8.松崎利重①
≪日本 2020/7/9(木) 18:24≫
私の名前は松崎利重。自ら起業した製菓会社の社長をしている。
世間では私は成功者、あるいは敏腕起業者と持て囃されることが多い。一から作り上げた会社は、20年で大手製菓会社とも言われるようにまでなったのだから、それも間違いではないと思う。
だがそんな私も、解決困難な大きな壁に直面してしまっている。その壁というのは――。
「とっしー、資料整理終わったぞー。あー疲れたー」
日暮れ時の執務室で仕事をしているとドアが勢いよく開け放たれ、見知った顔が入ってきた。入るや否や、一つ結びにした金髪を解き、知性的な眼鏡も外して、その下の鬼でも逃げ出すような恐ろしい眼光を私に向けたのは、鬼川聡美。私の秘書だ。
高校からの知り合いである彼女は、粗雑でキレやすい、一言で表せばヤンキーと呼べる人物だった。訳あって仲を深める機会を得た私と彼女は、高校卒業後は一度別の道を行くことになったものの、大学卒業前に就職に失敗し途方に暮れていた彼女を秘書に誘った。彼女はキレやすいが、その割に頭もよくキレることをよく知っていたからだ。
秘書としての態度は歳を重ねればそのうち成熟していくだろうと心算していたのだが、そこに関しては私の読みが甘すぎたと言える。現在も私と二人きりとなればこの態度だ。
とはいえ、昔馴染みであるし、社長である私にこうして臆面もなく接してくれるのは私としても望ましく思う面がある。タイミングが悪かったが解決困難な壁とは彼女のそういった面ではない。
「ありがとう、今日はもう上がっていいぞ」
「いや、上がっていいって、お前も今日は早く帰るんだろ?」
「私はこの後、例の会に出席だ」
「はぁ!?今回は無しって話だっただろ!?」
「あの仕事は私にしかできないから、仕方ないんだ」
「何言ってんだよ、息子の誕生日を祝う方がお前にしかできないだろうが!ふざけんなよ!」
聡美の怒号が飛び、空気がビリビリと振動する。外に聞こえたらどうすると言いたくとも、正論であるため言い返し難い。
今日は近隣の多種多様な会社の社長同士が集まる大切な定例会合の日なのだが、彼女の言う通り、私の息子の雅希の13歳の誕生日でもある。
私の抱える困難とは、何を隠そう、雅希との関係性なのである。
雅希が生まれた頃、会社のことで手いっぱいになっていた私は、雅希の世話は全て妻の菫に任せていた。菫のサポートは万全で、私が雅希の相手を殆どしなくともすくすくと育て上げてくれた。
だが、その菫は去年急な病で早逝してしまい、私は雅希にとっての唯一の肉親となってしまう。13年間ロクに関わらなかった息子だ。最後に会話をしたのがいつなのかさえ思い出せず、雅希は私のことを親とも思っていないような気がする。行き詰った私は、家政婦に家のことを全て投げ、自身は仕事に逃げるようになっていた。
そんな息子と、誕生日に何をし、何を話せばいいのか?何が好きで嫌いなのかも分からないのに、何をプレゼントすればいいのか?
「雅希ももう中学生だ。菫が育ててくれたおかげで聡明な子になったし、私の立場も理解してくれるだろう」
「……スミはお前に育児放棄させるためにそう育てたわけじゃないだろ」
聡美の声が一段と低くなり、獣の唸り声のようになる。怒りを通り越し、冷徹に正論で詰めてくる時の聡美が一番恐ろしい。
「……だろうな。だが、簡単に解決できるなら最初から拗れることはなかった。すまないが、雅希の件についてはもう少し時間が欲しい」
「今日を逃せば、その時間は一気に削れるぞ?ったく、スミもこんな男に人生捧げて災難だったな。あたしがあいつの立場だったらこうは……」
「それはどういう意味だ?」
「!ッチ、なんでもねえよ!」
聡美は顔を背け、ドアも閉めずに執務室から飛び出していった。菫を失い、いよいよ聡美にも愛想を尽かされてしまっただろうか。曲がった人間をとことん嫌う奴だからな。私も今の自分がロクでなしであることはよく分かってしまっている。
嵐の去った執務室で、一人溜息を吐き出した。
夜に開催された社長同士の会合はつつがなく進行した。何十という様々な業種の社長方と酒を酌み交わし、相手の好む話題で盛り上がり、印象を良くする。こうすることで効率のいい輸送ルートの確立ができたり、小麦や卵などの菓子の材料を格安で仕入れたりできるようになるのだ。
最初の頃は名のある企業の社長に囲まれておっかなびっくり参加していたものだが、気付けば私もこの会の重鎮として扱われるようになった。私の方から交渉を持ち掛けずとも、相手から擦り寄ってくるのだ。今日もまた、いくつかの卸売業者から仕入れの打診を受け、腹の探り合いをした。
だが、近頃の新参者は私の頃とは随分勝手が違うようだ。私の頃は話題といえばゴルフを中心としたスポーツ関係のものばかりだったというのに、今の若い起業家たちはゲームや漫画の話で盛り上がっている者が多い。時代の流れだと言ってしまえば仕方ないのだが、そういった娯楽には触れてこなかった私には新しい時代についていくのは難しいと思えてしまう。
「ふぅ……。そろそろ私も身を引くべきなのかもしれないな」
気を休めるために人気のない机に移動し、そう漏らす。かつて私がそうしてもらったように若い者にチャンスを与えることは大切だが、古い慣習を引き摺る老害になるのは私の望むところではない。
「随分お疲れね、利重さん」
「うお!?」
不意に左の席から声がして、声を上げてしまった。何せ、私は人の居ない隅のテーブルをわざわざ選んで座ったのだから、そのテーブルの壁側に誰かが居るはずがないのだ。
だが、私が見やったその場所には、確かに人が座っていた。長い緑色の髪をした女性だ。見落とすはずのないその派手な髪色に対し、直感的に受け取る存在感は希薄、ある種の神秘性を纏っているとまで言える。
彼女は少し気だるそうにテーブルの上に腕をだらりと伸ばし、斜め向いた顔で私を見つめていた。
「わっ、そんなに驚かれるとこっちまで心臓が跳ねちゃうわ」
「あ、いや、すまない。ここに人が居るとは思ってなかったもので」
私と同じく腹の探り合いに疲れてここに来ていたのなら、悪いのは後から来た私の方だ。だから、私はすぐにここを離れるべきなのだろうが……。いやに彼女のことが気になる。このような目立つ髪色の女性など、この会合では今日どころか今までをひっくるめても一度も見たことが無い。服もシンプルな配色ながら、やたらヒラヒラした飾りが多い、随分と攻めた容姿だ。この会合、特に服装の指定は無くカジュアルなものを着てくる者も多いのだが、この攻めっぷりはファッション業界の人間だろうか?ともかく、新参者にしてこの落ち着きよう、そしてこのインパクト、かなりのやり手かもしれない。
「ここは嫌なところね。疑心。深い浅慮。あなたも、ここに居る他の人間も。もっと気楽に考えた方が良い。じゃないと、心の色がよどよどになっちゃう」
私の気の惑いを敏感に察したのか、彼女はそんな言葉を吐いてくる。やはり、気疲れが理由でこの席で休んでいたようだ。話している内容はマイペースさが目立つが、そんな人間でも初めてこの会合に出席すれば自分のペースを保てないらしい。出席者には海千山千の怪物も多いから、それも仕方ない。
「ははっ……。深い浅慮、か。なかなか鋭い洞察力を持っているようだ。だが、ここはそういう場だろう。どれだけ滑稽なやり取りをしていようと、如何に相手から良い条件の取引を引き摺り出すか、その結果が全てだ。君もそのために来たのだろう?」
ここの先達として、アドバイスをするつもりでそう返す。場を俯瞰できるというのは優れた能力ではあるが、この場ではそぐわない。異端として爪弾きにされてはそこで終わりだ。
彼女は表情を一つも動かさずに私の話を聞いていた。無視されているようにも思えたが、私が喋り終えると彼女は体を起こした。そして、右手を私の方へと伸ばし……。
「いえ、私が来たのは、あなたを導くため」
「え?」
彼女の手が私の頭を撫でた。温かくも冷たくもない、軽やかな重みだけが伝わる手が、ゆるりと頭を滑りゆく。
意味が分からず、意図を聞く間もなかった。次の瞬間には私の意識は暗転していた。
気が付けば、私は見知らぬ木造の建物の中に居た。先ほどまで夜だったはずなのに、窓から日の光が入っている。
一瞬だと思った意識の暗転はどうやらかなりの時間だったらしい。完全に油断していた。私はあの緑髪の女に睡眠薬なり何なりを盛られ、ここに連れ込まれてしまったのだろう。
身代金目当ての誘拐か、それとも高額で壺を買わされたり、ぼったくりの酒を飲まされるのだろうか。
危機的事態を潜り抜けるため、なるべく冷静に分析しようとしていると、足音が近づいてきた。
「いらっしゃいませ!」
よく訓練された作り笑顔を湛えた赤い髪の女、いや、少女と言うべき年頃の女性が私に向かって言い放つ。このような派手な髪色の女性を立て続けに二人も見ることになるとは、共犯者と見て間違いない。店を装っているということはおそらく、この後酒や料理を頼まされるのだろう。ならば、こちらは断固拒否する姿勢で通さなければならない。
「悪いがあくどい商売に付き合うつもりは毛頭ない。これで失礼させてもらう」
「え?あくどい商売?何?何なの?予定と全然違う……」
少女をギロリと睨みつけて、出口へと向かう。何やら呆けている少女は無害そうなので置いておくとしても、気を付けなければならない。監視の男たちが裏に潜んでいて取り押さえてくるかもしれないが、相手がそう出るなら面倒だがこちらも即座に通報して警察沙汰にしてしまおう。そう考えてポケットの携帯電話を探るが、無い。携帯だけでなく財布も見つからない。先に相手に奪われていたようだ。
「君、私の持ち物を返せ。これは立派な窃盗だ。今すぐに返さないのならこちらも手段を選ばなくなる」
私は少女の方に向き直り、そう警告をした。
「せ、窃盗?えーっと、ちょっと待ってください。何かすごい勘違いをされているようですが、ここは商売の場ではないですし、盗みもしていません」
焦った様子でそう答える少女。おかしなことに、少女は本気で言っているように感じられる。もしかすると、彼女も騙されて仕事をさせられているのか?そして、商売の場でないならば、一体何の店だというのか。聞き出しておけば、良い情報が掴めるかもしれない。
「ほう、ならばここは一体何をする場所なのだ?」
「あ、ここはあなた方日本出身の方からすれば異世界にある、コルヴァという町のギルドです!そして、私はこのギルドの職員のアンナ・ガーネットです。以後お見知りおきを」
待ってましたと言わんばかりに少女の口から紡がれた言葉は、私の予想の範疇を逸していた。彼女の言葉から読み取る限り、ここは異世界のギルド……をコンセプトにした喫茶店と言ったところか。
若者たちの話についていくために異世界物なるジャンルの小説やアニメは幾ばくか目を通したことがあるが、なるほど、今一度周囲を確認してみると、確かにそういった造りの店である。冒険者が列をなす光景が目に浮かぶ受付カウンターがずらりと並び、壁のボードにはいわゆる依頼とかクエストとか言われる張り紙がいくつも張り付けられていた。
喫茶店であるならば店であるはずなのだが、そこはこだわりがあるのだろう。店の造りも凝っているようで、このアンナという接客少女からも悪意は感じ取れない。
もしかすると、これはドッキリという奴なのかもしれない。私も若き成功者として幾度かテレビ番組に出演したこともあるから、その繋がりでドッキリを仕掛けられることもあるだろう。ならば、ここで少女を怒鳴りつけたりすれば一大事だ。それがテレビで放映された瞬間、私と私の会社の評判に大きな傷をもたらす。
そうと分かれば、私もここが異世界だという体で演技するか。先に知らせてくれていれば最初からそれらしい演技を考えていたというのに……。知らされてなかったのは、あわよくば私の悪しき本性を暴こうとでも考えていたのだろうな。
腹立たしくはあるがまあいい、逆を言えばここでクリーンさをアピールすることも可能というもの。この私を出し抜こうと考えたのなら甘い。せいぜい会社のイメージアップに利用されてもらおうか。