1.世界が終わった日
昔々、まだ魔女狩りが強行されていた混沌の時代。
心優しい氷の魔女がおりました。
ですが、氷の魔女が持つ力はあまりにも強すぎて
優しく接しようとしただけなのに
周りのものがどんどん凍ってしまいます。
やがて彼女は、外界の全てから関わりを絶って
誰も知らない場所で深い眠りについたのです。
『そんなのかわいそう……』
『そうね……あの子が眠りについてからもう800年、
いつまで1人でいるつもりなのかしらね……』
『?』
まだ母が生きていた頃、眠れない私を寝かしつける為に
母がよく読んでくれていた絵本があった。
『凍り姫のシルヴァ』
友達も作れず、世界も呪えず……人一倍優しくて冷たい魔女の物語。
物語は何度も聞いたからよく覚えている。
母がその話をする度に悲しそうな顔をしていたのが
より一層頭から離れない原因だと思う。
魔女は長命だ。 魔力を持って生まれた影響で老いが遅く
500年……者によっては2000年近く生きる。
そんな長い時間、孤独しか味わえるものが無いと言うのは
どう言う感覚なんだろう……
薬草採取 魔女見習いにとって誰もが通過するものだけど
数百年前を境に魔物と呼ばれる
奇妙な生物が世界中に出没するようになってからは
かなり危険度が増したと聞く。
今では冒険者……各地で依頼を引き受けては
魔物なんかと戦う人たちを魔女学園側が雇って
採取の護衛をさせるのが一般的になっている。
今日のお題は “クチヒゲソウ”
つけ髭みたいな形をした黒い花を咲かせる薬草だ。
初級塗り薬を作るのに必要な素材の1つで
採取難易度は非常に低めで、森ならどこでも生えている。
「各自、クチヒゲソウを100本持ってくること」
「「「はーい!!」」」
炎を得意とする魔女 スカーレット先生の指示を受けて
私を含めた15人の見習いが返事をした。
「それと、サン! お前は “太陽の魔法” を使うな」
「うぇ?! な、何で?!」
「何でもだ! お前はその魔法の重要性・危険性を何も考えずに
ポンポン使うだろ。 魔法に頼り過ぎるな!
魔法は便利だが、安全なものでは無い!」
「うぅ……またそれ?」
いじける私の前に、スカーレット先生が近づいて来た。
そして頭に手を置くと優しく撫でてくれた。
「サン……頼む、聞き分けてくれ。
私は恩師であるお前の母 フレア からお前を託された身だ。
だからこそ私にはお前を守り育てる義務がある。
……お前は必ず、強大な力を持った魔女へと成長するだろう。
だからこそ、その力を制御し切れない内は
監督者がいる場合のみ魔法を使うようにするんだ。
良いね」
「…………」
少し不満はあったものの、私は頷いて返事をした。
「51……52……まだ半分あるの?」
開始から2時間が経過した。
成績優秀な魔女見習いは既に他の素材を集めている。
「サン〜そっち何本集まったぁ?」
私の隣でクチヒゲソウを集めている緑髪の魔女見習いは、
風の魔法を使う魔女見習い テンポ だ。
テンポは鈍臭いけど総合的な成績は私より上だ。
見た感じ集めたクチヒゲソウもかなり上質なものが多い。
「まだ半分……」
「うへぇ……お互いやばいねぇ。
わたし40〜」
いくら見つけやすい薬草って言っても
群生している訳じゃ無いので探すのに時間がかかる。
何より、今はまだ花を咲かせる時期じゃないので中々難しい。
「53……あれ? 間違えちゃった」
私はこの時、クチヒゲソウと間違えて
すぐ隣に生えていた植物を抜き取ってしまった。
……そして、これが私の人生を大きく変えてしまうとは
誰も想像できなかっただろう。
その植物を引っこ抜いた瞬間、足元が光りだして
見た事も無い程高度な魔法陣が出現した。
「……え?」
突然、奇妙な浮遊感が身体を包み込んで来て
紫色に光る魔法陣から何かが流れ込んでくる。
本能的に何かヤバいと悟った私は、テンポの方へ腕を伸ばした。
テンポの方も何か嫌な予感でも肌で感じ取っていたのか
血相を変えて私の方へ手を伸ばしていた……だけど、
判断が一瞬遅かった。
視界が一瞬で切り替わり、私は一面雪しか無い
……吹雪の世界にいた。
僅かに見て取れる視界の範囲だけでもかなり高低差がある。
私はすぐに悟った。
山だ。 雪山に私は立っているのだ。
「うぅぁっ……?! 痛いっ!!!」
遅れてくるように寒波が幼い私の身体を襲った。
寒い……そんな感情を通り越した度が過ぎる程の寒波は
痛覚へのダメージとして私の芯をズタボロにしていく。
(何……?! ここ何処なの?
肺が痛い……全身が痛い……息が……苦し)
気圧の変化によるダメージによって、
10歳の少女は呆気なく行動不能になってしまう。
内臓をやられたのか、雪に倒れた私の口からは
ゆっくりと赤黒いものが滲み出てくる。
口が鉄臭くなり、鼻奥から不快な匂いに支配されていく中
私の前で大きな足音が止まったのを身体が感じ取った。
(なに……?)
僅かに動く目で前方を見つめる。
獣の足みたいなものが見える。 魔物だ。
(はは……ダメだ。
何か分からないけど、これ多分 “晶臓” がやられてる。
魔力が使えない……)
気圧差によるダメージで、肺をはじめとした複数の臓器と
魔力を司る “晶臓” がぐちゃぐちゃになっていた。
鼻と口から血を吹きながら頭を何とか動かして
魔物の正体を眼下におさめた。
(大きい熊……?)
この時の私はとにかく無学で何も知らなかった。
AA級魔物 ギガント・アイスベアー
最大で体長は18mにもなり、巨大でありながら
時速240キロもの移動速度に加えて
人の10倍にもなる瞬発力を持っているとされている。
その巨大な見た目通りの怪力に加えて
氷の魔法を操る程の高度な知性を持ち
特に氷の魔法や斬撃に対して非常に高い防御力を持っている。
ギガント・アイスベアーは私の匂いを嗅ぐなり
全てを察した様子で軽く私を足蹴にした。
「ぐっ…………あ……ぁ……」
寒さと出血、内臓への深刻なダメージによって
もう喋る力もかなり奪われていた私は
無慈悲に転がり、そのまま岩に激突した。
(あぁ……死んだ)
私の意識は呆気なく刈り取られてしまい
心地の悪い吹雪の音がどんどん遠くなっていった。
どのくらい経ったのだろうか……パチパチと火の鳴る音と、
瞼に映る暖色が私の意識を深層から連れ戻した。
寒さは感じない……むしろ暖かい。
重たい瞼をゆっくりと開いてみると、私は何処かの洞窟にいた。
何が起こったのかまるで分からないけど
さっきまで感じていた苦しみや痛みはほとんど無い。
身体の至る所には包帯が巻かれていて、
獣の皮みたいなものを布団のようにして
体温の流出が防がれている。
(何だろう……良い匂いがする)
私は上体を起こして立ち上がろうとした。
「まだ動くな、お前のダメージはあまりにも深刻だ。
あと2日は安静にしていろ」
ふと、視線とは真逆の方から男の声がした。
低くて艶のある声だ。
言われた通り上体は起こさず、
ゆっくりと顔だけそちらへ向けると
全身を毛皮で作ったであろう装備で固めた獣人の男が
何か作っていた。
その獣人は美しい青い眼をしていて
髪は雪のように真っ白だった。
男の傍にはまな板と思われるものとよく手入れされたナイフが
その場の土やらで出来た
簡易的な調理台のようなものの上に置かれている。
魔法かとも思ったけど、どうにも少し違うように思える。
中身は見えないけど、グツグツと煮える鍋からは
牛乳とコンスメと呼ばれる調味料を混ぜたような匂いがする……
東に栄える獣人の国 樹国ビスタシア ではポピュラーな食べ物
シッチュ だ。
一度課外学習で食べた事があって
とても美味しかったのでよく覚えている。
そして、男の背後にはものすごく大きな何かが無造作に置かれていて
巨大な洞窟の入口をほとんど塞いでしまっていた。
「あの……あなたは?」
声は出せる。 弱々しく小さなものだったけど
洞窟にいるお陰か声はよく響いた。
「……名乗るような名は持ち合わせが無い。
そんな事より、身体は平気か? 後遺症は?」
「えっと……多分、大丈夫です。
少しダルくて、フラフラする感じがあるくらいですかね……」
男は安心したように息を吐く。
「一応全ての負傷は治っている筈だ。
だが、体力や血の不足まではどうにもならん。
少し落ち着いてからで良いが、
あっちに温水が出る簡易的な風呂がある。
服を全て脱がすのは流石に気が引けてしまってな
洗ってきて欲しい」
「え……?」
私は自分の格好を確認した。
下着だ。 下着しか着けていない。
「え? えぇ?! な、なんですかこれ?!
ぐっ! ケホッ……!! ケホッ……!!」
「まだあまり大きな声を出すな
喉もダメージを受けていた。
回復に少し時間がかかる筈だ」
「で、ですが……」
「……全身に損傷が見られた上に複数箇所から出血。
当然だが、服は血まみれでボロボロ。
もう使える状態ですら無かった。
そのままあのような服を着させておく訳にもいかんので
下着を残して脱がせて簡単に全身を拭いておいた。
すまないとは思っているが、
こうしなくてはお前を助けられそうにも無かった。
とりあえず即興で申し訳無いが、
着られそうなサイズ感の服をあり物で作った」
「つ、作ったって……」
よく見ると、私の傍にそれらしいものが置かれていた。
寝ながらの体勢で広げてみると、
アオザイによく似た構造の黒い服だった。
初めて見るタイプの服だったので少し困惑しつつ着ようとしたけど
自分の身体があまり綺麗な状態じゃ無いことに気づいた。
下着は雪に埋もれたせいかジメッとしていて
特にパンツの状態が酷かった。
まだ “きてもいない” のに、
下から血でも漏らしたかのような状態になってて
ようやく自分がどんな状態から助け出されたのかを知った。
服はまだ着ないでおこう……このままじゃ折角の服が汚れてしまう。
私は毛皮の毛布を頭から被るようにして身を隠した。
「あの……私を助けてくれて、ありがとうございました」
男は何故か向こうを向くと、
心臓付近に手を当てるような仕草をしながら深呼吸をした。
「気にするな。 しかし、何であんな所にいたんだ?
それもそんな軽装備で……何があったんだ?」
目どころか、顔も向けないまま男は疑問を投げかけてきた。
私は事の顛末を全て打ち明ける事にした。
「突然ここに来ていただと……?」
「はい……」
全てを話した。 男は少し考える仕草を取ると
何かを思いついたように私の方へ向き直った。
「魔女見習いだと言ったな。
“陣” は何処に刻まれている?」
「えっと……右手の甲です」
私は右手の甲を見せた。
そこには太陽を模した模様が刻まれている。
陣とは、魔法を使う事が出来る魔女が生まれ持っているもので
これを媒介にして魔法を構築するのに必要な属性、
要素なんかを補填する。
つまり、これが無いと魔法が使えない。
「……なるほどな。
左手の甲を見てみろ」
「え? ……あれ? 何これ……陣?
…………あれ、でもこれって」
男に指摘されたまま左手を見てみると
何故かこちらにも陣があった。
ヒールと翼を表すかのような特徴的な模様に加えて
恐ろしく複雑な陣の構造……私にはこれに覚えがあった。
ここへ来る前、突然現れた魔法陣と同じ気配がする。
「それ、間違い無く “空間転移陣” だな」
「空間……転移陣?!」
信じられないものが私の左手に宿っていると告げられた。
空間転移はもの凄く希少で高度な魔法だ。
「俺個人としては、元々あった “そっち” の方が
とんでもないとは思うけどな」
「そっち……? “双性太陽陣” の事?」
「…… “双性” だと?」
男の顔色が一瞬だけ変わった。
この時の私はこの “双性” と言うのが何なのか
何も分かっていなかった。
不思議に思いはしたけど、この時私の疑問は
空間転移陣に向いていた。
「とにかく、そっちは良いんです。
問題は転移陣ですよ。
どうしてこんなものが私に……」
「ワーププラント」
「……ワーププラント?」
男は原因を語り始めた。
「恐らく、お前がクチヒゲソウと間違えて掴んでしまったのは
ワーププラント……転移草だ。
微細な魔力に触れるだけで転移魔法の媒介になる
とんでもなく希少な植物だ。
そして、ワーププラントによる転移魔法は
発動者にコピーされる性質がある」
「……嘘でしょ?
私、そんな訳も分からない激レア植物引っこ抜いちゃったから
こんな目に……?」
「確信を持って言えないが、90%その線で合ってるだろうな。
お前の左手に刻まれた陣には植物のような装飾が刻まれている。
つまり、魔法植物由来の魔法って事だ」
「……って、何かやけに魔法の事詳しく無いですか?
獣人って確か魔法が使える種族ではありませんよね?」
「…………少し前まで、魔女と一緒にいたんだ」
「魔女と……? “このご時世” にですか?」
「あぁ……もう二度と会う事も出来ないだろう。
今頃何をしてるやら。
それに、しばらくの間寝泊まりに使っているこの洞窟だが……いや、これはまだ言わない方が良いか」
「?」
男は含みのある事を言うと、
優しい色をしたお椀にシッチュを流し込む。
白くてドロドロとしたスープの中に
やや小さめにカットされた野菜がゴロゴロと入っていて
牛乳の裏にチーズの匂いが隠れている。
大きなお肉が多めに入っていてとても食欲がそそられる。
「“アイツ” が好きだったシッチュだ。
気に入ってもらえるかは分からないが、
体力の回復に加えて増血作用と身体を温める効能がある。
体勢はそのままで良いから無理に動くな」
男はそう言って木製のスプーンでシッチュを掬い取ると
私の口元まで運んだ。
「ほら、食え。 あったまるぞ」
(あぁ……何てあったかくて、美味しそうな香り)
ゆっくりと口を開けると、男は慎重にシッチュを
私の口へ置いた。
数口食べた辺りで何故か頬から
あったかいものが流れ落ちる感覚がした。
「どうした?! まさか口に合わなかったか?!」
「おいしい……おいじいんです……」
ポロポロと出てくるそれは次第に大粒となって
私は訳も分からず泣き崩れた。
そのシッチュは、何だか凄く懐かしい味がした。
この時食べたシッチュの味は生涯忘れない。
今まで食べた何よりも美味しかったと
“全てを終えた私” は手記に綴る。
思い出が膨らむような暖かな味、私の身体は
何年もこれを欲していたかのように
シッチュの味を胸に、脳に強く焼き付けた。
どうしてあのシッチュだけがあんなに美味しく思えたのか……
死にかけたからだろうか……? はたまた……
いや、これは “はたまた” の方が正解か。
私はまだ何も知らない。
この出会い、ここでの出会いこそが
私の運命……ひいては世界の運命すらも
大きく揺さぶってしまう事を。
あれから3日が経過した。
体調はすっかり回復したけど、外は依然として吹雪のままだ。
あの時入り口を塞いでいたものの正体が
私を襲った熊だと知った時は腰が抜けてしまった。
どうやらあの人はとんでもなく強いらしい。
シッチュに使われた肉が熊肉だと知った時は
驚きよりも先に好奇心が勝っちゃったけど……
しっかり意識が回復したところで、私は男に色々と訊ねる事にした。
何をしようにも現状が分からなければどうにも出来ないからだ。
「まず、あなたの呼び方なんですけど」
「好きに呼べば良い」
「って……それじゃ困るんですよ。
恩人の名前も知らないままなんて……」
男は何故か名前を明かそうとしない。
知られたくない理由でもあるんだろうか? 大罪人とか?
もうこの際そんな事気にしてる場合でも無いのに……
「……ならそうだな、俺の事は オオカミ とでも呼べ。
昔、そう呼ばれていた事があってな」
「オオカミさん……オオカミさん……ふひひ」
私は嬉しかった。 やっとこの人の呼称を得る事が出来た。
「いきなり何なんだよ…… “アイツ” に似て、おかしな奴だな」
「いいえ、ただ嬉しくて……オオカミさんは私の恩人ですから。
そんな人が近くにいるのに呼ぶ事も出来ないなんて、
かなしいじゃないですか」
「そうか……まぁ、それもそうだな」
オオカミには事前に名前を伝えてある。
サン それが私の名前。
お父さんに付けてもらった名前らしいけど、
私には父の記憶なんて無い。
ただ悲しい事にオオカミは私を名前では呼んでくれない。
一向にその気配すら見せなかった。
オオカミは少し考えるように目を瞑ると
こちらに質問してきた。
「色々と答える前に、俺からもひとつだけ質問をしたい。
お前、両親はどうしている?」
「両親? 何でまたそんな質問を?」
「っ……」
オオカミは目を逸らすと言葉を詰まらせた。
「そ、それはその……お前にも家族はいるだろ?
ほら母親とか……その、心配しているんじゃ無いのか?」
何故かすぐに分かった。
これ、嘘だ。
そう思った瞬間、朧げな記憶が微かに蘇った。
『ふふっあなたは相変わらず、嘘をつくのが下手ね』
お母さんの声だ。 ……でも、何で今思い出すんだろう?
私は理解を超えた感覚に陥りながらも
自分の両親について話すことにした。
「パパは……私が2歳の時に死んだと聞いています。
ママは、四年前に亡くなりました。
魔物に襲われて」
「………………そうか、辛い事を聞いたな」
オオカミの耳がピクリと動いたのが見えた。
表情に変化は無いが、何故か私には凄く悲しそうなものに見えた。
「気にしないでください。
魔物に襲われるなんて今時ありきたりですし、
パパと言ってももう何も覚えていませんから」
私は精一杯の作り笑顔で答えた。
「まず、ここって何処なんですか?」
私はすぐに話を戻した。
一刻も早く帰らなければならない。
オオカミにはお世話になったけど、こんなよく分からない所で
足止めされている場合では無い。
もう3日経ってしまっている……
先生にどれだけ叱られてしまうか分かったもんじゃない。
「ノースヘルだ」
「……今、何て言いました?」
「……信じられないかもしれないが、落ち着いて聞け。
ここは ノースヘル 世界の最北端に位置する
地上の地獄だ」
私は言葉を失った。
ノースヘル オオカミが言った通り世界最北端に存在する地であり、
標高6000mもの山々からなる雄大な雪と氷の世界だ。
800年もの間、ずっと天候は大吹雪であり
気温は平均マイナス57度。
大気は薄く、私達が住んでいた法国の18分の1しか無い。
そんな世界であるが故に、とんでもなく強い魔物などが多く存在し
ついた別称が “北獄”
とてもじゃ無いけど人が住めるような場所じゃない。
子供でも知っている話だ。
この世界には近寄ってはならない場所が8ヶ所あって
それらは地上の地獄と言われている。
北獄と呼ばれるノースヘルはその一つで
何か恐ろしい力を持った存在が封印されていると言われている。
「待ってください……ここが本当にノースヘルだったとして
法国ウィザスまでえっと……えっと……」
「特に何かしらのトラブルに巻き込まれず、最短のルートを辿る事ができれば
1年で帰る事が出来るだろうな……」
「冗談ですよね……?」
「生憎俺は、嘘をつくのが下手らしくてな」
「そんな……」
オオカミは冗談を言っているようには見えなかった。
多分この人なら一年で行けてしまうんだ。
……つまり、私は絶対にそれ以上かかるって事。
ワーププラントはもう手元に無い。
万が一あったとしても制御出来ない。
転移陣も同じ理由から使用不可能……詰んでない?
詰んでないこれ??
幾ら考えても無駄だと考えた私は別の質問をしてみる事にした。
「分かりました……次の質問です。
この洞窟の奥から強い魔力を感じます。
何かあるんですか?」
この洞窟は深い。
まだ浅い地点しか知らない私は
この洞窟に対する疑問が尽きなかった。
「見せた方が早そうだな。
ついて来い。 下は寒いからちゃんと厚着するんだぞ」
私はオオカミから “熊” の毛皮で作ったローブを渡された。
着てみると、サイズはかなり大きめだった。
でもこれ……私の為に作ってくれたんだよね?
「ありがとうございます……でもこれ、ちょっと大きいです」
「大きいか……目採寸だったが
何とか上手く出来たようで良かった」
「?」
大きいと言っているのに、オオカミはよく分からない事を言った。
オオカミはそのまま私をグルグルと回りながら
着こなしを確認すると、
出来の良さを確認したかのように深く頷いた。
「それには幾つか “霊操術” をかけてある。
一生使える筈だ」
「霊操術……?」
「とりあえず、歩きながら話そうか」
オオカミは私に歩調を合わせながらゆっくりと歩き出した。
「霊操術とは、一部の獣人のみが使える力だ。
魔法とは似て異なるものでな
小霊 と呼ばれる存在に魔力を渡して
発動する事ができる」
「初耳ですね」
「獣人の中でもかなり上位の力を持った者が到達できる領域だ。
樹国の連中も別に善人の集団では無い。
“大冷戦” とまで呼ばれているこの時代では
あまり外部に漏らしたくは無いだろうな」
「そんな……そんな情報、話しちゃって良かったんですか?」
「良いんだ。 俺はもう随分前に樹国籍を失っている。
それに、お前にはもっと色々知っておいて欲しい。
この先に待っている道は辛い事ばかりだ」
オオカミは目を合わせないまま遠くを見据えるように呟いた。
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
オオカミはその質問にだけは答えなかった。
嘘が下手なオオカミにとって、
どうしても答えてはならない質問だったからだ。
洞窟をしばらく進んでいくと急に寒くなり始めた。
周りは通常の洞窟では無く
一面見た事が無い青の鉱石で構成されている。
更に少し進むと、洞窟だと言うのに階段が見えてきた。
とても巨大な螺旋階段は外周300m弱はあり
底が見えないくらい先まで続いている。
やはり材質は青い鉱石であり、
肌で触れると熱を吸われるような感覚がある。
「ここから先はこのノースヘルにとって
最も重要な場所であり、非常に過酷な環境下になる。
風は無く、吹雪も無いが気温は常にマイナス100度以下。
空気も外の半分くらいしか無い。
そのローブ、絶対に脱ぐなよ」
その忠告を最後に私達の口数は激減した。
ローブのお陰だろうか、
そんな恐ろしい世界をどんどん進んでいるのに
寒さを一切感じず呼吸も苦しくない。
10歳だった私が知る由も無い事だけど、
何げなく渡されたこのローブは国宝級の代物だと
後々になって判明する。
階段を降り始めてから1時間が経過した頃
外壁に変化が見られ始めた。
鉱石で出来た鎧が剣を携えて並んでいる。
「何この鎧……?」
「防衛装置だ。
ここに悪意や敵意を持って侵入した者を排除する役割を持っている。
一体だけでもつい先日お前を襲っていた熊より強いから
間違っても起動させるなよ」
「ひぃっ……!」
見たところ、この鎧は数百……下手をすれば千はある。
圧倒的な数の暴力でありながらそれぞれが強いなんて反則では……
「見えてきたな……終点だ」
終点と呼ばれた場所に降り立つ。
でもこの場所には変な台座とその上に巨大な氷の柱があるくらいで
他には何も無い。
ただ、この台座は光を発していて台座の上にだけ
巨大な雪の結晶がゆっくりと降っては消えてを繰り返している。
「このとんでもない魔力……氷の柱から?」
私は台座に登って氷の柱に近づいた。
そして、目を疑った。
「ま……じょ……?」
氷柱の中には美しい “魔女” がいた。
美しく長い銀髪、複雑な雪模様を描く青と白のドレス、
身体中を覆っている黒い線模様、
そして……肌で感じる圧倒的な魔力。
この世のものとは思えない様相は、幼い私に
あの絵本を想起させた。
「…… 『凍り姫のシルヴァ』 」