5.七天山夕③
「このサラダ、野菜がシャキシャキね。大して新鮮じゃないはずなのに」
「ちょっとした小技があるんですよ。今度教えましょうか?」
絶体絶命のピンチにあるはずのアンナと、突然異世界に転移したユウ。その割に弛緩した空気感が漂う。二人とも、本来であれば一人きりである可能性が高かった状況で信用できる仲間ができたことが心強いのだ。
ユウが作った燻製肉とレタスのサラダをつつきながら、二人はユウの転移前後の出来事について話し合った。
「災害で人が消えた町のギルドに一人で勤務……。異世界というのも残酷なのですね」
「いえ、ユウの家での扱いの酷さの方がよっぽどよ。逃げ出したくなるのも分かるわね」
情報交換を行ったことで、アンナはユウが異世界人であることを確信した。ユウがポーションの効果に驚いたように、アンナもトラックという動物も魔法も使わずに高速で走る機械はこの世界の常識ではあり得ないと思った。
そして、アンナとユウはお互いの境遇に対する同情の念が生まれていた。
「逃げ出したわけではなくて、あの時は抗えない衝動に駆られた、としか言いようがなくて」
「そうだったわね。空の謎の赤い光の柱、それに呼ばれたような感覚……。すごく怪しいわ」
「はい。でも、あれはとても美しい光景でした。アンナさんの髪とよく似た、鮮やかな赤色でしたから」
「……その言われ方だと、まるで私が原因みたいに聞こえるわね」
「え!?そ、そんなつもりじゃ。ただ、あの光はアンナさんのように私にとっての救いの光なのかもって」
「はあ、何が救いの光よ、調子がいいわね。おだてても何も出せないわよ?けれどまあ、タイミング的に直接の原因はそのトラックとかいう乗り物に轢かれたことなのは間違いないわよね。うっぷ……、直後のユウの悲惨な姿を思い出すと今でも気分が悪くなるわ」
フォークを腸詰肉に突き刺したタイミングで昨日のグロテスクな光景を思い出してしまったアンナの手が止まる。
「あわわっ、見苦しいものを見せてしまったこと、本当に申し訳ないです……。今はこの通りピンピンしてますから、どうか記憶の上書きをしてもらえればと」
ユウはアンナの気分を何とか回復させようと、立ち上がって両手を広げ、くるりとターンして全快をアピールした。
天窓から差し込む光が反射して艶やかに煌めく黒髪と、制服のスカートがふわりと広がる優雅な舞のようなその身のこなしに、アンナも感嘆して目を見張った。
「ほー……、確かに目の保養になったわ」
「本当ですか?それは良かったです!」
「それに、受付用の制服も似合っているし、何ならこのまま受付嬢をお願いしたいくらいだわ」
「え、いいんですか!?この世界で生活するための手立ても必要ですし、何より異世界のギルド受付嬢、やってみたいです!」
冗談で言ったつもりがユウの食いつきが思ったよりも良く、アンナはギョっとする。
受付嬢というのは、日々血の気の多い冒険者を相手に依頼受注手続きや報酬支払いなどを手際よく進めなければならず、同じギルド職員の仕事であっても裏方の事務処理よりも遥かに精神的負担が大きい。
そして、何故だか容姿の良さも求められる上に、それが良ければ良いほど自分のカウンターに冒険者が増え、厄介な誘いを受けることにもなる。その点でユウは明らかに秀麗な見目をしていた。アンナから見ても、今までユウよりも優れた美貌を持つ受付嬢など見たことがないほどに。それでいてこののんびりした性格では、冒険者に言い寄られたときに断り切れないだろう。
「いや、自分で言っておいて何だけれど、止めておいた方がいいわ。というか、いくら人手が足りないからって、聖女を受付嬢なんかにしたら上から何を言われるか分かったものじゃないし」
「えー、そんなぁ……。私、聖女なんて柄じゃないのに。元の世界でも、一族で私だけ力が弱くて、全くの役立たずでしたし」
「そういえば、祈祷師の一族って言ってたわね。聖女というのもそこと関係がありそうだけれど。まあ、この身分証も出所が全く分からないんだし、聖女っていうのもどこまで信じていいかは分からないわね」
アンナはユウの身分証の端っこを摘まんでぴらぴらと宙で揺らす。
ユウの身分証は、この世界で使われているものと全く同じに見える。上半分の一番上の段に名前と年齢、その下の段に職業と所属が記されており、アンナのものは
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アンナ・ガーネット 17歳
ギルド職員 ギルドコルヴァ支部
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ユウのものは
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ユウ・シチテンザン 17歳
聖女 空欄
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となっている。所属は場合によっては空欄になることもあり、ユウの現況を鑑みればそれも妥当である。
少し気になる点があるとすれば、身分証の下半分部分だ。
そこの左側、つまり身分証の左下には正三角形の中点を結んで3等分した図形が描かれている。これは全ての身分証にあるステータス欄である。
この世界でのステータスは、世界の理に対する熟知度である『理力』、魔法の使用に必要な『魔力』、扱える魔法の種類を示す『属性』の3項目となっており、等分された三角形の上の欄は理力、左下は魔力、右下は属性をそれぞれ色で表すようになっている。
が、ユウの身分証では全ての欄が空欄となっていた。ステータスの測定には精霊の力を借りる必要があるが、15歳になり教会で身分証を発行してもらう時、教会が開発した精霊晶玉で一時的に精霊を身に宿すことで測定できるため、ここが空欄であることは珍しい。それは必然的に、ユウが精霊を身に宿していないことを表しているのである。
(まあ、ユウの話だと異世界ではユウの一族が特殊なだけで、魔法も精霊も全く一般的じゃなさそうだし、そういうものなのかしらね)
アンナはユウのざっくりとだけ聞いた身の上話を思い出し、納得する。そして、魔法なしで異世界ではどうやって生活しているのだろうと不思議に思う。が、それよりもテーブルの反対側からアンナが持つ身分証の裏側をジっと見ているユウの方が気になった。
「ユウ、一体何を見てるの?」
「あっ、いえ。身分証の裏側に何やら文字がぎっしり書いてあるので、何なのかなー、と」
「裏側?身分証の裏側なんて何も書かれて……。うえぇ!?何よこれ!」
アンナは身分証を裏返して、驚愕した。身分証裏側は本来何も書かれていない空白。しかしユウの身分証の裏側には、奇妙な数字と文字が羅列されていたのだ。
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エイデアス 530/4/6(土) 7:20
日本 2020/7/7(火) 21:12
(初回来訪者が滞在中のため停止中)
滞在可能時間 1:52 【即時帰還】
※土・日曜日(日本時間)毎に再来訪可能
※即時帰還した場合、次の土・日曜日まで再来訪不可
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そう書かれており、情報量が多くて二人は何からツッコめばいいのか分からず、身分証を覗き込みながら数秒の間沈黙する。
「……えっと、エイデアスっていうのはエイデアス大陸、今私たちが居る大陸の名前で間違いないでしょうし、一番上の数字はこっちの世界の時間を表してるみたいね」
「その下は私の居た日本の時刻のようですが……、止まってますね。初回来訪者が滞在中のため停止中とありますが、初回来訪者とは私のことでしょうか?」
「さあ?その可能性は高いけれど、確実なことは言えないわね。それよりも、この減っていってる滞在可能時間と即時帰還の文字……」
「私、元の世界に帰ることになるんでしょうか?」
帰れる可能性が見えたというのに不安そうなユウを見て、アンナはその心境を察する。縛られた生き方しかできない元の世界に戻るのが嫌なのだろう、と。
「うーん、誰が何の目的でこの身分証を作ったのかは謎だけれど、嘘でこんなことを書く意味も思いつかないし、今は書いてあることが本当だと思うしかないんじゃないかしら」
「うぅ……、そう思いますか?私、元の世界に戻って家から抜け出したのがお父様に知られたらどうなるか……。というか、それ以前にあの世界での私はトラックに轢かれてグチャグチャになったままだったり……」
元の世界に戻った時のことを想像し、ユウの顔がみるみる青ざめていく。ベッドで死にかけていた時よりも血の気が無くなっているかもしれない。
「グ、グチャグチャのまま……。それは最悪ね。けれど、そんなことはないと思うわ。そうなるとしたら、ユウがこの世界に来た意味が無くなるし、私はヴィナサラポーションをただただ失っただけになるし」
「そ、そうですね!いくら運命が意地悪でも、そんな仕打ちはないと思います!私なんかのために貴重なポーションを使ってくれた恩をアンナさんに返すまで死んでも死に切れませんし!」
根拠のない推察でしかなかったが、ユウの顔色が幾ばくかマシになった。
「その意気よ。それに、さらっと凄いことが書いてあるけれど、どういう仕組みなのか何度もこっちに来れるみたいだし、また気晴らしにでもいらっしゃいな。まあ、その時こっちにどれ程もてなす余裕があるかは分からないけれど」
「いえ、その時はお気遣いなく!むしろ私が全身全霊をもってアンナさんの力になりますから。なんなら雑巾代わりに使ってくれても構いません!」
「えっと、比喩よね?掃除を頑張ってくれるっていう。あなた、酷い扱いに慣れてそうだから本当の意味で言ってそうで怖いわ」
そう呆れながら、アンナは不思議な気持ちに陥っていた。貴重なヴィナサラポーションを使わされたというのに、まるで後悔も焦りも感じていない。むしろユウと話したことで、これからのことは何とかなる、という楽観的な気持ちが帰ってきていた。孤独を回避できた点以上にこのユウという少女に希望を感じてしまっているようだった。
(人材確保、なんて気楽に考えてしまってていいのかしらね)
そう自分に苦笑いするアンナ。元来しっかり者であるアンナは、ユナやユウのようなどこか抜けている気質の人間と相性がいいのだろう。
「もちろん比喩ですよ。って、それよりも、身分証によると私がこの世界に居られる時間、もう2時間もないってことになりますよね?強制的に帰らされる前に、やっておきたいことがあるんですが」
「やっておきたいこと?ギルドの片付けなら、もう十分なのだけれど」
「いえ、そうではなく、その、この町の被災者の方々に関してでして」
「被災者?それって龍災のよね?それなら生存者は一人も居ないって話はしたはずだけれど」
アンナはユウが情報共有の段階で話したことを忘れてしまったのかと思い、もう一度説明をしようとする。しかし、ユウは首を横に振って話を続ける。
「それは分かっています。そして、私が今からやろうとしていることがただの自己満足であることも。それでも私、この町で亡くなった方々の為に、祈りたいんです。皆さんきっと大切な方や成し遂げたい想いがあったはずなのに、誰に看取られることもなく、遺志を継ぐ者もないまま生を事切らされてしまっただなんて、悲しいですから」
自己満足などと言う割に、苦しそうに胸に手を当てるユウ。そして、その瞳に宿る慈愛の意志は正しく聖女のものだった。
「あー、そういうことね。見ず知らずの死者に、なんてお人好しなこと。ま、何かが減るわけじゃないし好きにすれば」
この町で死んだ人の事など全く気に掛けていなかったアンナは、ユウに人徳の差を見せつけられた気がして、投げやり気味に答える。
しかし、ふとあることが脳裏によぎる。それは、3か月もの間この街の復興が全く手つかずだった理由だ。
通常、人が死ぬと、その魂は天へと昇り、天の精霊によって新たな命へと吹き込まれる。その過程は非常にゆっくりで、自然に任せた場合は5年はかかるものだ。そして、その初期段階では魂は地上付近を彷徨うのだが、死者が非業の死を遂げていた場合、そこから抜け出た魂は怨念となって生ける者に害を成すようになる。その主な害である魔力障害は、影響を受けた生者の魔力を恒久的に低下させるため、魔力こそが生活の糧である冒険者は特にその影響を忌み嫌うのである。
怨念が少数であれば魔力への影響はほぼ無いも同然のレベル。しかし、この町を襲った龍災の死者は推定六千人を超えており、一週間もこの町に留まれば魔力への看過できない悪影響が起こると予想される。
怨念が生者に影響を与える高さから離れるまで約2年、国中の聖職者を集めて救済を試みたとしても、その死者の多さからして1年は要するとされていた。
(ギルド職員は魔力が必要じゃないから私は魔力障害が起こってもあまり痛くないけれど、それでもあると便利ではあるのよね、魔法。魔力災害、ユウがなんとかしてくれないかしら)
ユウ本人は力が弱いと言ってはいても、一応は聖女である。少し魂の昇天を早めるくらいはできるかもしれないと、アンナは期待した。
(あ、でも、精霊の力も借りれないんじゃ無理か)
精霊の力無しでは魔力の使用効率がガタ落ちする。その原則を思い出して、アンナはすかさず期待を取り下げてしまう。いくらユウに希望を感じていても、非現実的な期待を寄せるのは自重しなければならない。
そんなアンナの心境の上下など露知らず、ユウはギルドの外へと出た。
(感じる、無念の声、怨嗟の叫び、胸が締め付けられるような……。どうか、私の祈りで少しでも安らかになれるよう)
胸の前で両手の指を組み合わせた。そのまま目を瞑り、実家の兄弟たちが練習しているのを陰で聞いて覚えた祈祷の文言を発する。
《俗世を彷徨える魂よ。天の導きに従いて、清らかなる浄星の輝きに絆し給へ》
それは、ユウの初めての祈り。純潔の願い。願いを受けた天の川が淀みなく流れるように、澄んだ真心がユウの内から奔流を描き解き放たれる。
それは町全体に無数の金色の光玉をもたらした。
「……え?」
数多の光が輝跡を残しながら競うように天を目指す光景に、アンナは言葉を失う。龍災で滅びた町が喜びに包まれたように眩く輝く中、声すら出せずに立ち竦むことしかできない。
異様過ぎるその光景に思い当たる節が無いわけではない。聖職者が死者を弔った時に発生する、天の精霊が死者の魂と結び付いたことで迸る最後の輝きであり、それはアンナも幾度か目にする機会はあった。
しかし、問題なのはその規模である。空を見上げればおびただしい量の魂の光が天へと還っていくのが見えた。
力のない聖職者、その上精霊無しでこの規模の祈り力を発揮するなど、前代未聞である。
「……」
人智を超えた力に唖然とするアンナの隣で、ユウは静かに祈りを捧げ続ける。最後の一つの魂まで誠心を込めて見送るように。それが天高く昇っていくと、ようやくユウは目を開けた。
「ふぅ……、初めて誰かに祈ることができました。日本では父に禁じられていましたが、この世界なら問題ないはず。って、アンナさん、どうしたんですか?」
一つ息を吐いたユウが、隣で空を見上げ硬直しているアンナに心配の声をかける。
「……どうしたもこうしたも無いわよ!なんてことをしでかしてくれるのよ!」
「え?ええー?わ、私、何かしてしまったんですか?」
我に返ったアンナが最初に発したのは怒声だった。ユウは自分が何をしたのか自覚がなく、突然の怒りに狼狽えるしかなかった。
「なんであなたが分かってないのよ!あなたの祈りでこの町に停滞してた魂が全部救済されちゃったのよ!?」
「えっ、救済?私が?何かの間違いではないでしょうか……?」
「間違いなわけないわよ……。ユウが祈ってる間、天へ還る魂で空がとんでもないことになってたのよ?完全にユウの祈りが原因だったのに、どうして自覚がないの?」
「す、すみません、集中していたもので……。私にそのような力があるともまるで信じられず……。えっと、それで、魂が救済されるとどのような問題があるのでしょうか?もしかして、悪いこと、例えばまた龍災が起きたり……?」
ユウは不安に駈られながら、か細い声でアンナに聞く。そんなユウの様子を見て、アンナは自分が取り乱しすぎたことに気付き、一度深呼吸してから返事をした。
「いえ、あり得なさ過ぎて気が動転しちゃっただけで、怒ったわけではないの。ごめんなさい。悪いことは別にないのよ。むしろ、町の復興にはこれ以上無い貢献をしてくれたわ。強いて言えば、こんなのどうやって上に報告すればいいのか途方に暮れなければいけないことくらいね……」
ユウが聖女と呼ぶにふさわしい力を持っていることは証明された。が、異世界から来た聖女が町の復興を妨げていた大量の死者の魂を全て救済したなどと言っても、誰も信じないだろう。実績を求めてはいたが、それが過剰すぎることで困るとは思いもしなかった。
そのことにアンナは頭を悩ませ、はぁ~~~~、と長いため息を吐いた。
「あ、そういうことでしたか。それなら、私も一緒に方法を考え……、あぇ?」
「っちょ……!」
やらかした訳ではないと分かりホッとしたユウが、アンナの新たな悩みを解決するためにギルドの中に戻ろうと歩き出したその時、彼女の体が大きく傾き、倒れ行く。
いち早く気付いたアンナが慌ててその体を抱き支え、なんとか地面に顔面を激突させずに済んだが、あわや大怪我寸前であった。
「ありがとう、ございます……。あれ、何で体に力が入らない……?」
「何でも何も、魔力の使いすぎでしょうね。精霊無しであの力の行使、むしろ意識があるのがおかしいくらいだもの。後のことはもういいから、あなたは休んでなさい」
「あっ、魔力というもの使いすぎるとこうなるんですね。すみません、お手を煩わせて……」
アンナは思うように体が動かず困惑するユウの腕を自分の肩に回し、ギルド内に連れていく。
(あんな無茶をすればそれはこうなるわよね。けれど、ユウがもし精霊を宿したら、その時は今回の比ではないとんでもない力を発揮できてしまうのではないかしら?)
聖女という伝説の力の凄さを目の当たりにし、アンナは今後のユウの扱いは慎重に決めなければならないと心に銘じた。ユウが魔法で悪事を働く可能性はまず考えられないが、強すぎる力はそれが喩え癒しの力であったとしても、世界に悪影響を及ぼしかねないのだから。
ユウが元の世界に帰る時間がやってきた。刻々と減っていった滞在可能時間は残り0:02と表示されている。
「はぅ……、緊張します。無事に元の世界に戻れるのでしょうか」
椅子に座って休みながら、そわそわと組んだ指を揉み合わせるユウ。
「そこはなるようにしかならないんだから、気にしすぎると時間の無駄よ。それよりも、無事に戻った時にどうするか考えた方がいいんじゃないの?」
「それもそうですね。トラックに轢かれて助かるはずのない私が、急に無傷で動き出したら大騒ぎになるはずですし、実家にもすぐに伝わります。うぅ、その時のお父様の怒りを想像すると、いっそ死んでいた方がマシな気が……」
「はぁ、気を紛らわすつもりが逆効果だったみたいね。それなら、幸運のおまじないを教えてあげる。手のひらを広げて見せてみて」
「おまじない?えっと、これでいいんですか?」
ユウはアンナに手相を見てもらうかのように左の手のひらを差し出した。掃除が得意な者とは思えないきめ細やかな手に一瞬見惚れそうになるも、時間がないことを思い出しアンナはすぐさま行動に移した。
「いいわ。それで、私が親指と中指と小指を合わせて、こう、3回ユウの手のひらの上を円を描くように滑らせるの」
「ひっ、ふふっ、くすぐったいです!」
アンナの指が作った歪な狐の形がユウの手のひらにじゃれつき、ユウの口から上ずった笑い声を引き出す。
「そうでしょ。くすぐったくて笑うのを利用した古典的な荒療治だけれど、無いよりはマシじゃないかしら」
「あっ、そういうことでしたか。ネタばらしされなければ、幸運を呼ぶ効果が本当にあると信じてました。何と言っても未知の異世界ですし」
ちょっと詰まらなさそうに唇を尖らせたユウだったが、効果は十分であった。気が和らいだ状態で、ちょうど滞在可能時間が0になる瞬間を迎えた。
「時間ね。それじゃ、またね」
「はい、また!」
お互い笑顔を向け合いながらその時を待ち、これで何も起こらなかったら気まずいとアンナの心に過ったが、次の瞬間にユウの体がふわりと光を放ち、そして姿を消した。
ユウが来ていた受付の制服だけがパサっと椅子に着席しアンナは冷や汗が出そうになったが、窓の外に洗って干してあったユウが元々着ていた服が消えているのを見て、多分裸にはなってないだろうと推察した。
どうやら、身に付けている物であっても世界間の物の移動はできないようになっているらしい。
また、ユウが居なくなったことで、アンナは途端に周りがとても静かになり寂しさを覚えてしまう。
(行っちゃった。ここに来たときはしばらく一人なのも覚悟してたけれど、こうして人との交わりと経験しちゃうと辛いものがあるわね)
しばらくユウが座っていた椅子着ていた制服を見つめながら、アンナはユウが再びここを訪れるのを自然と期待してしまうのだった。
一瞬意識が暗転した後、ユウは自分が固い地面の上に横たわっているのが分かった。深呼吸、そして体を動かそうとすると、そこには確かに問題なく動く手足が付いていた。
(状況は変わらず。良かった、こっちでも怪我は治ってるみたいですね)
懸念点の一つであった怪我の状態の巻き戻りは起こらなかった。
そのことに安堵したユウは、ゆっくりと体を起こす。すると、自分の周りから、甲高い悲鳴を含むざわめきが聞こえた。そこでユウは事故直前に周りに多数の人が居たことを思い出した。見渡せば、遠巻きに立つ野次馬たちと、ビルに突っ込んで炎を上げるトラック。彼らが悲鳴を上げる理由も察しが付く。彼らからすれば、暴走トラックに跳ね飛ばされ全身の骨が砕けているはずの人間が血だまりの中から起き上がるという、恐怖映像が目の前で流れているのだろう。
「あの、大丈夫です!アンデッドではないので!」
手をバイバイと振りながら大声で叫ぶも、最初に釈明すべきことではなかったなと反省する。
「アンデッド??いや、え、動けるの?嘘?いや、嘘じゃないに越したことは」
事故の時にユウに危ないと叫んだおじさんが、完全に幽霊でも見るような青い顔ながらも勇敢にユウに声をかける。ユウがトラックに跳ね飛ばされるのを一番近くで見ていた彼には、動けないどころか即死だとすら思えたはずだ。しかし、高速でまばたきを繰り返しても、彼の目には明るく手を振るユウの姿は変わらず映っていた。
(うーん、もう少し死んだふりをしていた方が良かったでしょうか?まあ、そこはもう仕方ないですね。それよりも……)
ユウは視線を胸元へと向ける。異世界で借りっぱなしだった受付嬢の制服、ではなく、この世界で着ていた服に戻っている。そして、胸ポケットには見覚えのあるカード、『身分証』が入っているのを確認した。
530/4/6(土曜日) 9:14
日本
2020/7/7(火曜日) 21:14
滞在可能時間 0:00
※土・日曜日(日本時間)毎に再来訪可能
※即時帰還した場合、次の土・日曜日まで再来訪不可
(これがあるということは、あの出来事は夢ではなかったということですね。滞在可能時間はとても正確でしたし、再来訪というのも本当にできそうですね。次の土日が楽しみです。が、その前に色々と壁がありそうですね……)
少しすると救急車や警察がやってきて、やはり血だらけなのにピンピン動くユウに狼狽えていた。
そして慌ただしく救急搬送される最中、ユウは自分の身に起こった奇跡とも言うべき体験を病院の人間に、そしてすぐこの異常事態に気が付くであろう本家の父親にどう説明すべきが、ひたすらに頭を悩ませるのだった。