26.フィリ・セアダズル④
≪エイデアス 4/16(木)8:11≫
フィリは、それはもうぐっすりと眠った。これまで休めなかった分の負債を取り戻すため、昨日の朝にレナードから解放されて家に帰ってから脅威の六度寝を達成していた。フィリを包むのは布団の温もりと無限の微睡み。フィリは自分の尊厳取り戻されていくのを感じていた。何者にも邪魔されることの無い休息こそ、人生において最も尊いものだと再確認する。
「起きてください」
「むにゃ……後10時間……」
「起きないなら添い寝しますよ?」
「勝手にすれば~~~……」
「そうですか、それでは遠慮なく」
愚かにも睡眠を邪魔する声が聞こえた気がしたが、フィリは適当にあしらい、それ以降声がしなくなったので7度目の惰眠に堕ちようとした。
しかし、急にベッドが狭くなり、フィリは不快に感じる。流石に7度寝ともなれば布団のコンディションが良くないと眠れない。
(なんか邪魔~……。えい)
「ごふっ」
「んえ……?」
寝ぼけながら、フィリは急に布団の中に生まれた障害物に両の拳を突き出した。それは呻き声を上げ、掛け布団を巻き込みながらベッドから墜落する。
フィリはようやくおかしな事態になっていると認識し、目を開けて体を起こす。そしてベッドから転げ落ちた物体を確認して……。
「い、イヴ君!?会いに来てくれたのね!」
見慣れた幼なじみにして婚約者(事実無根)の姿がそこにあった。予期せぬも嬉しい訪問に、フィリはその胸に飛び込もうとする。
しかし、その前に目の前の男が悔しそうに唇を噛みながら話始めた。
「なるほど、そう来ましたか。このまま勘違いされておけばどうなるのかは気になりますが、それよりも昨日の今日で忘れられる方がショックなので正体を明かします。僕はレナードですよ」
「レナード……?って!昨日の変態暗部職員!」
その名前から昨日の嫌な出来事を思い出し、フィリはベッドの上で体を跳ね上げる。こんな男に抱き付こうとしたことに虫酸が走った。
「なんでうちに居るのよ!ふほーしんにゅーってやつ!?」
「ギルドの同僚だと言ったら普通に入れてくれましたよ。この顔を見たら貴女の母親は頬を赤くして光の速さでこの部屋まで案内してくれました。面食いは母親からの遺伝ですかね?」
「ママのばかあああ!もうっ、てゆうかいつまでイヴ君の姿で居るのよ!あたしを騙す為にその姿になってるならもう必要ないでしょ!これ以上あたしのイヴ君を汚さないで!てゆうか本当の姿くらい見せなさいよ!」
「エヴァンの姿は何かと便利ですからね。彼にも許可は貰っていますし。まあ別にエヴァンである必要はもうほとんど無いとは言えますが、本当の姿を見せるわけにはいきません」
「何であんたなんかにイヴ君がそんな許可を……。てゆうか、本当の姿を見せたくないって、もしかして実はすっごくブサイクなの?」
「ふふふっ、それ以上言うと怒りますよ?まあエヴァンと比べればこの世のあらゆる男性はブサイクですが。真の顔を隠している方が暗部っぽくて良い、それだけのことです」
「はあ……?」
やはりフィリにはレナードの感性が理解できなかった。そんなものを理解するのに労力を費やすくらいなら、布団の中に潜り込みたかった。しかし、掛け布団はいつの間にかレナードによって畳まれ、レナードの座布団と化していた。これでは眠りようがない。
「さて、戯れもこの辺にしておいて……。僕は仕事の話をしに来たのです」
「仕事ぉ!?やだ、仕事やだぁ!」
「まあまあ、そう言わずに。仕事があるから休みには価値が生まれるのです。貴女の大好きな休みをもっと充実したものにしたくありませんか?」
「もう騙されないわよ!休みはそれ自体が尊いものなの!仕事なんて頑張ってもどうせ誰も褒めてくれないし、最も無駄な時間の使い方だわ!」
「誰も褒めないのは、褒めるに値する働きをしていないからでしょう。その点、今回の仕事を完遂できれば、貴女は英雄となり、誰もが貴女を超絶に褒めまくることでしょう」
「……英雄?一体どんな仕事よ?」
掛け布団が無いからと、代わりに敷きシーツに包まって抵抗の意志を示したフィリだったが、結局レナードの話術に思わず顔をひょこんと出してしまった。
「ある人物の尾行ですよ。フィリを裏から操る人物が判明したので、その人物から証拠を手に入れるのです」
「えっ、早!もう犯人が分かっちゃったの?すご」
「凄くはありません。恐らく貴女の魔法で捜査が撹乱されていただけで、点数改竄のタネが明かされれば誰でも分かることでした。《不存在》、本当に恐ろしい魔法です。っと、そういえば貴女の魔法に関して少し気になる点があるので、試しに今、使ってください」
「気になる点?一体何よ?」
「貴女が気にする必要はありません。今から5秒後に《不存在》を使って、その10秒後に解除して下さい。これは命令なので、従わなければ落伍冒険者になってもらいます」
「ひえっ!わ、分かったからその脅しは止めてよぉ!《不存在》!」
フィリは慌てて従った。そして、《不存在》を使った状態で部屋から逃げ出してしまおうかと思った。しかし、それは思い直す。何故なら、そうしたところでレナードから逃れることはできないからだ。
以前、仕事の始業時間に《不存在》を使ったことがあった。そうすれば、出勤していなくても誰もフィリが職場に来ていないことに気付けず、働かなくても皆に働いていると思わせることができるのでは、と思ったのだ。しかし、現実はそう上手くいかなかった。《不存在》の効果時間は、魔力が最大の状態であっても30分しか続かない。そのため、発動中はよくても、効果が切れた途端に『あれ、フィリ居なくない?』と他の職員に気付かれてしまい、無断欠勤として家に連絡&呼び出し説教を食らう羽目になったのだ。
《不存在》が他者のフィリへの認識を不可能にするのはあくまで発動中のみ。発動前と効果終了後のフィリに対する認識が歪められることはない。30分姿をくらました所で、この如何にも粘着質そうなレナードという男から逃げおおせることなど出来ない。
「いーち、にー……」
諦めて普通に10秒数え始めるフィリ。レナードにジーっと見られながらで落ち着かない。
「さーん、よーん……って、あれ?」
ここでフィリは違和感に気付く。魔法は発動中だ。なのに、レナードの視線は確実にフィリを捉えている。たまたまかもしれないと、そーっと動いてみる。レナードの瞳がそれに従って動く。それもたまたまかもしれない。フィリは思い切ってレナードの額に指を近づけ、デコピンをしようとする。
「その手は何ですか?フィリ」
「ふぎゃあ!?」
見えていないはずのレナードに喋りかけられ、フィリはひっくり返った。
「ななな、何であたしが見えてるの!?」
「ふむ、その驚きようは本当に魔法を使っていたみたいですね。とすると、予想は的中のようです。その《不存在》、発動の瞬間を見られると、効果が発揮されない。それが見た人間だけなのか、全ての人間が対象なのか、その辺りは要検証ですが」
「え……、使う瞬間を見られちゃダメってこと?」
「そうなりますね。その魔法は強力すぎるため、何かしらのリスクはあるはずだと思いましたが、思った通りで良かったです。これが分かったのはとても有意義なことですね。とにかく、使う際はくれぐれも周囲に人が居ないかの警戒を怠らぬようお願いします」
「あ、うん、わかった……」
フィリは頷きながらも、釈然としない。自分の魔法なのに、レナードの方が理解度が高くなっている。まあ、頭の差が歴然なのだからそれも仕方の無い事なのだが。
レナードに家から連れ出されたフィリはギルド本部へとやって来ていた。既にレナードが異動の通知を出しているため、もう入ることはないであろう、かつての夢の城。今では暗部としてこそこそ総帥の像の裏に隠れることしかできない。そうしているのは、今日の仕事のターゲットを追跡するためである。
「ねえ、それで、真犯人って誰なの?」
真犯人がギルド本部に居ることしか聞かされていないフィリが、痺れを切らしてレナードに問いかける。
「ギルド総帥秘書、カトレア・ファスモダンです」
「うそ!?カトレア!?そんなはずないわ!」
あり得ない、そう感じたフィリは声を荒げる。
フィリはカトレアのことをよく知っていた。若くしてギルドの信用を勝ち取り、総帥秘書に抜擢されてからは祖父の側によく控えていた人物だ。それだけでなく、何度も遊んでもらったこともある。
だからこそ、フィリはカトレアが悪人であると言われても信じられなかった。実直な印象が強く、ギルドを裏からかき回すような真似をするとも思えない。
「他に居ませんから。調べてみたところ、現在ギルド総帥はお忍びで『空崩』対応の指揮に出向いています。この場合、総帥権限は秘書に移ることになりますから、総帥の名で新人ギルド職員をコルヴァに送ることも可能になります」
「……カトレアがお爺ちゃんの力を勝手に使って悪いことをした、って言いたいわけ?」
「そういうことです。それより重要なのが、公示無しで総帥に出向させる権限を持っているのが王族しか居ない点ですね。学校の卒業のタイミングに合わせて総帥の権限をカトレアに移させる、偶然というにはシビアなタイミングなので、王族のどなたかもこの件に関わっていると見なければいけません」
この国では貴族である公爵と同レベルの権力を持つのがギルド総帥だ。表向きではギルド総帥は平民で貴族より格下ではあるが、実質的には貴族は総帥の仕事に口出しできない。その為、裏に居る人物は一気に絞られることとなった。
「今の王族は国王、正室とその嫡男の第一王子、側室とその子息の第二王子と息女の第一王女のみ。第二王子ベストウェイ・アースウィンは出奔して行方不明、第一王女ポーラレイラ・アースウィンはまだ14歳と幼く政治的な権限を持たないため、候補から除外されます。他は全員疑わしさは割とフラットですが、誰が黒幕でも大物には違いありません。どうです?王族の悪事を暴けば、英雄と言われるに差し支えないでしょう?」
英雄と言う耳障りの良い言葉、普段のフィリなら何も考えずに流されていたところだ。
しかし、今のレナードの小難しい話は、フィリの耳のほとんど届いていない。
「……難しい話、よく分かんない。けど、カトレアを疑うあんたのほうが怪しい」
「証拠がこれだけ揃っているのですがね。彼女を信じる特別な理由でも?」
「だって、カトレアはよく遊んでくれた友達だもん」
「遊んでくれたのは総帥に取り入る為でしょう。総帥の信を得なければ権限の委譲など望めませんからね。……まあ、あなたがカトレア秘書を信じるというのならそれでも構いません。彼女の潔白を証明するためにも、今回の任務は遂行してください」
不貞腐れた子供のようになっているフィリをあやしつつ、レナードは任務の説明を始めた。
今からカトレアが誰かと密会をする動きがある。その相手が王族である可能性が高いため、王族の内の誰が何を企んでいるかまで判明すれば、不明瞭な点が多い今回のアンナ周りの件の解決に一気に近づけるはずだ。
そして、カトレアを尾行し、その密会への潜入をするのがフィリの役目だ。
物陰に隠れること十数分。カトレアは、レナードが予想していたよりも早い時間に職員用の裏口から出てきた。出るや否やフードを被り顔を隠す様子は見るからに怪しい。急いでいるようで、銅像の影に居るフィリ達には全く気付くことも無く、正面門から出て行った。
「表向きでは老朽化した本部改修の依頼の為の外出となっていますが、それなら顔を隠す必要はないはず。尾行すれば必ずや尻尾を見せるでしょう」
「尻尾?カトレアって獣人なの?」
「そうですねぇ。狐かはたまた蛇か、何の尻尾か非常に気になるところです。でもやっぱり一番愛らしいのは猫の尻尾ですね」
「ぴゃんっ!?ちょっと何するの!」
フィリは昨日の取り決め通りに今日も猫耳と猫尻尾を付けられており、レナードがその尻尾を指に巻き付けるように撫でた。尾てい骨が浮き上がるような、毛の逆立つ感覚に、フィリが体を跳ねさせる。
「すみません、つい手が伸びてしまいました」
「ついじゃないわよ、このセクハラ上司!」
「そんなことよりも、早く追わないと見失ってしまいますよ。ここからは貴女に任せますので、決して存在を悟られぬよう頼みます、フィリ」
「見失いそうなのはあんたが余計な事したからでしょ!あーもう、行けばいいのね行けば!」
文句が言い足りなかったが、本当に見失う前に動かなければいけない。一応、今の変態行動のお陰で、心のモヤモヤが一部吹き飛ばされたので、それでチャラにしておこう、そうフィリは自分を納得させ、カトレアの尾行を開始した。
《不存在》を発動させ、フィリはカトレアの後を追う。家の影に隠れたり樽の中に入ったりと逆に怪しく見える無駄の多い素人以下の尾行を見せるが、誰も怪しむ目をフィリに向けることはない。何故なら、誰もフィリを認識できないからだ。樽が勝手に動いても、道行く人々はそれが自然であるとしか認識しない。その気になれば、堂々と殺人を犯したとしてもフィリが疑われることはない。この状態のフィリはこの世界で最強の生物であると言っても過言ではない。
しかし、フィリ自身に最強の自覚はなく、あるのはただ複雑な思いだった。
(カトレア……。本当にあたしとお爺ちゃん裏切るような真似をしたの?あたしもお爺ちゃんも信頼してたのに)
総帥は固い人物である一方で人情にも溢れる一面も持ち合わせる。総帥が冒険者時代にサタナイト鉱石をギルドに持ち帰った時、サタナイト鉱石に詳しい人物を探し、出会ったのが当時新人ギルド職員だったカトレアだ。身寄りの無かったカトレアを総帥は何かと気にかけ、総帥に任命された際にはカトレアを秘書に指名するほどだった。
そのお陰で地位も名誉も富も手に入れられたというのに、恩を仇で返そうとしているのなら、フィリにとってショックな事実だ。祖父絡みでなくとも、よく遊んでくれた仲浅からぬ相手が自分を巻き込んで悪事を働いただけでもフィリにはショックであるが。フィリは自分に甘いが、それと同じくらい、自分に良くしてくれる人間にも甘いのだ。
(……てゆうかどこ行くの?)
ナイーブな気持ちで尾行を続けるも、なかなか怪しい動きを見せないカトレアに焦れていくフィリ。レナードからは、王族と密会するならセキュリティの高い個室のある店を使う可能性が高い、と言われていたのに、カトレアはそういった店が密集している区域には目もくれず大通りを足早に進んでいく。
そしていよいよ西の際である壁門まで到達してしまう。それでもカトレアの逸るような歩みは止まることがなく、門の外へと出ていってしまった。
(聞いてた話と全然違うじゃないの!あのポンコツ上司!)
フィリのレナードに対する文句が噴出する。可能性が高いだけでそうならない可能性も大いにあると言外に含んでいたが、フィリにそこまで汲み取る能力は備わっておらず、無慈悲にレナードの評価が下がることとなった。
最終的に辿り着いたのは、壁外にある狩人の古い小屋だった。カトレアは周囲をよく確認してから中に入り、すぐ後ろ付いていた(隠れる必要のなさに途中で気付いた)フィリも一緒に小屋へと入り込む。
中は錆び付いた狩りの道具と休憩用の椅子が散乱しているだけで、特に変わったところの無い誰も使わなくなったボロ小屋、という印象だ。密会するにはうってつけかもしれないが、王族と会うのに使う場所としては全く相応しくない。密会にしてもわざわざ都外に出るのは用心が過ぎるように思われる。
カトレアが頻りに腕時計で時間を確認しているところから、誰かあるいは何かを待っているのは確定的だ。
(あ、時間。あたしも魔法の効果が切れないか確認しないと。……ん、なにこれ?)
フィリはカトレアの腕時計覗き込んで時間を確認しようとする。《不存在》の有効時間を確認するためだが、そもそも使用開始時間を覚えていないので特に意味はなかった。だが、代わりに気になるものが目に入る。
カトレアの左腕、手首の腕時計のすぐ下辺りに、謎の入れ墨があった。天に昇る龍を巨大な槍で串刺しにしたような紋様。普段は袖で隠れている部分であるため、オシャレ目的とも思えない。
龍はギルドからは恩恵の主として神聖視されているため、ギルド総帥秘書であるカトレアがこのような入れ墨を施しているのは、ギルドに対する叛意有りという証拠に他ならない。フィリがそこまで気付くことは無かったが、レナードに渡されたメモ用紙に暇潰しにその紋様書き写し始める。
そんなことをしている内に、ドアが開いて別の人物が入って来た。天井に頭が当たりそうなほどの巨躯を持つ男。だが、驚くべきはそこではない。その男の背中には悪夢のような悍ましさを放つ数十本の黒い触手が蠢いていた。その異形は魔族の象徴。カトレアの密会相手は魔族だったのだ。
魔族は各々が凶悪な異形を成しているだけでなく、人類に対して敵対的だ。魔族の数は少なく所によっては都市伝説扱いされているものの、実際に人間の町に現れれば即座に警報級の対応が発動され、討伐対象となり、教会や兵士、そして冒険者達に排除されることになる。町に入ることすら難しいのだから、密会にこのような人気のない場所の小屋を使うのも頷ける。
(な、何よこいつ……!)
忌避感を覚えるのはフィリも例外ではない。その気色の悪さと存在感から、壁に背を張り付けて距離を取る。狭い小屋の中に明らかに危険な魔族と同居しているのは、いくらフィリが認識されないからと言って容易に安心できる状況ではない。
「ゴディオバーグ様、ご足労いただきありがとうございます」
カトレアが魔族の男に向けて深々とお辞儀をする。フィリの目には、カトレアの身が震えているように見えた。
「ふん。いいからさっさと報告をしろ」
「はい。火の光の巫女をコルヴァに押し込める作戦は恙無く完了致しました。彼女の心に闇が芽生えて地龍が目覚めるのも時間の問題でしょう」
ゴディオバーグと呼ばれた男がカトレアを見下して威圧する。それに対するカトレアの返答は落ち着いているようで、やはり微かに震えを伴っていた。
(火の光の巫女?アンナのことっぽいけど、どうしてそんな変な呼び方されてるのかしら?それよりも、地龍が目覚めるってばかみたいな話の方が重要かも?)
ちんぷんかんぷんながらも、フィリは二人の会話を必死にメモに残す。フィリには分からなくとも、レナードに伝えれば何か見えてくるものがあるかもしれない。
「……しかし、問題も御座いまして、町を見張っていた手の者との連絡が途絶えてしまいました。何か不測の事態が起きた可能性が御座います」
その瞬間。フィリの頭頂部スレスレを何かがかすめた。バギィ!と木が砕ける音がフィリの鼓膜に突き刺さる。ゴディオバーグの触手が小屋の壁を破壊したのだ。
「ひぇ……」
フィリは自分の存在がバレたのかと思い、恐怖により足から力が抜け木屑の上にへたり込む。
「監視すらも満足にできぬのか!!貴様が任せろと言うから任せてやったというのに、なんという体たらくだ!」
次に響いたのは、ゴディオバーグの怒号。怒りの矛先はフィリではなくカトレアであり、カトレアもまたフィリと同じように恐怖に怯え切っていた。
「も、申し訳ございません!態勢は万全だったはずなのですが、予測不能な事態が起きた可能性が高く……」
「もう良い」
「え?」
「多少は使える奴かと思っていたが、所詮は愚かな人間の身だな。今後は我の血肉として我に貢献すると良い」
「あっ……」
死の宣告を受けたかのように、カトレアの顔が絶望に染まる。ゴディオバーグの背から触手が一本伸び行き、カトレアの口内へと侵入した。
「あがっ……、うっ、げぉ……」
喉から入り込んだ触手に体内を侵され、苦痛に喘ぐカトレア。床の上をのたうち回り、虹彩の縮み切った瞳はギュルリと回転して白目となる。やがて動くこともままならなくなり痙攣するだけになった後、カトレアはピクリとも動かなくなった。
「カトレア!?うそ、でしょ……?何なのあんた、どうしてこんな……!」
一部始終を見ていたフィリが、その惨たらしさに思わず声を上げる。幸いにも《不存在》の力は声すら認識されなくなるためゴディアバーグにバレることは無かった。
「では行くか」
ゴディオバーグが怒りの収まった声で呟く。誰に言ったのか分からないその言葉であったが、それに従うように床に伏して動かなくなっていたカトレアが、まるでゾンビのように立ち上がる。
「はい」
生気の消えた瞳のカトレアが、感情の無い声で返事をする。
その後ゴディオバーグはカトレアを引き連れて小屋から出て行った。しばらく放心状態となったフィリだけが残される。
「あっ、魔力が……。早く戻ってレナードに報告しなきゃ……。うぅ、カトレア、カトレアぁ……」
《不存在》の魔力切れによる発動限界が来て気を取り戻したフィリは、フラりと立ち上がる。カトレアがやはり悪人だったことへのショック、それでもまだカトレアを大切に思う心が残っており、彼女が酷い目に遭わされたショックの方が大きい。
こんな大変な仕事になるとは思っても居なかった。フィリにも分かる、途轍もない一大事が起ころうとしている。今知った情報は恐らく王都の誰も知らないことであり、この情報を持ち帰ればレナードが何とかしてくれる。それを頼んで足に無理矢理力を込め、レナードの待つ場所へと急ぐのだった。
覚束無くも、フィリはレナードが待つ酒場へと辿り着いた。入り口で未成年お断りと追い返されそうになるも、成人済みだと分かる身分証を見せつけて店員を引き下がらせることに成功した。普段なら得意気になるところだが、今はそんな気分ではない。どういう仕組みなのか、偽装の猫耳さえもペタンと萎れるほどにフィリの心は疲弊していた。
中で待っていたレナードにカトレアとゴディオバーグの会話内容を記したメモを渡して、テーブルに突っ伏する。
「ふむ、これは難しいですね」
「……なによ、あんたも二人の話が分からないわけ?やっぱりあんたもバカなのね」
「そうですね。これくらいの暗号を解読できないようでは、無能と言われても致し方ないのかもしれません」
「ん?暗号?」
あの二人の会話は確かに何を言っているか分からなかったが、暗号であるとは思えなかった。フィリが訝しみながら顔を上げてメモを見る。それは正しく暗号であった。前半はフィリ本人には読めるものの、元々字が汚いためにレナードにはかなり読み辛い。そして、後半の恐怖に怯えながら書いた部分は、フィリ自身にも読めない濁流のような線が並んでいるだけだった。
「大分お疲れのようなので休んでいてもらいたかったですが、口頭での報告を頼むしかなさそうです」
「……うん」
もっともなレナードの要求に、フィリも応じるしかなかった。夢だと思いたかった先ほどの悍ましい光景を思い返さなければいけないのはフィリにとっては避けたいことではあったが。
「……ふむ、事態はかなり急を要するようです。急いで彼に伝えなければ」
報告を聞き終えたレナードは真剣な顔つきになる。レナードにこの事件の調査を頼んだエヴァンにとっては最重要の情報だと考えた。
「ふふっ、フィリ、急ぎでなければ手を出してしまっていたかもしれませんよ?実に惜しいことです」
報告を終えるや否や力尽きて再びテーブルに伏してしまったフィリの寝息を聞きながら、レナードは本当に残念そうに口端を曲げる。こんな無防備な姿を晒されては何かしらのイタズラを仕掛けたくなってしまうが、そんなことに時間をかけている場合ではない。メイを呼び出して、寝ているフィリをどうにかする権利を仕方なく譲って、レナードは依頼主の元を目指して静かに歩き出した。




