第1話「ある初夏の日に」
6月6日
*
それはある初夏の日の夕方のこと。高校からの帰り道、俺は1人蒸し暑いアスファルトの道を歩いていた。こんなに暑いと自転車で風を受けながら颯爽と帰宅したくなるが、あいにく俺は自転車を持っていない。高校がギリギリ徒歩圏内にあるうえ、1人暮らしでお金だって余裕があるわけじゃないから仕方がなかった。
「はぁ……」
自然と溜め息が漏れる。高校生になり1人暮らしを始めてまだ2か月。卒業まで3年近くこの地で暮らすというのに、いまから気が滅入りそうだった。
(……ん?)
ダラダラと歩いて十字路を真っ直ぐ通り過ぎようとしたとき、ふと十字路の左先に人が立っていることに気が付いた。何の気なしに横目で見てみると、その人物は真っ黒いパーカーを着ており、更にはフードを目深に被っている。
(うわぁ、この暑さでわざわざあんな格好するなんて……)
「ん……?」
ふと気になることがあって俺は十字路の真ん中で立ち止まった。電柱の陰に隠れて見えにくいが、どうやらそこにもう1人誰かいるようだった。こちらに背中を向けているため顔は見えないが、金髪の女性だろうか。
(何してるんだろう? 道案内でもしてもらってるのか……?)
金髪だから外国人だという安易な決め付けと共に、俺はどこか剣呑な空気を感じたため少しの間遠くから2人を観察していた。
(…………!)
すると、やはりというべきかまさかというべきか、突然フードの人物が女性の腕を掴み、その弾みで女性は何か棒状の物を取り落とした。にもかかわらず、フードの人物はそれを拾うことを許さず、女性の手を引いて無理やり連れて行こうとし始めた。
(あ、あれは――)
腕を引いて連れて行くだけならまだしも、落とした荷物に目もくれず女性を引っ張って行くとなれば、流石に日常風景とは判ぜられない。
(あれは……誘拐だ……!)
まさか住宅街で白昼堂々起こるとは思えないが、現に起こってしまった以上放ってはおけない。止めに入った方がいいだろう。話を聞いてみて誤解であったならそれでいい。もし誤解でなければ……俺がどうにかするしかないか。見た限りフードの人物はお世辞にも逞しいとはいえないし、俺でも押さえることくらいはできるだろう。
(あ……!)
腕を引かれていた女性がバランスを崩して転んでしまった。気付いたフードの人物は振り返り、腕を引っ張り無理やり立ち上がらせようとする。しかし、女性は座り込んだまま立ち上がろうとはしない。するとそれを抵抗していると判断したのか、フードの人物は空いている方の手で女性の髪を掴み、無理やり立ち上がらせようとし始めた。
(……っ!)
小走りで2人の方へと向かっていた俺だったが、すぐに全力で駆け出した。人の髪を引っ張って立ち上がらせようなんて光景を見て、冷静でいることなんてできなかった。フードの人物はこちらに気付き、掴んでいた女性の髪を手放した。これ幸いと、俺は2人の元へ駆け寄り、勢いそのままにフードの人物にタックルをかました。
「うぐっ……!」
フードの人物は呻き声を漏らして3メートルほど吹っ飛んでいく。……まさか本気のタックルがこれほどの威力だとは思わなかったが、しかし誘拐犯などこれくらいの仕打ちを受けて然るべきだろう。俺は体を誘拐犯の方に向けたまま、座り込んでいる女性を横目で見つつ声を掛ける。
「大丈夫ですか!? 誘拐のように見えたので、助けに来ました!」
「……」
女性は混乱しているのか、何も言わない。いや、日本語がわからないのかもしれない。長い前髪で顔が隠れているため、表情を読むことは出来なかった。
(……って、この髪……?)
一瞬緊張が途切れかけたが、視界の隅で動くものに気付き、すぐにそちらを向く。誘拐犯がよろよろと立ち上がり、こちらに背中を向ける瞬間だった。
「……あ!」
そしてそのままこちらには目をくれず、走って逃げ出した。脳震盪でも起こしたのかよろめいていて速度は遅い。これなら簡単に追い付いて拘束できるだろう。
「あ、ありがとうございます。助けてくれたんですね……?」
俺が走り出そうとした瞬間、ようやく女性が言葉を発した。悲鳴も上げていなかったし、もしかしたら恐怖で声が出なかったのかもしれない。
「あ、あの、杖はありませんか?」
「杖?」
そういえば最初、腕を掴まれたときに何か棒状の物を取り落としていた。あれは杖だったのか。後ろを振り返ると、10メートル程離れた場所に白い杖は転がったままになっている。
(…………)
杖と、よろめきながら走り去っていく誘拐犯の背中を交互に見やる。犯人が去ってしまった以上もうここに危険はないはずだ。ここは住宅街だし、道路脇で少しの間待っていてもらう分には交通の危険もさほどないだろう。少し待っててください、先に犯人を押さえてきます。と、言おうとしたのだが――。
「目が見えないんです」
(……! そうだ、白い杖は……)
杖といえば木目調で茶色のイメージがあったから、最初見たときあの棒が杖だとは思わなかった。しかし、白い杖は目の不自由な人が使う杖だ。フードの男の方を見ると、ちょうど曲がり角を曲がっていく瞬間。いま走って追えばまだ追い付けるだろう。しかし……。
「……ふぅ。少し待っててください。いま拾って来ます」
流石に目の不自由な人を道端に放置してはおけない。俺は犯人を追い掛けることを諦め、小走りで転がったままの杖を拾って来た。
「はい、どうぞ」
そう言って杖を女性の膝の上に置く。
「ありがとうございます」
女性は杖を右手で掴むと、すぐに立ち上がろうとし始めた。
「あっ、手貸しますよ」
俺は杖を持っていない方の手を支えてやろうと、両手を差し出す。しかし――はらり、と袖を掬っただけで、女性の手に触れることはなかった。
「……?」
俺が違和感を覚えて動きを止めているうちに、女性は1人で立ち上がってしまった。
「助けてくれてありがとうございました。……ごめんなさい、お礼をしたいですけど、私は何も持ってなくて」
前髪で表情は見えないが、申し訳なさそうに言ってくる。
「いえ、礼なんて。俺の方こそ、犯人を逃がさないで済む方法もあったかもしれないのに……すいません」
「あなたのせいじゃありません。そもそも私が、外に出たりしなければ……」
「それは……」
彼女の顔と、左腕を見やる。全盲なのかはわからないが、どうあれほとんど見えてはいないのだろう。そうでなければ、こんな鬱陶しそうな前髪ではいないはずだ。……加えて、左腕。袖口から手指が覗くことはなく、袖はひらひらと風に揺られている。恐らく左腕は前腕ほどまでしか続いていない。……確かに、到底1人で外を出歩けるようには見えない。それに――。
「……うわっ!」
瞬間、全身に纏わり付くような不快な熱気が剥がされた。暑い日にはある意味ありがたい、髪型が崩れるほどの突風。彼女の長い茶色の前髪も風を受けてバサバサと靡き、その顔全体を覗かせた。両目を閉じたまま風に僅かに眉を顰ませるその顔は、端正なものだった。
「……家はどこですか? まだ犯人が近くにいるかもしれないですし、送りますよ」
もちろん送り狼になるつもりなんてない。ただ諸々考えたうえで、一番安全であろう策を、完全なる親切心で取ろうというだけだ。
「え、ですが……」
少し俯いて言葉を詰まらせる。どうやら判断しかねているらしい。確かにいま誘拐されかけたというのに、すぐに男に連れられるというのは怖いだろうか。この申し出は少々配慮が足りなかったかもしれない。
「安心してください、俺は手を出したりしませんよ。えーと……あ、そうだ! まず警察に通報するべきでしたね。完全に失念してました」
いまならまだ犯人も近くに潜んでいるかもしれない。真っ先に警察に通報するべきだったのだ。緊急事態だったからこそ、当然のことがすっかり抜け落ちてしまっていた。俺は急いでポケットからスマホを取り出した。
「あなたのことを怖がっているわけではないんです。そうじゃなくて、ただ……」
女性は顔を上げて何かを訴えようとしてくる。俺はひとまずスマホから彼女に目線を移し、話を聞くことにした。
「ただ……?」
先を促すが、彼女は何か考えを巡らせているようで沈黙してしまった。しかし整理が付いたのか、すぐに言葉を続ける。
「……いえ。やっぱりお言葉に甘えて、送ってもらおうと思います。お願いしてもいいですか?」
「え? あ、はい。わかりました」
てっきり送ってもらいたくない理由があるのかと思ったため意表を突かれた。何を言い淀んでいたのか少し気になるが、別に事情を詮索するつもりもない。送ってほしいというのであれば、送ってやろう。だけど、その前に。
「一応警察には通報しておきますね。また襲われないとも限りませんから」
「あ……あの、警察には通報しないでくれませんか。迷惑を掛けたくはないので……」
「……? 助かったとはいえ、誘拐の通報を警察が迷惑扱いすることはないんじゃないですか?」
「いえ、そうではなくて。えっと、私の家みたいな場所に、迷惑が掛かるというか……」
「……? 家みたいな場所?」
「はい。私は四枝狩総合病院に入院しているんです。今日は、勝手に病院を出てきてしまって……」
四枝狩総合病院……ここから少し歩いた距離にある、市で一番大きな病院だ。しかしなるほど、そういうことか。脱走したうえに事件に巻き込まれかけ、更に警察の厄介になったとなれば、病院からすれば大層迷惑だろう。……しかし、だからといって犯人を放っておくわけにはいくまい。彼女を狙った犯行だったにしろ行きずりの犯行だったにしろ、再び事件を起こさないという保証はないのだから。
「それならあなたのことは告げずに、事件があったことだけ通報しておきます」
「ありがとうございます。……助けてもらったうえに、こんな注文まで付けてごめんなさい」
「気にしないでください。俺も学校とかありますし、あんまり面倒なのもごめんですから」
俺は再びスマホを開き、110番に電話を掛けた。
*
「どうでしたか?」
電話を終えると、彼女はそう尋ねてきた。
「近所の見回りを強化してくれるそうです」
「そうなんですか。それはよかったです」
「よくないですよ……明らかに相手にされてなかったですから。いたずらだと思われたのかもしれません」
「? それは残念です」
聞いてきた割に彼女は大して興味のない様子だった。それもある意味、当然なのかもしれない。彼女が入院中だというなら、本来今回のような危険に晒されることはないし、今後も抜け出したりしなければ、危険な目に遭うことはないのだから。
「あの……あなたは、高校生なのですよね?」
「? そうです。四枝狩高校の1年です」
どうやら俺が警察に話すのを聞いていたらしい。
「へぇ、そうなんですね。あの……高校生って、楽しいですか?」
「それは……」
個人的に答えづらい質問だった。というのも、高校生になってから早2カ月。俺は未だに友達が1人もいなかった。中学までと違い地元を離れた高校では、友達を作る気がないと孤立する。なんやかんや好きなように学校生活を送っていたら、俺はいつのまにかクラスで孤立していたのだった。
「……自分は山梨出身で、高校から千葉に来たんですけど。そしたらうまく友達を作れなくて、いまは正直あんまり楽しくないです。……あ、でも普通に高校生やってる人達は、楽しんでると思いますよ! 人生一度の高校生活ですからね」
俺は正直に話すことにした。しかし、楽しい高校生活の話を期待していたのなら悪いなと思い、補足も付け加えておいた。
「そうなんですね……。なら、よかったです。私は目が見えないので、高校に行ったとしてもきっと楽しくないでしょうから」
「え? あ……」
そうか。高校は義務教育でない以上、行っていない人もいるのだ。誰もが高校に行っていることを前提に話してしまっていた。……高校に行かなくても、楽しいことくらいいくらでもある。実際俺も、高校は志望する専門学校に行くための通過点としか思っていなかった。どこでもよかったから、父親の言う通りわざわざ山梨から出て千葉の高校に通っているのだ。
「……四枝狩総合病院でしたね。そろそろ行きましょうか」
「はい。よろしくお願いしますね」
気まずい空気になる前に移動を開始してしまおうと考え、俺は彼女の左腕を軽く引いて歩き始めた。
読んでくれてありがとうございます!
この作品は青春ミステリーとしていますが、前編はキャラクターの交友がメインでミステリーの進行は緩やかかと思います。
2話以降も読んでいただけたら嬉しいです!