そして、何が起こっても応援したいと思ったのだ。
今は慌てる局面ではないはず。
「理由をお聞かせいただけますか? 不義とはなんのことでしょう」
冷静に返すと、セドリック殿下はニヤリと笑った。
「惚ける気か。カメリア・ロドニー侯爵令嬢はクロイツ・シュトランド公爵令息と私と言う婚約者がありながら何度も二人きりで会っていた。これは事実である! 不義密通だ!」
言い逃れは出来ないだろう。と言わんばかりにどうだ、と胸をはる。
これはどう答えるべきか。王家の恥を出さず、批判をせず、王太子執務室で執務を取っていたということを伏せて、クロイツ様と一緒に居た理由を言えるだろうか? 私が思わず言葉に詰まると、セドリック殿下は勝ち誇ったかの様な笑みを浮かべた。
「陛下。発言を許可頂きたい」
気づけば、私の斜め前にはクロイツ様が立っていた。庇う様に、寄り添う様に、けれど近すぎるということもなく。彼は強い目をして王を真っ直ぐ見据えていた。
「許そう。クロイツよ。そなたには言いたいことがあるはずだ。それを聞こう。皆も聴いてほしい」
陛下は、それを受け止めて、一瞬、満足げに笑った様に見えた。すぐに表情を消しておしまいになったけれども。
「ありがたく」
クロイツ様が進み出る。
「セドリック殿下がおっしゃった、私とカメリア嬢が同じ部屋にいたということは否定致しません」
周りからどよめきがあがる。ひそひそ、ざわざわと広がっていくそれに構わず、彼は続けた。
「しかし、それには理由があります。その場所は王太子執務室で、しかるべき方がその場におられず、私達は執務を行なっていたのです。証言は宰相閣下と宰相補佐官殿、執務室周辺の使用人にも確認して頂ければと思います。部屋が特殊なため、下手に人を入れることが出来ない。それはお分かりいただけましょう」
別の意味でざわめきが広がっていく。
「言いがかりだっ。書類には王太子の印が押してあっただろう。あれを裁いたのは私だ!」
セドリック様が顔を真っ赤にして反論しているけれども……
「私は、皆様に知ってほしいことがあります。この国が、何を犠牲に成り立っていたのか。そして、今なお、何を犠牲にしようとしているのか」
陛下。と彼は呼びかけた。
「今再びの許可を。全てを詳らかに白日の元に晒す許しを」
「よい許す」
重々しく陛下が頷かれると、その場は緊張に支配された。人々は静まり返り、物音ひとつ聞こえてこない。クロイツ様の声が静寂を切り裂く。
「王太子は次代の王となります。皆様もよくご存知のはず。しかし、現在、セドリック殿下の仕事は私とカメリア嬢で全て行なっております。このままでは、私達は、傀儡の王を頂点に戴く国民になるのです。私はそれを変えたい。今日私は__」
クロイツ様が手に爪が食い込んで白くなるほど握りしめるのが見えた。
「私は、頂きたいものがありまして、参上いたしました」
ほう、と陛下が面白そうに笑う。セドリック殿下は王の近衛兵にやんわりと留められてこちらに向かってこない様にさせられていた。
ああ、と陛下はぽんと手を打った。
「セドリック、その令嬢と婚約するのか?」
唐突に父王に話しかけられて、セドリック殿下はキョトンとしたけれども、喜色に目を輝かせた。
「はい! 父上。ココナは本当に素晴らしい女性で__」
「しかし、婚約破棄か……。解消では駄目か?」
ココナと結婚できるならどちらでもいい。と言わんばかりにセドリック殿下は婚約解消でも構わないと言った。
「カメリア嬢、納得はいかないだろう。しかし婚約解消を受け入れてはくれないだろうか」
明らかにあちらに非があるのに、説明もなく婚約の解消。しかし、陛下の目を見れば信じろ、と言わんばかりに深い色の眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめていた。
侯爵である父の方を探しみれば頷いている。ならば__
「わかりました」
「よいよい。で、なんであったかな。クロイツよ」
改めて問おう。と陛下は言った。
クロイツ様は目だけで会釈したように見えた。
「__はい。私は、カメリア嬢を、この歪んだ王太子の婚約者から解放したかった」
どうやら、私の出番はなかったようですが、苦笑してみせる。
「で、あるならば、カメリア嬢にこの場で婚約を申し込む許可を頂きたい」
私は、思わず息を呑んだ。陛下は頷く。
カメリア嬢、と呼びかけられてそちらを見れば、クロイツ様は流れる様に膝を折った。
「私は、貴女をずっと解放したかった。国を思い、憂い、強くあろうとする貴女に自由でいて欲しいと願っていました。けれど、そんな高潔な貴女をどうして慕わずにいられましょうか。どうか、この手を取って欲しい。今度は貴女を私が支えたいのです」
ここは公の場であるし、クロイツ様の言葉も直接的なものではなかった。けれど、その瞳を見てしまったら、もう駄目だった。
彼は、今、感情を隠していなかった。けぶる様な熱を孕み、嫉妬、憧憬、切望、その全てが混じり合っている瞳だった。
彼の中にこれほどの熱量があったなんて驚きしかない。けれど、その鳥肌が立つほどの感情が嬉しかったから、私はその手を取った。
「私でよろしければ」
微笑めば、そっと拍手が広がる。
一番初めに手を鳴らしたのは陛下だった。彼は音の波が収まってくるとパン、パン、と手を打って注目を集めた。
「王位継承権第一位のセドリックは男爵令嬢と婚約した。対して、王位継承権第三位のクロイツは侯爵令嬢と婚約した。しかも、クロイツの婚約した令嬢は、今までセドリックを支えていた、王太子妃教育を終了したカメリア・ロドニー侯爵令嬢である。本日、今ここを持って__王太子の交代を発表する」
視界の端で、どうして、とセドリック殿下が顔を歪めるのが見えたけれども、それには陛下は愛する人と幸せに。と声をかけるに留めた。
会場は再びの歓声、先ほどよりずっと大きな拍手に包まれていた。もはや、この王太子交代劇が陛下の意図でもあるのだと皆わかったのだろう。
「私は、イシュタニア王国を何よりも愛している。より良い発展を願う」
陛下が、そう締め括ったのが印象的だった。
王宮の庭園を陛下と王妃殿下が散策している。セドリック殿下は男爵家に婿入りするそうだ。王妃様は落ち込んでいらしたようだけれども、陛下がセドリック殿下は愛を貫いたのだから素晴らしいことなのだ、応援してやらなければな、と言って寄り添うことで、思ったよりは前向きに捉えられているらしい。
そして、私はそれを王太子執務室の窓から眺めている。隣には寄り添う様に王太子となったクロイツ様がいる。今は、執務の休憩時間だ。
知っていますか? 不意にいたずらめいたように声をひそめてクロイツ様が耳元で囁く。
「王家の特有の瞳を持つものには、一人の女性を深く愛するものが出るそうなのですよ」
彼が手で示す陛下もまた、王家特有の輝く青い瞳を持っている。そして、
「貴方も?」
耳元で話されるとくすぐったい。くすくす笑いながら恥ずかしさに頬を染めて少し睨むと彼は微笑んだ。
「勿論です」
ここで、と王太子の席を指す。
「あの席を挟んで私が育てていたものを、貴女は知らないでしょう? 国を想うことも、誰かを妬むことも、誰かを助けたいと思うことも、全てあの席を睨みながら学んだことです」
私の髪を一筋すくって彼は神聖なものに触れるかの様に口付けた。
「少々煩わしいかもしれませんが、こんなにも育ってしまったのです。どうか、私の想いを捨てないでくださいね。貴女を誰よりも近くで支えたい__」
彼の言葉の表現はどちらかといえば婉曲なのに、心が撫でられたかの様にざわつく。
私の顔は一気に熱くなり、手で顔を覆った。
「あの席を見て私も育てておりましたもの。貴方への苦しいくらいの恋心を」
ちょっとはやり返せただろうか。手の隙間からちらっと伺うと、彼は満たされたかの様に幸せそうに微笑んでいた。見る人を一発で魅了してしまうかのようなその笑みは心臓に悪い。
「もちろん、知ってますよ」
__ずっと、ずっと貴女だけを見ていましたから。
本当にずるい。私だって、貴方を見ていたのに。でも、これからも、あなたの隣で歩む権利を与えてくれたから、私は、私達は空席を挟んで育んだ愛を育てて生きていく。
__ずっと、ずっとこの国と共に。
スランプ? 書いたものが悪いか全くわからない状態に陥っております。
裏設定的に、陛下はまともに育つことのなかった子の面影をクロイツに見ており、もうひとりの息子の様に思っていると一応設定してあります。この物語の裏では、二人が暗躍しております。