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あ、間違えた

 

 ホテルに泊まったんだ。夏休みの、家族旅行でな。


 ドアはオートロックじゃないし所々年季が入ってたけど、悪くない部屋だった。部屋にはトイレが付いてたけど、部屋の外にも、廊下の真ん中あたりに共用トイレがあった。4人家族で、夜飯後で部屋のトイレが渋滞したもんで、俺は部屋の外の共用トイレに行ったんだ。


 用を足して、トイレを出て帰り道の廊下を歩いた。俺があれを見たのは、そこから部屋への帰り道のことだった。


 ホテルの廊下って、カーペットがふかふかしてて独特の匂いがするからワクワクするけど、夜にひとりで歩くのは怖いよな。上手く言えないけど、得体の知れない恐怖感が襲ってくる。


「……」


 帰り道の道中、廊下に清掃のワゴンが停まっていた。


 こんな時間に、っていう不信感が、真水に垂らした一滴の血液みたいに、心の中に拡散していった。


 でも、廊下は一本道。帰るためにはワゴンの横を通るしかない。俺は何も起こりませんようにって、戦々恐々、ワゴンの横を通った。


 部屋のドアは半開きだった。俺は吸い込まれるように、半ば反射的にその中を覗いてしまった。


 玄関に、清掃のユニフォームを着た40代くらいの男が立っていた。こちらに背を向けて、部屋の中の何かを見ているようだった。


 男が何を見ているのか無性に気になって、俺は部屋の奥を覗いてしまった。


 なんで、あのとき覗いちまったんだろうな。


 マネキン人形かと思ったが違った。薄暗い部屋の中で、白い人影が、3、4本、ゆらゆらと動いていた。その動きはゾンビや芋虫のようで、全く生気が感じられなかった。


 それが何なのかわからなかったけど、見てはいけないものなのは確かだった。


 男が振り返った。目が合った。心臓が止まるかと思った。覗かれて怒るでもなく、取り繕って笑うでもなく、ただ無表情。それが堪らなく不気味だった。


 男は無表情で、目だけは蛙みたいに見開いていた。目が合ったまま動けなかった。ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい。


「あ、間違えた」


 低い声だった。内臓が震え、背筋に冷たいものが走り抜ける。男は右手を伸ばして、ドアをパタリと閉めた。


 沈黙するドアを見つめた。頭の中で何かが弾けて、ダッシュでその場から逃げた。知らない場所にひとりでいる心細さが一気に襲ってきた。叫び出してしまうのを必死で堪えた。いや、叫んでいたかもしれない。とにかく必死だった。


 薄暗い部屋、白い人影、無表情の男の蛙みたいな黒目が頭の中を駆け巡って脳みそが爆発寸前だった。振り返ったら無表情の男が背後に立っている気がして、その想像に冷や汗をかき、目を見開き、歯を食いしばった。俺は無我夢中で走って、自分の部屋の……部屋の……。


 部屋番号、何だったっけ?


 403号室だったような……いや、404か? クソ、どっちだ!?


 廊下の奥に行くほど番号は若くなる。少しでも早く逃れたくて404号室のドアを開けた。間違えても、謝って出ればいい。今はただ、まともな人間の顔を見て安心したかった。


 滑り込むように部屋の中に入り、ドアを閉める。その瞬間、安堵した脳が記憶を探り当てた。しまった、403号室だ――


「あぁ、おかえりー」


 耳を疑った。それは紛れもなく母親の声だった。


 俺は部屋に飛び出した。そこには家族が全員揃っていた。窓際の広縁でポテチをつまみに酒を飲む両親。部屋には布団が敷かれ、妹は寝っ転がってテレビを眺めていた。来年小学校に入学する、可愛い妹だ。


 父、母、妹の顔が、一斉に俺に向けられる。


 ()()()()


 それは見飽きた当たり前の風景。なのに俺は、ほんの少しだけ、未視感ジャメヴを覚えた。早鐘を打つ心臓は、さっきから少しも鎮まらなかった。


 部屋の隅の、自分の鞄に似ているものに駆け寄る。くたびれた手触り。中を開け、内容物をひとつひとつ手に取って確かめる。それらは確実に自分のものであると証明されていった。


「どうかしたの? 慌ててるけど」


 後ろから母が話しかけてくる。


「……いや」


「ポテチ開けたけど、食べる?」


 机に置かれたそのパッケージを見た。それは、部屋の中で食べるようにと、つい数時間前に俺が買ったものだった。


「食べる」


 俺はようやく安心した。緊張の糸が切れて、疲れがどっと襲いかかった。その疲れが、まるで安心の象徴のようで、心地よさすら覚えた。


「俺たちが泊まってる部屋って、何号室だったっけ?」


「なに寝言言ってんのよ。404号室でしょ。ほら、ルームキー」


 母は微笑してルームキーを俺に見せた。その笑顔に、俺は一瞬だけ、違和感を覚えた。こんな顔で笑ってたっけ? いや、ダメだ、疲れてる。目の前の女性はどう見ても母だった。


「……そう、か」


 部屋番号は俺の記憶違いか。実際に404号室のルームキーを見せられたら、まぁ、そんなもんかって納得せざるを得ない。


 それ以来ホテルでおかしなことは起こらず、楽しい時間を過ごして旅行は終わった。


 あの部屋で、俺が見たものがなんだったのかはわからない。きっと何かの見間違いだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、っていうもんな。絶対にそうだ。


でも、今でもたまに、ホテルの部屋で見た芋虫みたいにゆらゆらと動く白い人影を思い出すと、俺はどうしても家族に対して未視感を覚えてしまう。


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